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私立東陵学園高等学校。 内陸部に位置する小さな町は都市部まで電車で一時間の利便性の高さから、駅の西側に公立高が一校、東側には同学校法人の経営による私立高が二校あり、朝の活気は最高潮に達する。 最寄りの駅からさくら商店街を抜けて緑あふれる公園を出るまでは、麓にある花苑女子学園の生徒たちと一緒に花逍遥の通学路。そこから先は花の香を名残に丘を登り、坂道を上りきったところでやっと校門が見えてくる。日常生活に支障をきたすほどじゃないけれど、俺が心臓に爆弾を抱えていることは一部の教師や友達しか知らないから、坂の途中で失速しては、 「時枝先輩、体力なさすぎです」 なんて、通りすがりの後輩に背中を押されて茶化される。 これが、俺の一日の始まり……。 「あれ?おばちゃん、また休み?」 夏休みが明けてから毎日、購買部を覗いて今日で5日目になる。 所狭しと積み上げられた物品に埋もれて、規則正しく紙擦れの音を立てていた男は、 「代理だけど、何?」 と、物臭に一瞥をくれた。 その眉間には『読書の邪魔をするな』と皺がくっきり刻まれていたが、苦み走ったイイ男というのはこういう男を言うのかも知れないと、母の好きなトレンディードラマの名脇役の顔を思い出していた。毛先に束感を持たせた動きのある髪は落ち着いたアッシュブラウン。俯くと長めの前髪がルーズに零れ、手櫛にするさまに大人の色気を感じる。 「愛想笑いくらいしてよ?」 「つくり笑顔で応対されても気味悪いだけだろ?」 「仏頂面よりマシじゃね?声、掛けにくいよ」 「成程……。キミは年上への口の利き方を覚えるんだな」 「う~ん、どっちもどっちだね」 この男の容貌を文章にするならどう書いたものかとつい考えてしまうのは、文芸部員の癖みたいなものだろうか……、眼と眼が合った瞬間、キラリと光る眼力の強さを表す『炯眼(けいがん)』という言葉が閃いた。形の良い鼻梁、大らかそうな口許から発せられる寝起きのようにまったりと低い声は耳障りが良い。肩幅の広さから上背のある男に思えた。青朽葉色(あおばくちいろ)のリブニットは肩の位置を落としたドロップショルダーの七分袖で上質な手触りが一目で判るゆったりとした着こなしが洒落ている。その袖口から陽に灼けた腕がすらりと伸び、筋張った大きな手は力強く見えた。カウンターに片肘をついて斜に見上げてくる感じがいい。歳は30前後ってところか、説教も説教然としていなくて何処か飄々と、ゆとりのある雰囲気も良かった。 「何かお買い上げ?それとも、キミも俺を見に来た?」 「君も、って?」 「着任して5日、冷やかしが絶えなくてね。上野のパンダもかくやという人気ぶりさ」 「自慢?」 「おいおい、ここは男子校だろ?」 男に注目されても嬉しくないと言いたいのか、げんなりした顔つきで購買部代理職員の男は再び目線を落とした。さっきよりも紙滑りの悪い音がする。 「読書家だね。何冊、持ち込んでいるの?」 「え……?」 「本、変えただろ?」 「どうして判った?」 「頁を捲る音が違うから。それ、低予算のウチの部誌みたいな音がする」 「正解。キミ、文芸部だったりする?」 そう言ってヒラヒラと見せられたのは、今年の春に発行した文芸部の同人本だった。 「あー!それ、どうやって?アンタ、部外者だろ?」 「『アンタ』……言い直そうか」 「ぁ、……あなた、それ、図書室から勝手に持ち出したんじゃねー……んですか?」 呆れ半分の溜息をついた男と憮然と言い直した俺。 偉そうにと言いたくなるのを呑み込んでカウンター越しに身を乗り出すと、 「許可は得ているよ」 と、涼しい顔で言われた。 「国語の教師に須崎っているだろ?ヤツとは同級で、ここの卒業生なんだ」 「それ、職権乱用って言わね?」 男は『告げ口する?』って眼をしながら、しないだろうと高を括っているような顔つきをした。須崎先生が便宜を図ったとして生真面目で物静かな性格だ、独断でないことは訊くまでも無かった。この男が同い年と言うなら、須崎の清潔感あるナチュラルマッシュの黒髪は若く見える。普通科で教鞭を執っていて、生徒たちが『背中に定規でも挿しているんじゃないか』と笑うほど綺麗な姿勢を授業中も絶対に崩さない。右目の下の泣き黒子が丁度いいアクセントで、それも無ければ人肌を感じられるかも怪しいアンドロイドみたいに整い過ぎた容姿をしていた。 「紺地のネクタイは2年生か。タイピン無しは普通科……、アイツの授業は解りやすい?」 「ぇ…、ぁ、はい……」 「文芸部の顧問、須崎じゃないんだって?」 「どうして?」 「こっちが訊きたいね、あれほどの逸材を捨て置くなんて。俺はてっきり小説家になると思っていたぐらいだ。教え上手だしな」 俺は『須崎じゃないんだって?』と訊いてきた男の云いようが不服そうに聞こえたから、国語の教師は他にもいるのに文芸部の顧問が須崎である必要が『どうして』あるんだ?と訊いたつもりだったけれど、 「須崎先生って文芸部だったんですか?」 と、訊くに留まった。 「知らなかった?卒業後も語り草だったが古い話だしな。当時は『流石、特進科の優等生はレベルが違う』って地味な文芸部に入部者が殺到したもんだ」 「地味……」 否定できない。 「オジサンも文芸部だったの?」 「鹿野颯介(かのそうすけ)、『オジサン』じゃない。お前、一々引っ掛かる言い方をするね」 「時枝海晴、『お前』じゃないよ」 そう言い返すと、ギョッとするほど大きな声で笑われた。 「いいね、海晴か。文芸部?」 「うん」 「俺はスポーツ科の出身、バレー部に所属していたんだ。須崎とは読書好きが高じて図書室で知り合った。オーケー?」 「うん。オーケー」 「お前、図体デカくて礼儀もなっちゃいないけど、笑うと可愛い顔をするな」 「可愛いとか言うなよ」 「身長、どれぐらいある?」 「春は180cmだったけど、たぶん伸びてる……ぁ、それで俺、上履きを買いに来たんだった」 「おー……何センチ?」 「29センチ」 「お前、バレーボールやんない?」 「やんない」 「ちっ……」 舌を打った鹿野は「いいカラダしてるのに」とか「もったいねー」とか独り言を言いながら上履きの在庫を見てくれたが、無かったらしい。 「取り寄せになるから、ここにクラスと名前をフルネームで書いて」 と、発注書の備考欄を指差してきた。 「意外と綺麗な字を書くな」 「『意外』だけ余分だろ」 なんて話していた時だ。 「ポエト!素通りするなよ」 鹿野が急に大きな声を出すから心臓がドキッとして顔を上げると、いつも能面みたいに表情を崩さない須崎先生が、これでもかってほど嫌そうな顔をして購買部を覗きこんだ。 「鹿野さん、学内で大声をあげないでください。その妙な呼び名もやめて戴きたい」 「その、お堅い口調もな。不自然だろ?普通に話せよ」 キュッと唇を噛んだ須崎の表情からは困惑の色と……、気のせいか、少し幼い色が窺えた。 「時枝くん、チャイムが鳴るよ。教室に戻りなさい」 「ぁ、うん」 気まずさにペンを置くと、 「『はい』だろ」 と、すかさず鹿野が訂正してくる。一々うるさいヤツだと見下ろすと、 「悪いな、仲が悪いわけじゃないんだ。注文の品は入荷次第、連絡するから、またおいで」 なんて、男でもグラリときそうな優しい笑みで退室を促された。 購買部を出ると背中向こうで「言ったのか?」と須崎の声が聞こえる。 思わず足を止めて耳を澄ますと「生徒の前で余計な事を」とか「職員の自覚が」とか、いつもは月あかりのように穏やかな須崎が矢継ぎ早に言葉を発している。鹿野は黙って説教を聞くつもりか、一言も発しない。途中でチャイムが鳴りだして、俺は慌てて教室に戻った。
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