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放課後の掃除当番、ゴミ出しはジャンケンにしようなんて言うんじゃなかった。途中で雨に降られて、教室に戻ったらもう誰もいないとかチョット薄情じゃね?天気予報では雨の予報じゃなかったから傘も持っていないし、部活も休みの今は購買部ももう閉まっている。それに、颯介に会いたくなかった。
駅まで行けばビニール傘を買えると思ったら下足室で本降りになって、それはないよーって忌々しげに濃灰の低い空を見上げる。
貸し出し用の傘は残っていない、止むのを待ってもいつになるか判らない。先週まで30℃を超えていた気温は今週になって25℃を下回るまで秋めいて、この雨は体感温度を低くする冷たい雨だった。
「……だとしたら、仕方なくね?」
誰に言うともなしに独りごちて、雨の中へ飛び出す。
肩を打つ雨は大粒のボトボトで、数歩行ったところで首根っこ掴まれ引き戻された。びっくりして振り返ると、一番会いたくないヤツが怖い顔をして着ているジャケットを脱ぎ、俺の濡れた髪や身体を拭き始める。
「ちょ、何やってんの、アンタの服が濡れるって!」
「バカが、試験前に風邪ひくぞ!」
イヤイヤをするように颯介の胸に手をつくと、白のロングTシャツの滑らかなコットンの風合いが手に馴染んで肌の熱さを伝えて来る。グシャグシャに湿ったこのネイビーのジャケットもタグを見るまでもなく安物で無いと判るのに、すっかり色が変わってしまった。この人はいつもシックに上質なものを身に着けている。ボンボンなんだなと思った瞬間『白兎堂』の事が頭をよぎって心臓がトクンと跳ねた。
「……介は『白兎堂』の…ひと…?」
一瞬、手が止まったのは肯定か……、
「家まで送るよ」
という低く甘やかな声は、こんな時にひどく優しくて、
「いらない。傘貸してよ」
「車、回す」
まったく聞いちゃいねぇ……。
「ここにいろ」と言い残して、颯介は雨の中を止める間もなく駐車場へ走って行った。篠突く雨が露にする広背筋に『触ってみたい』なんて気色悪いことを思って、イカれ具合に、この状況を受け入れて良いものか頭が痛くなった。いっそ、校内に戻ろうかと薄暗い廊下を振り返ったところでブルッと震えが来て、寒さに腕を組み、足をジタバタさせる。
母さんは仕事で今日の帰宅はたぶん午前様だ。このところ、身体が心配なほど仕事を増やしているのも俺の嵩む医療費の所為なんだろうと思うと、これ以上、風邪でもこじらせて心臓に負担を掛けるのはマズイ気がした。
「駅まで……」
そうだ、駅まで送って貰おう。それなら数分だし傘も買えると財布の中を確認したところで、俺はもう一つの非常事態に気付いた。……鍵を忘れた。制服のポケットも鞄の中も何処を探しても家の鍵がない。そういえば学校を休んでいた間に、一度、近くのコンビニへ弁当を買いに出て、そのままジーンズのポケットに入れっ放した気がする。仕方がない。一駅手前のファミレスで時間を潰そうと予備の薬を確認したところで、黒のスポーツタイプのセダンが出入口につけられた。
「乗れよ」
「俺、濡れてる……」
「構わない。俺もだ」
助手席へ促してくれる颯介の声はウットリするほど悠々として耳障りがいい。
「じゃ、そこの駅まで」
「遠慮するな。家は何処だ?」
「あー……いや、……」
「もしかして、素行の悪い購買部のオニーサンの車は危険だと思ってる?」
「オニーサンは図々しくない?」
「そこをツッコむのか」
あはは、と笑って颯介は、車だから傘を貸そうにも持っていない、従って送って行くのだと言ってきかなかった。滑るように走り出した車は車高が低いからか加速するにつれ空が大きく開け、ふわりと羽が生えた心地になる。
「……鍵を忘れてさ」
あっけらかんと言って、
「帰っても、誰もいねぇんだよ」
車窓に眼を遣った。
「それ、誘ってる?」
「やっぱ、そうくる?」
「あー……いや、うち来れば?」
「嫌だ」
「即答は傷つくね」
「笑いながら言うな」
「さっきの……知りたいんだろう?」
白兎堂の件だ。この状況で其れはズルイと思ったけれど、俺には颯介といる口実が自分の為に必要だったから、都合が良かった。
「……行く」
車は30分ほど走って、大きな楠の傍に建つ築ン十年と思しき古いアパートに着いた。錆びた手摺りは触ったら擦り傷の一つも創りそうで、階段は建付けが悪く長身の俺たちが一段昇るたびにギシ、ギシギシと音を立てる。
「マジか……」
六畳と四畳半の二間に台所と一応バス・トイレ付きの狭い部屋……、片付いているというより置く物がなく、目立った物と言えば部屋の隅の段ボール箱にトロフィーやメダル、賞状などが頭を覗かせているぐらいだ。
「バレーボール選手だったって本当なんだね」
言ってからハッとして奥歯を噛む。
「ごめん、怪我だって聞いた。デリカシーに欠けたよね……」
「気にするな。選手生命を考えたら少し早まったが、親父はホッとしているよ」
「お父さん?」
「白兎堂の店主」
「ぁ……、」
鹿野颯介は老舗の菓匠白兎堂の息子だったのか。
「怪我は、もういいの?」
「日常生活に支障はない。臨時職員が終わったら正式に親父の弟子だ。和菓子は好きか?」
そう言って台所の戸棚から出してくれたのは四角い籐駕籠だった。
蓋を開けると栗蒸し羊羹や完熟した干し柿を使った物、栗納豆に和三盆糖を使った芋菓子など颯介の説明を聞くだけでも溜息の出そうな季節の和菓子が沢山入っている。どれも上品で値の張りそうな品ばかり、いつも、見舞いに貰うどら焼きや饅頭じゃない……。
「食べていいの?」
と訊くと、どうぞと相好を崩した颯介は、
「海晴がそんなに嬉しそうな顔をするなら、和菓子屋のオヤジになるのも悪くないな」
なんて椅子に掛けるよう勧めてくれる。あんまり眩しい笑顔でグラッときた。
竹の皮を包んだ紐を引っ張ってみたくて手を伸ばす。
「茶でも淹れようか……、っと、それより風呂か」
「え?」
「何、想像してんのバァーカ。赤くなって可愛いねぇ」
ヤカンを火に掛けっ放しで風呂の支度に行った颯介の揶揄いに、何って何も想像なんてしていなかったはずなのに雨の中から引き戻された時の体温を思い出して、ほんとうに顔が熱くなってきた。
バカはどっちだ、颯介のバァーカ!と悪態ついて竹の結び紐を引っ張る。
「うまそ……」
大きな栗が丸ごと一粒入った羊羹がズッシリと構えていて、急に食べるのが勿体なくなった。色艶も俺の顔が映り込みそうなほど輝いていて、ふくよかな形も栗の黄金色も見蕩れてしまうほどにバランスがいい。
身体が傾いているのにも気付かず眺めていると、
「栗、嫌いか?」
と、お茶を淹れて戻って来た颯介に気の毒そうな顔をされた。
「ううん、好き。母さんが、もっと好き。これ……、持って帰ってもいい?」
言ってしまってから、カァアアアとなって慌てた。
「今のナシ!聞かなかったことにして!」
「どうした」
「だって、マザコンとか思っ……」
「思わないさ。そういうのは親孝行っていうんだ。いいから、食べな。お母さんには他のものを幾らでも持って帰ればいい」
「そういうわけには……」
「どうせ、処分品も混ざっているんだ。形が崩れたとか包装が破れたとか、味に支障はないが俺も食べきれん」
いつもは大家の婆ちゃんトコへ持って行くのだと、颯介は笑った。
「そうなんだ……、じゃ、遠慮なく戴きます」
お茶の香りも甘い。百貨店の専門店で嗅ぐような茶葉の香りに思わずチラリと流し台の上の茶筒を見た。やっぱり……!俺でも判る高級茶葉の銘柄に湯呑を持つ手が震えて、どうしてこんな人が、こんなボロアパートに住んでいるのか見当もつかない。
「旨いか?」
「うん、こんな旨い羊羹、食ったことない」
「そうか。お前はそんなふうに笑うんだな」
笑顔のままフリーズして、途端に恥ずかしくなった。黙り込んだ俺に颯介は、
「シマッタ、言うんじゃなかった」
と、おどけて笑う。不思議と嫌な気はしなかった。この思いがけないおやつの時間が温かくて、もし自分に兄がいたら毎日こんな感じなのかなぁ?って、くすぐったかっただけだ。
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