釣りに出かけただけなのに

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「掴まれ」 「ありがとよ、トモさん──ととと」 トモミツの手助けをもらって岩場に渡ったシゲオは肩に担いだ釣り道具とクーラーボックスをよいしょと直した。 ここはクロダイ、アジが釣れる。 どこから投げようかと辺りをぐるりと見回した時。 「父ちゃん」 「ん?」 妻のシズコがトモミツを呼ぶ。ギアを後退に入れたのか、エンジンの音が変わった。 「何だ」 「迎えには来られねえ」 「来られねえ? 用事け」 「そんなとこだ」 「じゃあ、向かいのタメ坊にで」 「いや、誰も来ねえ」 無表情のシズコの低い声が男ふたりを震え上がらせた。 「ちょっと待て、お(めえ)、何言っとる」 トモミツが遠ざかっていく舳先に取りすがろうとするも、激しく打ち寄せた波に阻まれる。 決して大声ではなかったが、その一言は嫌に響いて聞こえた。 「悪ぐ思わないでな」 「シズコ、待て、戻れえ」 岩に打ちつける波は無情にも声をかき消し、ふたりに冷たいしぶきを浴びせ続ける。 友人トモミツの船が岩場を離れていくさまを、シゲオはがく然として見つめることしかできない。
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