ピルエットをダブルで

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 吉永さんのことは大好きだけれど、吉永さんとのセックスはつまらない。  セックスの上手下手について語れるほどの経験はないし、たくさんの人としてきたわけでもないから、そもそもセックスは楽しいものなのかどうかも、実際にはよくわからない。だけど、吉永さんとのセックスはつまらない、といつも思う。  セックスのことを愛のエクササイズと呼ぶ人がいた。そりゃいいな、と私も使わせてもらうことにした。愛のエクササイズと呼ぶようにした途端、とてもいいもののように思えた。  吉永さんとの愛のエクササイズは、私の全身を物理的にほぐす。突き抜けるようなオーガズム! とか、そういうのは一切ないけど、確実に股関節のストレッチにはなっているし、吉永さんの動きに合わせて腹式呼吸になっている。うっかり漏れてしまう声は吉永さんを刺激するらしく、吉永さんは私の身体に密着し、激しく私を揺さぶる。ときどきつながっているところに痛みが走ると、つい顔をしかめてしまう。だけど吉永さんは私が快楽に溺れているのだと誤解してくれる。ありがたい。  吉永さんの中ではどうやら、瀧本美音という女は、健やかで、いい塩梅に淫乱なのだと解釈されている。それで、いいのです。誤解でもいいですから、私の価値を認めてください。  吉永さんの切れ長の目は、奥二重だ。まっすぐに見つめられるときは、猟奇的で少し怖い。眠たいときのぼんやりした眼差しは、気だるい小動物みたいでかわいい。鼻筋はすっと通り、薄い唇は少しだけアヒル口だ。耳が大きくて、それでいて耳たぶがあまりなく、チェブラーシカみたいに正面を向いているのがコンプレックスで、もみあげを長くすることでごまかしている。長い指は、日によって印象が違う。関節がゴツゴツして、あ、やっぱり男の人なのだな、と思わせるときもあれば、私よりも繊細で女性らしく見えてしまうときもある。そんなとき、私は思わず手をグーに握り、ドラえもんと化す。指が醸す魅力では、まるで敵わないから。肌が女の子みたいにきめ細かくて、それでいて首から肩にかけては女性には出せないラインで、ああもうこれは、確実に男性ではないか、と私は甘い絶望を受け入れる。  愛のエクササイズの間は、吉永さんから汗が降ってくる。背中に手を回せば熱い。私の肌は細胞に水分を蓄え、ふかふかになる。  それなのに吉永さんとのセックスは、実につまらなかった。私は楽しむために大変な努力を払うか、こんなものだ、とあきらめるしかない。  部屋のドアが閉まる音で目が覚めた。自分の部屋ではないことに一瞬身体が強張った。  そうか、吉永さんちに泊まったのか、だって昨日は金曜日だったから。  時計を見ると七時を少し過ぎていた。吉永さんは土曜日なのに、ご出勤。お勤めご苦労さまです。建築デザイン系のブラック企業で働く吉永さんに、土曜日の休日は、あんまりない。  ビールとチューハイの缶が転がるテーブルに、鍵とメモがおいてあった。鍵をかけたら、ポストに入れておけ、と。シャワーを浴びたかったけど、世帯主不在でシャワーを浴び、タオルを使わせてもらうことに気が引けた。  私は床に散らかった服を身に着け、よく晴れた七月の札幌の街を散歩するように帰宅することにした。  一時間近くたっぷり歩いて帰宅すると、弟の諒とヨークシャーテリアの犬太郎が起きていて、諒は自分で朝食を作り食べ始めるところだった。 「パパとママは?」 「車でどっか行った」 「犬太郎の散歩とごはんは?」 「パパがやったっぽい」 「諒は?」 「食ったら学校行く」 「私、シャワー入る。いってらっしゃい」 「ん」  犬太郎をワシャワシャと愛で、冷蔵庫を覗いてシャワー後の朝食の見当をつけ、浴室に向かった。  我が家は両親と私を筆頭に四人姉弟がおり、私の下にいるふたりの妹は、上の妹の花が東京の大学院に、下の妹の咲が京都の大学に行っている。諒は末っ子で、高校一年だ。  父は弁理士という特許に関わる仕事をしており、母はパートタイムの翻訳家だ。大学時代から付き合うふたりは今でも仲が良く、四人の子どもをいい感じに疎ましく思っているようだ。お前ら、早く育って、出て行け、とでも言うように。  我が家の四姉弟は、小学校を卒業する頃には、一週間分の家族六人の三食の食事の支度と片付けができるようしつけられていた。母は気が向かなければ土日に家事はやらないし、私たちもそれを当たり前のように受け入れている。諒も今朝は自分で朝食を作って食べ、出ていったのだろう。  浴室に柔らかく陽が差し込む。使い慣れたシャンプーの匂いに包まれながら、少し我慢して吉永さんの家のシャワーではなく、ここまで戻ってきてよかった、と深く呼吸をする。ラベンダーとローズマリーの匂いが、私にお帰り、と言っているような気さえする。汗や老廃物と共に身体の芯に染み込む吉永さんへの迷いも、すべて洗い流すよ、というように。  これから少し仮眠を取って、掃除と洗濯をして、元気があったらバレエのオープンクラスに行こう、と思いながら、顔にシャワーを打ち付けた。  クラシックバレエのレッスンは小学二年から始め、中学二年になる頃には辞めてしまっていた。再開したのは、東京から戻ってきた二十六歳の頃で、もう二年になる。基本的に水曜日の終業後に行けるクラスに通っているが、楽しくなってくると週一回のレッスンでは物足りない。今は週二回に増やそうか迷いながら、気が向けば他のクラスをチケットで受講している。土曜日の夕方からの入門クラスは、よく受講するクラスだった。  そのクラスには、水曜日の初級クラスを受講している人も多く参加していた。どちらも日中はお勤めをしていて、独身だったり、子どもが大きくなり、夫の理解を得るなどしている妻や母たちだ。このスタジオの大人向けクラスは入門・初心者・初級・中級に分かれていた。  大通公園の北側にあるスタジオからは、公園の木々の緑が見渡せる。夏の夕方は暮れるのが遅いから、レッスンが始まる頃、窓から黄昏時の空気に染まった公園のようすを目にすることができた。この景色に包まれながら、頭の中から余計な思考を追い出し、メロディとリズム、数字のカウントとバレエ用語だけを巡らせ、身体の隅々に行き渡らせる。そうすると、終わった頃には心がすっと整理されているのだった。  左手でバーを握り、身体を引き上げ、スクエアを保ったまま身体が正面を向いているかを意識し、右肩の延長線の遠くを見るように顔を少しだけ振る。ピアノの音色が聞こえ、身体にメロディとカウントを伝え、動き始める。 「めっちゃ汗かいた!」 「この分、痩せりゃいいのにさ」  汗ですっかり重たくなったレオタードを脱ぎ、タオルや汗ふきシートで拭っても、活性化した身体から、さらさらした汗が止まらない。身体は心地よくガタガタに疲労し、着替えをしようにも震えたり、ぐらついたりしてうまくいかず、思わず笑いがこみ上げる。さらには明け方までの愛のエクササイズの影響か、今日はとりわけお尻や腰が痛い。 「のど乾いた!」 「だねー」 「一杯、行っちゃいますか」  更衣室には、汗ばんだ女たちがギュウギュウに詰まっていた。 「ビアガーデン、まだ行ってないな」 「多分、八時半でラストオーダーだよ」 「じゃ、無理か」  火付け役はママ山さん、それをのんびり受けているのは、くらたまさんだ。 「美音!」 「はい」 「行こ!」 「はい!」  串鳥では、まずお通しのスープを飲み干す。胃を温めて、大根おろしをちびちびつまみ、冷えたビールと焼き鳥の到来を待つ。  この日の宴にはママ山さん、くらたまさん、葵ちゃんと私の四人が集った。レッスン終わりに飲みに行くというパターンは結構ある。このメンバーが固定というわけではなく、解放された気分で誰かが磁石になり、その磁力に引き寄せられたちょうどいい人数がくっつき合い、店に向かうのだった。  生ビールが三つとピーチウーロンひとつがそれぞれの手に渡り、高々と掲げられ、グラスが澄んだ音を立ててかち合う。  してまた生ビールのジョッキが空くのの、まあ、早いこと。 「私、今日、お尻がすごく疲れたー」  葵ちゃんが豚しそ巻の串におちょぼ口で食いつき、私はドキッとした。  葵ちゃん、実は私も今日はお尻が痛いんだ。あの、お尻のほっぺたのところ。  葵ちゃんに同意の視線を向けた。 「あんたたち、昨日オトコとやり過ぎたんじゃないの?」  ママ山さんが店員さんを呼ぶボタンを押し、ジョッキに残る最後の一滴まで啜った。 「えー、今、彼氏いないですもぉん」  葵ちゃんは、ピーチウーロンのグラスの氷をカラカラと鳴らした。 「美音?」  隣に座るくらたまさんが、私の顔を覗き込む。 「あいつか!」  ママ山さんは容赦ない。  葵ちゃんは好奇心を瞳いっぱいにきらめかせながら、私とママ山さんの顔を交互に見る。 「……ッス」  私が微かに肯定すると、葵ちゃんとママ山さんは嬌声を上げながら身悶え、くらたまさんは天井に顔を向けて手を叩きながらゲラゲラ笑った。 「私、思うんですけどぉ」  私のけつっペタ痛の原因についてひとしきりイジられ、レッスンのときの先生の罵声の正確さと、その言葉と身体の痛みを語り、慰め合った。クラスの上手な人たちのテクニックなどについて語り合い、生ビール各五杯、ピーチウーロン三杯を喉に流し込み全員が心地よい気怠さに身を任せているとき、葵ちゃんがしみじみつぶやいた。 「ピルエットをダブルで回れたら、私、きっと人生が変わると思うんですぅ」  ママ山さんは一度手を叩き、葵ちゃんを抱きしめ、くらたまさんは大きく頷いた。  ピルエットはバレエを代表する回転技のひとつだ。片足を軸に、ルルヴェと呼ばれるつま先立ちをし、もう片足を横に開き上げた状態で膝から下を曲げ、つま先を膝のあたりにつけるルティレというポーズをとって回転する。  足裏を全部床につけた状態をア・テールと呼び、ルティレで立つのは正確さはともかく、そう難しいことではない。でも、ルルヴェでルティレに立つのは急に難しくなり、数秒立つだけでも厳しくなる。ピルエットはその状態でさらに回転する技だ。とはいえ、ピルエットのシングルは勢いをつけるなどすれば、どうにか形にはなる。ルティレで十秒キープするより、ピルエットのシングルを二秒で決めたら、そっちのほうが楽なのだ。 「二秒が一秒二回になって、一が二になるだけなのにね」  くらたまさんがデザート代わりの梅酒ロックのグラスを頬に当てた。  私は子どもの頃に経験しているのもあって、先生からもダブルで回るように促される。シングルならすっとルティレに立ち、目線を外さないように素早く顔を回転させ、ルティレにしていた脚を軸脚沿いにそっと下ろし、ポーズを取ることができる。でも、ダブルにした途端、自分がどの方向を向いているのかわからなくなり、軸が掴めなくなり、ルルヴェがグラグラ揺れ始める。そのつま先がケンケンし始めると、音楽を無視してズッコケるようなポーズでフィニッシュを迎えてしまう。見事に無様な姿で。  まるで今の私みたいだ。吉永さんに振り回され、私は多分、軸を失っている。  それでも音楽が鳴っていて、自分がフロアにいる以上、踊ることはやめられない。  四人でゲラゲラ笑いながら店を出て、それぞれの家路に向かうために別れた。ひとりになった途端、知らず知らずのうちに白く光る月を見上げていた。  ピルエットをダブルで美しく回れたら、本当に、私が立つ世界は変わるのかもしれない。  ピルエット以外にもバレエのテクニックで気になるところ、克服したい壁はたくさんある。自分の身体を使って日々を生きている限り、ふとした瞬間にバレエのことを思い出す。地下鉄に乗っているとき、思わずルルヴェで立ち、ボディのセンターで軸が取れているか確認する。職場で、少し離れた場所で鳴る電話を取るときや床に落ちているものを拾うのに、片足を後ろに上げてアラベスクにする。その瞬間、ちゃんと股関節からアン・ドゥオールできているか、膝が伸びているか。来客を見送るとき、普通に立っているだけなのに、肩を下げ、骨盤を立てて、身体が引き上がっているか。そんな風にのん気に仕事をしながらも、東京での生活の記憶がフラッシュバックする。  こぢんまりした東京の女子大を卒業後、新卒で入った会社は情報誌出版やインターネットサービスを提供する、比較的大きな会社だった。本当は書籍の編集をしたくて、いくつかの出版社を受験したけど全滅で、それでも幅広く事業展開している会社だし、社会勉強するにはいいだろうと思った。営業職以外を志望していても新卒者全員が営業部に配属され、一度は営業職を経験することになっていた。私が情報誌出版の編集職へ一年で異動できたのは比較的早い方だったらしく、順調に成長できたようでホッとしたのを何となく覚えている。就職情報誌の編集部に配属され、ウェブコンテンツと連動した記事を作成していく編集者としての修行が始まった。先輩は厳しいけれど思いやりがある楽しい人たちで、チーム全体が多忙さから尖った雰囲気になることはあっても、基本的には居心地良く、楽しい職場だった。毎日が勉強で、すべてが学びだった。残業量のせいか収入も悪くなく、時折先輩や外部スタッフの人たちと少し背伸びをした場所でランチをするのも楽しかった。  でも、続けることができなかった。理由とか原因とか、そういうものをきっちり考えるべきなのかもしれない、と、今でも思わなくはない。  インターネット掲載と連動で、広告的要素が強い記事は、掲載後も修正が効くために、夜中でもクライアントや別部署から呼び出されることがあった。対応に追われているうち、涙が止まらなくなった。朝、布団から出ることが厳しくなり、職場へ行けば立ち続けることができず、座っていても、何をしていいのかわからなくなった。チームの人たちはさまざまに慰めてくれたけれど、自分の中では続けられないと結論が出てしまった。当時、進学のために東京に出て一緒に住み始めた妹が、私のコンディションを両親に告げ、半分眠ったような日々の中、私は札幌に戻ってきた。  そしておそらく、私はまだ、目を覚ましていない。うたた寝をしているような心地よい気怠さで、日々が過ぎていく。  吉永さんの、一体どこに惹かれているのかな、というのも、うまく消化できない問題のひとつだ。  ただの飲み会で知り合って、飲み会の参加人数が少しずつ減り、ふたりきりで会うようになり、楽しい気持ちで「好き」と告げたら、仕事を理由に「付き合うつもりはない」と言われてしまった。  じゃあこれで会わなくなるのかな、と思っていたら愛のエクササイズのパートナーになり、現在に至る。  仕事を終えて帰宅し、お風呂から上がった頃に「今、何してる?」とLINEが入れば、ついつい終電近くの地下鉄に乗り込み、吉永さんの家のそばのバーに向かってしまう。最初はお話をして一緒の時間を過ごすつもりで、オプションとして愛のエクササイズがついてきた。今では夜食を取る吉永さんの隣で、ドライフルーツを齧りながらジンやラムを舐める。店を出て、少し歩いて吉永さんの部屋へ行き、多少楽しいけれど、ちっとも気持ち良くない愛のエクササイズを一セット行い、帰宅するか、泊めてもらう。  明け方に帰宅する私を載せたタクシーは、夜の名残に向かって走り、背中から夜が明けていく。  私の夜は、いつ明けて、私はいつ、目が覚めるんだろう。  バレエのレッスンは、バーから始まる。膝を曲げるプリエから、つま先を床につけたまま、前後左右に脚を出すタンデュ、そのつま先を床から離すジュテ、床に弧を描くようにつま先を動かすロン・ドゥ・ジャンブ・アテール、フラッペ、フォンデュ、パッセ・プロムナード、グラン・バットマンなど、主に脚を強化する動きが続く。ポール・ド・ブラという決まった腕の動きと組み合わせて、身体のすみずみまでストレッチし、トレーニングしていく。音楽が優雅なので見落とされがちだが、クラシックバレエは深い呼吸と緩急をつけたハードな運動で、バーを十分も握っていれば身体が温まり、汗が吹き出してくる。バーを握る、と言っても、バーに頼ってはいけない。バーはあくまでも王子さまの手だ。そっと置くという意識で、離したとしても姿勢をキープしなくてはならない。  それらの動きの中で、ターン・アウトやアン・ドゥオールと呼ばれるボディの外旋を意識して股関節をコントロールし、足先を一番から五番と割り振られた各ポジションに、きちんと収める。片脚を動かすときには、軸脚と動脚の役割を考えながらバランスを取って立ち、本来、股関節から始まる脚の部分は、バレエにおいては肩甲骨の下からだと意識しなくてはならない。頭のてっぺんは宇宙に向かい、足の裏は地球の中心に向かう、という指導もある。  さらにはこれらの動きを歌うように行わねばならず、どれだけ力んでも、原則的に顔は微笑していなくてはならない。  さまざまな動きを組み合わせ、先生が一度か二度、注意点の解説とともにお手本を示してくれるが、それを覚えた上で音楽に乗せて動かなければ、容赦なく愛情たっぷりの罵声や怒号が飛んでくる。 「美音さん! あきらめないで! プル・アップ! プル・アップ! プル・アップ!」  バーレッスンは基本の「パ」と呼ばれるステップの習得のために、いくつかの動きを組み合わせたアンシェヌマンを先生が指示する。大人のクラスは子どもやプロに比べれば、相当甘く優しいものの、一、二回の解説と見本だけで覚えるのはそう簡単ではない。覚えたつもりでも集中力が途切れれば間違えるし、アンシェヌマンの課題を意識すれば音に遅れることもしょっちゅうだ。アンシェヌマンの最後にはフィニッシュのポーズを決めて数秒から数十秒キープし、身体のバランスを確認することもあり、先生の「キープ!」「プル・アップ!」の声がスタジオに響き渡る。 「美音さん! パッセ・バランスは五番からシュ・スーに集めて、ク・ド・ピエを通って、ルティレに持ってくるの! ドゥミの踵がそんなに高いのに、なぜパッセの脚が軸脚を通らないの? カパーって開いて、どっかから取ってつけたみたいに雑に動かすから、アワワワワってなるの! もう一度、やってみて!」  元プリマのアキちゃん先生の指導は容赦ない。私は先生に言われたことを整理し、もう一度パッセ・バランスに挑戦する。シュ・スーに集め、全身のバランスの軸を細く強く作る。そうすると自然にドゥミ・ポワントの踵が高くなり、軸が強くなるのが伝わる。アン・ドゥオールに気をつけながら動脚のつま先を軸脚に添わせて上げていく。 「自分で思ってるより、ほんの少し前に重心を持ってきて」  アキちゃん先生がささやくように言う。 「行けるところまでキープして。で、カパって崩れないんだよ! おうちに帰るまでが遠足と同じ! 軸脚を通って、ク・ド・ピエを見せて、シュ・スーからプリエ経由できれいなアテールの五番に入れるまでがパッセだからね!」  先生の言葉に反応する感情をなだめ、心の中で何度も繰り返す。 「あきらめない!」  自分でも気づかない弱みを先生に指摘されたような気がして、ぐっと力が入る。それでも、もう無理、というポイントまで来て、ルティレからク・ド・ピエを通り、プリエでポジションの最終確認をし、ア・テールの五番に戻った。 「はい、そうです。そこまでできたら、ピルエット、絶対にダブルでキレイに回れるから」  アキちゃん先生は眼光鋭く言い放ち「美音さんだけじゃないですよ!」と、今度はみんなを対象に、容赦ない指導を始めた。 「なあ、美音。あきらめたらダメだって」  ママ山さんがジョッキの底に残るビールを啜り、店員さんを呼ぶボタンを押した。  この日の串鳥飲み会には、私の他に、ママ山さん、くらたまさん、水曜初級を主軸に受講している景子さんが参加した。景子さんと私は仕事帰りのビジネスカジュアルで、ややカチッとした服を着ていたが、くらたまさんはフラダンスでも踊りだしそうな花柄のゆったりとしたワンピース、ママ山さんに至っては東京ヤクルトスワローズのマスコット「つば九郎」が大きくプリントされたTシャツに、ジャージーのズボンだ。ファイターズのB☆Bではなく、つば九郎って……。その四人がひっつめシニョンに髪を結い、テーブルを囲んでジョッキを煽っている。 「うわ、ママ山先生、登場!」  景子さんがサフォークラム串を咥え、くらたまさんが、 「アキちゃん先生より、こえー」  と笑った。  あきらめたらダメだって。  私は自分の眉が八の字になっていくのを感じながら、いったいどの件だろう、と思いを巡らせていた。パッセ・バランスのことだろうか。吉永さんのことだろうか。契約社員として働く会社での将来のことだろうか。結婚? 出産? ひとり暮らし? ポアントレッスン? ダイエット? おっぱいがちっさいこと? 「美音、眉毛」  くらたまさんが自分の眉を指差し、私に指摘する。 「美音さ、アンタ、いい子過ぎるんだよ。だからダブルも回れないんだよ」 「ほう」  ママ山さんが言い、景子さんが応えた。あきらめない、は、ピルエットのダブルのことだったらしい。 「飲み会の席に必ずいて欲しいくらい、いい子で、まだ若くて、かわいくて、東京で頑張って、こっち戻ってきてからも、ちゃんと仕事して、その後でもきちんとバレエに来て」  景子さんとくらたまさんが、ママ山さんの顔を覗き込む。 「なのに、何で付き合ってもいない変なオトコに、タダでやらせてんの? 意味がわからないよ!」  景子さんとくらたまさんが、コントみたいにズッコケて、 「そっちかよ!」  と、声を揃えた。  私もそう思った。そっちかよ!  四人の前に三杯目のジョッキが置かれ、私に向けられていた意識がそちらに移って、楽になるのを感じた。 「ビアガーデン、行けなかったなー」  景子さんが寂しそうに天を仰ぎ、くらたまさんが、 「そだねー」  と、応えた。 「くらたまもアンタ、そんなムームー着てる場合じゃないよ! もうすぐ冬でしょや」 「……ママ山ちゃん、何かあったの?」  くらたまさんは自分の服への指摘はさておき、ママ山さんに訊ねた。 「何にもない!」  ママ山さんは、くらたまさんにきっぱりと返した。  そうか、そうかとテーブルが同意の空気に満ち、何回めかの乾杯をした。 「ねえ景子。何でダブルで回れるの?」 「ピルエット?」 「そう」  ママ山さんが景子さんにインタビューを試みた。  景子さんは慎重に串肉に一味を振りながら唸った。私達は固唾をのんで見守る。 「……ごめん。わからん」  景子さんは切なそうに洩らし、歯で肉をちぎった。景子さんは水曜初級クラスで一番上手だと言われる憧れの人だ。小学一年からバレエを始め、大学に入学しても、就職しても緩やかに続けている。 「小さい頃からやってると、そうなんだよねえ」  くらたまさんが、つやつやと緑に光る銀杏の串を見つめた。 「そう。身体の動きを言語化しにくい。せいぜい代名詞。そうやって、こうきて、こう、みたいな」  景子さんは華奢で、顔のつくりが華やかで美しく、動きのいちいちがバレリーナみたいで、なのに醸し出す雰囲気は野武士みたいだ。  そういえばこういうの、女子校あるあるだな、と思い当たる。外見が女の子らしい人ほど、中身がオッサンで、外見の女子度が低い人ほど、中身は女子力高い、というアレだ。 「ただね」  メニューブックの焼鳥エリアを、ひとつひとつていねいに指で押さえながら景子さんが続けた。 「美音ちゃんは、顔がつけば、ダブル、いける」  景子さんのまつげが上下した。 「え、マジで?」 「いける」  景子さんが強い目力を発揮した。 「先生が言う通り、美音ちゃんのルルヴェは高い。で、何故かパッセ・バランスのキープはそうでもないけど、アティテュード・バランスのキープは、ハンパない。すんごいキレイ。っつーことは、だ?」  全員が景子さんの次の言葉を待った。 「キープは既にできてるわけ。先生が言う通り、ポアントで立つときみたいに、今よりほんのちょっとだけ前重心にして、引き上げる」 「プル・アップ! プル・アップ! だな」  ママ山さんが鳥にんにくの串を自分のボディに見立てて、プル・アップ風に動かした。 「アティテュード・バランスがキレイってことは、中心軸が取れてるんだよ。だけど、顔が迷子になってる。不安そうに」 「おおー!」  全員がどよめいた。 「顔が迷子!」  ママ山さんとくらたまさんが、顔を見合わせた。 「回転技で顔をきちんとつけるのは基本中の基本だけど、大人からの人たちのオットットを見てると、顔をつけるのが一番おろそかになってんだよね、ここだけの話。頭って結構重いんだ。シニョンにせずにポニーテールとか一本で縛ってるだけだと、遠心力でバランスおかしくなるからね、実際」  景子さんは次に頼む串が決まったらしく、店員さんを呼ぶボタンを押し、みんなに追加注文をするか目で訊いた。 「ここじゃー! ってポイントを決めたら、そこから目を逸らさない。シングルも、ダブルも、シェネも、回転技は全部同じ。そしたら頭の重さでバランスが崩れるってのも回避できる」  景子さんが言い終わると同時に、店員さんが来て、景子さんは追加の生ビールと焼鳥串を注文した。 「ここじゃー! ってポイントだよ! 美音!」  ママ山さんがそう言うと、店員さんも小さくガッツポーズを決め、足早に去って行った。  ラブホテルの洗面所は広く、鏡は大きい。バレエモードに入っていると、ついついポーズを取ってみたりする。さすがにピルエットの練習はできないけれど、ルティレで立ってみたり、顔をくるっとつける真似はできる。 「ねえ、真っ裸で何やってんの?」  夢中になってポーズを取っていたら、吉永さんが洗面所に入ってきた。 「もういっぺん、お風呂入ろうよ」  ラブホテルのお風呂は、広い。カップルだけに使わせるにはもったいないほどだ。  ママ山さんたちは案外、バレエのレッスン後に来てたりして。  吉永さんは仕事の武勇伝を気怠く語る。何時間起きていたとか、一日のうちにどれだけの距離を移動したとか。湯気の向こうに見えるこの人は、いったい私の何とつながっているんだろう。そう思うと、ぼんやりと心がかすんだ。  今日も変わらず、多少は楽しいけれど、実につまらない愛のエクササイズだった。特筆すべきものは、何もない、みたいな。付き合ってもいないのに、倦怠期の夫婦みたいだった。両親でさえ、まだ倦怠期を迎えた気がしないのに。  娘の私よ、何をやっとるんじゃ、何を。  吉永さんのことを誰かに話すと「美音ちゃんはホントにその人のこと好きなの?」「相手が自分のこと好きじゃないなら、フィフティ・フィフティじゃないじゃん、やめな」みたいなことを言われる。ママ山さんとかに。  それでも、くらたまさんの言葉は、少し不思議だった。 「美音は、そうしたいんでしょ」 「んなわけ、ないじゃないですか! ラブっとつき合いたいッスよ! ラブっと!」  と返したけれど、 「美音がセフレでいたい、と、実は思っている、という前提で全てを見たとき、案外、前に進む答えが出るよ」  くらたまさんは梅酒ロックのグラスを揺らしながら、表情そのものが正解であるような笑顔を私に向けたのだった。 「世界を善悪とか、正と誤とか、白と黒とかで見るのをやめてみ? こういうロールプレイングゲームをしているんだ、で、クリアしたいんだ、と思ってみなよ。セフレとかステディとか、そういう物差しは一見便利だよ。でも今の美音は、関係性に対しての名称に振り回されてるみたい。さっき景子ちゃんが言ってた『顔が迷子』じゃないけどさ。『私』を軸にして世界を感じてごらん。私はこうしたい。私は、こうありたいって」  何を言われているのか、さっぱりわからないなりに、心に響いた。 「ここじゃー! ってポイントだよ! 美音!」  薄らぼんやり吉永さんのキスを受けながら、ママ山さんが私の耳元で叫んだのを聞いた気がして、身震いした。 「うわ! 何?」  私の身震いに吉永さんも正気に戻り、 「神のお告げ、的な?」  私は、根拠のない小さな幸福感から、込み上げてくる笑いを抑えるのに精一杯だった。  漫画『Do Da Dancin'!(ドゥ ダ ダンシン)』の主人公・鯛ちゃんに、母の死という試練を与えたのはバレエだったが、鯛ちゃんを救ったのもバレエだった。迷うのもバレエだけど、混乱した自分を整えて、一歩前に踏み出すきっかけもバレエだった。  スタジオに入り、身体をほぐし、動いて温め、音楽と先生の指示を身体にしみこませていく。ときどき鏡で確認し、さらに身体を伸ばす。歌うように身体を動かし、つま先や指先で物語を奏でる。  レッスンが終わる頃には、すっかり新しい私になっている。鯛ちゃんみたいに。  水曜初級のクラスで、本当に美しくダブルを回れるのは景子さんと、ときどき振替で受講するお姉さん数人しかいない。あとは私のような、なんちゃってダブルに挑戦中組が数人いる程度だ。串鳥で景子さんに言われたことを反芻し、観察してみると、なるほど、シングルではきちんと顔がついていても、ダブルに挑戦した途端、方向を見失い、ガクンと崩れるのだった。私は覚悟を決めて、ひとつひとつの動作を丁寧に行った。  ピルエットをきれいに回るためには五つの条件があるらしい。 「身体をまっすぐに整える」「床を感じてプリエする」「正しくルルヴェする」「瞬時に姿勢を作る」「回転のタイミングをつかむ」。  もちろんこれは大きな前提で、ホントに成功させるにはこの五大条件を細分化したものが存在する。景子さんが教えてくれた「ここじゃー!」は五番目の「回転のタイミングをつかむ」に当てはまる。立ったらすぐに「ここじゃー!」を見極め、顔を回転させるのだ。  私は毎回のレッスンで、脳内が言葉でいっぱいになるほど、ピルエットに必要なポイントを言語化し、反芻した。きちんとプリエする、一気にまっすぐ立つ、瞬時にルティレ、手はアン・ナヴァン。このときの手をつくる力で回転をフォローする。そして顔! 軸を保つ! ぐらつかない! パッセ・バランスは軸脚を通って、しかるべき足のポジションに降りるまでが、パッセ・バランス。おうちに帰るまでが、遠足。そしてフィニッシュのポーズ。  ビアガーデンの季節は過ぎ、レッスン終わりの風に、朽ちていく葉の匂いが混ざり始めた。私は仕事の間もプルアップを意識し、コピー機の前では身体の軸を確認した。犬太郎の散歩をしているときは、普通に歩きながらトンベ、パ・ド・ブーレで移動しているような気持ちを作った。つり革につかまるときには肩甲骨を開き、一歩踏み出すときには、つま先を意識した。  秋が深まると、ああそうか、とか、ちょっと違うな、という言葉が身体から完全に抜けた。その日、ピルエットのアンシェヌマンで、自分と音楽の境界が曖昧になった瞬間、アキちゃん先生の、 「はい! 美音さん! それです! キレイなダブル!」  という声を聴いた気がした。最後のポーズを決め、終わった人たちの列に並んでいるときに、何人かが、私を嬉しそうに見つめているのを感じた。  葵ちゃんは、その日はお休みだった。けれど、 「ピルエットをダブルで回れたら、私、きっと人生が変わると思うんですぅ」  とつぶやく葵ちゃんの声が、ふんわりと心の中に降りてきた。  月の五週目、バレエのレッスンはお休みの土曜日。吉永さんからのLINEに既読をつけることもなく、ベッドで『舞姫テレプシコーラ』の第二部を眺めていた。茜ちゃんの風邪が六花ちゃんに伝染り、ハラハラした展開になっても、私の心は物語から取り残されていた。  両親も弟もおらず、夕食のプランも立たなかった。適当な時間が来たら父から家族LINEが来て、どこかで外食するか、父が腕を振るい、鍋やジンギスカンで豪華で簡単な夕食にするだろう。陽が高いうちに犬太郎の散歩を済ませ、洗濯ものを畳み、できる家事はすべて行っても、心がスッキリしなかった。  五週目じゃなければ、バレエに行けたのにな。家にいるとスマホが気になり、当てもなく外に出ることにした。  大通公園で開催されているオータムフェストを覗き、人混みに酔ってしまい、斜め北に向かうように札幌駅に出た。ステラプレイスのショップを見るともなしにフラフラし、三省堂書店から無印良品に上がった。  一人暮らしを自立と呼ぶなら、私は自立していない、と規則正しく威圧的に並ぶポリプロピレンの収納ケースを目にしながら思った。カシミヤのストールを眺めていたら、誰かに甘えたくてたまらなくなった。これではいかん、と、無印良品を出て、ふと思い出した。JRタワーには展望台があった。  無印良品から右に出て、またさらに右に曲がった。人気のない通路を進み、券売機で大人一人分の展望台入場券を買った。スペイシーな制服のお姉さんに券を見せ、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターの中には札幌の地図の上に京都の路線図が描かれた壁があった。ふうん、と思っていると、三十八階に到着した。  エレベーターを出て、左に数歩行くと、世界がまるで違っていた。  日没直後の空は地平に近いほど茜色に染まり、美しいグラデーションで天空に向かうほど藍色が深くなった。無数の光の粒は瞬間ごとに色を変え、街に命が散りばめられていることを伝えていた。しばらくエレベーターそばの窓から、北大の延長にある石狩湾を眺め、空を見上げた。  地上で空を見上げるのと、空に近い場所で空を見るのとでは、明らかに何かが違っていた。呼吸が落ち着いたところで、東側から一周し、各方向の営みの違いを眺めた。街は街で、札幌は札幌でしかなく、圧倒的なエネルギーで、藻岩山にロープウェイが上下していた。  展望台にはアジアの言葉が明るく響き、窓際には、ビールを片手に語らう人たちが見えた。カフェカウンターで何かを注文しようかな、と迷い、もう一周しようと西側の窓に寄った。大倉山に照明が灯っているのが見えた。一周し、石狩湾のほうを見ると、茜色は失せ、本格的な夜が到来していた。夜が訪れても、街はいきいきと活動をしていた。JRの車両の往来を眺めているうちに、地上が恋しくなり、私はそこに戻った。  当てがあるようでいて、まるでない。私は西に向かって歩いていた。  植物園の北側を西に向かい、静かな住宅街に出た。マンションが多く立ち並んでいるのに、緑が多いせいか、窮屈な感じはしなかった。歩くうちに身体から声が漏れてきた。ほんの少し遅れて、涙があふれ出た。なぜ泣き出したのか、自分でもわからないまま、歩き続けた。自分の声が、意外なほどか細かった。足の裏に伝わるアスファルトの感触や、コートの内側で温まっていく身体の軽さが気持ちよかった。泣いているのに、心地よさでいっぱいになっていた。 「美音!」  聞き覚えがある声に私は歩みを止めた。涙にまみれた顔で声が聞こえた方を見ると、見覚えのあるふたりが立っていた。 「ほら! くらたま! やっぱ美音だって!」 「マジでー?」  大きく手を振りながら、ママ山さんとくらたまさんが駆け寄ってきた。 「やだー、美音、こんなところで……」  笑顔で近づいてきたママ山さんの表情が変わった。 「ちょっと、美音! なしたのさ!」  言い訳する暇も与えず、ママ山さんは私を抱きしめ、その身体の柔らかな温かさに、私は子どもみたいに大きな声で、気持ちよく号泣した。  少しして、くらたまさんが、ママ山さんと私を上手に剥がした。くらたまさんは私にティシュを差し出して、 「一大事?」  と尋ねた。否定の意味を込めて首を横に振ると、 「うちら、これから極楽湯行くのさ」  と、ママ山さんが顎をしゃくった。 「替えのパンツなんかセコマに売ってるよ。ほれ、アンタも行くよ!」  ママ山さんの愛情は、原則として容赦なかった。  大浴場が気持ちいいのは、大量のマイナスイオンが発生しているからだ、と聞いたことがある。滝のそばで発生するのと同じ効果だ。うちのお風呂も好きだし、ラブホテルのお風呂も好きだけれど、どちらもスーパー銭湯の清々しさに敵わないのは、マイナスイオンの発生量の差かもしれない。  たくさんの女たちの真っ裸を眺めて、自分も似たような身体を持っていることを思い出す。抱えた膝の、つるんとした感じ。カチカチに固まっていた私のすべてが、柔らかくほぐれていく。  ママ山さんとくらたまさんとは、髪と身体を洗ってから自由行動になった。時々、釜風呂や露天風呂で「お」と行きあったが、おおよその上がり時間を決めて、ゆるゆるとロビーで待ち合わせることになっていた。ただし、湯上がりビールは禁止。ふたりは五週目でレッスンがないのをいいことに、最近引っ越ししたばかりのくらたまさんの家で火鍋パーティをすることにしたのだそうだ。 「美音、スパイスとか、漢方とか平気?」  くらたまさんに訊かれ、 「好きッス」  と答えた。 「湯上がりビール、ぜってぇ禁止な!」  そう主張したのはママ山さんだった。  露天風呂の照明が水面にゆらぎ、私の身体に網模様の影を落としていた。余計なものがすっかり抜けて、適切な水分を含み、柔らかくなった私の身体。それは温かく、生きていた。  吉永さんからのLINEに既読をつけなかったのは「今、何してる?」としか書かれておらず、トーク一覧画面で確認できてしまうからだった。そして何より、返信する言葉がまったく浮かばなかったから。指が動かず、名前を見るのが苦痛に感じたのだった。特別な出来事はなにもないのに、身体が拒否したとしか思えなかった。  極楽湯の露天風呂は、温泉だ。岩の壁に貼られた効能書きを眺めてみた。文章がさっぱり頭に入ってこなかったが、とても濃厚で、効能が高い反面、湯あたりに注意したほうがいいという泉質なんだろうと解釈した。  足を投げ出し、つま先の曲げ伸ばしをした。もっと膝が引っ込んで、甲がきれいに出たらいいのに。いつかまた、トウシューズも履きたいなと、湯の中で柔らかく光を放つ脚を眺めた。  着替えを済ませてロビーに行くと、ママ山さんとくらたまさんが椅子に並んでテレビを見上げていた。こう言っちゃなんだが、背中を丸めた二人は、ものすごくおばさんみたいだった。 「あ、美音」  くらたまさんが私に気づき、その声にママ山さんがバツの悪そうな顔をして、手元を隠した。 「あ! 飲んだな!」  私が指差すと、 「これな」  と、プラスチックの小さな透明カップを見せた。 「くそう。飲んじまった」  何だろうと眺めていると、 「く、ろ、ず」  くらたまさんが有料のドリンクサーバを顔の傾きで示した。 「ビールではない!」  ママ山さんは主張した。 「え? NGなのって湯上がりビールでしょ?」  私が問いただすと、 「何かが違う気がするんだよ! ああもう!」  ママ山さんは、悔しそうに拳を握りながら身悶えし、 「ほれ、美音も上がったし、行くよ。もうお鍋の用意は全部してあるから、行こ」  くらたまさんは抜群の安定感で立ち上がり、先を歩き始めた。  くらたまさんの家は一戸建てだった。もともとおばあさんの家だったが、おばあさんは数年前に入院され、今は特別養護老人ホームに入居している。誰かが住まないと家が痛む、という状況で、くらたまさんが住むことになったらしい。知事公館のすぐそばにある、古くて趣のある家だった。 「ただいまー」  みんなで声を揃え、引き戸を開けて入った。経験したことのない懐かしさに、優しい気持ちになった。 「いい家でしょ」  自分の家でもないのにママ山さんが自慢げに微笑み、くらたまさんが笑った。 「どうぞー」  引っ越したばかりの割にはすっかり片付けられ、和モダンのカフェのような趣だった。 「すごく素敵」  私が辺りを見渡すと、 「ありがと。荷物、そこに置いて座ってね。コンロ、もう火つけていいよ」  くらたまさんは女主人らしく、いそいそと立ち働き始めた。  食卓の上にはコンロと土鍋と二人分の茶碗とお箸が置かれていたが、すぐに私の分を追加してくれた。台所から大皿に美しく盛られた野菜と、白い大きなパックに入った肉が運ばれた。白菜、長葱、何種類かのきのこ。さつまいももあった。肉はラムしゃぶ用と、豚しゃぶ用バラ肉。豆腐と、鱈に牡蠣まで追加で運ばれた。 「何の宴じゃ! これは!」  私が狂喜していると、プレミアムモルツの五百リットル缶が、ドン、と置かれた。グラスが必要か確認されたが、私もママ山さんも、首を横に振った。鍋以外に、オイキムチや鶏ハム、チーズや中華くらげの前菜などが並べられ、それをふたりは手際よく供した。 「じゃ、今日は火鍋会っつーことで、カンパーイ!」  ママ山さんが音頭を取り、三本のプレミアムモルツ五百ミリリットル缶が、鈍い音を立ててかち合わされた。 「うまい!」  私とくらたまさんが満面の笑みで確認し合うと、 「ああ、黒酢なんて……」  ママ山さんは恨めしげにビールの缶を見つめていた。  麻辣味のスープにシナモンやフェンネルのようなお菓子に使うスパイスが香る。匂いを嗅いでスープを啜り、具を貪り、ビールを煽った。唐辛子や生姜のせいか、身体が内側からじんわり温まるのが感じられた。ビールから紹興酒に移行し、肉や魚介、野菜の甘みも溶けたスープを春雨に吸わせてシメにした。 「ごちそうさまー」  三人とも手を合わせて唱和し、そのまま椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。腹ごなしに、と一気に火鍋を片付け、おつまみを追加し、大きなテレビとソファがあるリビングに移った。電子レンジで温めた紹興酒をお猪口でちびちび舐め、三人でポツポツと話をした。  今日は泊めてもらうことにして、家に連絡を入れた。やっぱり父主導のジンギスカンディナーになったらしい。LINEのトークグループにジンギスカンの写真が貼られてきたので、ママ山さんとくらたまさんに見せると「北海道型だよ!」と我が家の道産子魂が炸裂するジンギスカン鍋を笑われた。私からはもちろん、豪華具材に彩られた火鍋が煮えているところを送りつけてやった。  閉店時間を気にしない飲み会は、いつもと違い、ゆっくりと時間が流れていた。心なしかママ山さんのテンションも穏やかで、くらたまさんも口数が少ない。それがかえって心地よかった。 「夜だなあ」  くらたまさんがテレビに流れる番組を替えた。 「これ、吉田都ちゃん最後のロイヤルだよ」 「お、観たい!」 『ロミオとジュリエット』。吉田都さんが英国ロイヤル・バレエと最後に踊った作品だった。画面には薄暗い中、重厚感と奥行きがあるセットが組まれ、ロミオと友人たちが登場し、踊りが始まった。 「いいねえ、若いオトコの白タイツ。あのケツ!」  ママ山さんのコメントは、裏切らない。ヘッポコとは言え、実際に踊っていると、彼らがどれだけテクニックがあり、表現力が高いか、身体を通して伝わってくる。ティボルトの顔がヤクザみたいだとか、女性たちの頭に乗せてる巨大なカタツムリみたいのは何? などと言い合いながら、ゆるゆると眺めていた。 「うわ! 超絶めんこい!」  弾けるような可憐さで、吉田都さん演じるジュリエットが登場した。人形を振り回し、乳母の膝にちょん、と乗る感じ。それでも全てのパは完璧で、おそらくバレエを踊らない人には、彼女がどれほど身体を緻密にコントロールして踊っているのかわからないだろう。私達は都さんのバレエとジュリエットの愛らしさに身悶えした。物語は流れ、ロミオとジュリエットが出会う舞踏会の場面へ。 「いやもう、パリスでいいじゃんよって、思わね?」  ママ山さんは気怠く眺めていたが、 「いやいや、やっぱりジュリエットにはロミオなんだよ」  くらたまさんはうっとりと眩しそうに画面を眺めていた。 「アタシ、自分はロミオについていくけど、娘にはパリスにしろって言うね」 「家柄もいいし、紳士的だし、誠実そうだし、おまけにプリっケツだし。あ、クッションの踊り! って、へー、クッション持ってないんだー。何で?」  やがてジュリエットと親が決めた婚約者パリスとのパ・ド・ドゥが始まった。その様子をロミオが見つめ、ふとした瞬間、ジュリエットと恋に落ちる。ふたりの思いは少しずつ慎重に昂まる。  もどかしさ、戸惑い、確信とゆらぎ、楽しさと抑制、ふたつの心の引力。ロミオと出会ったジュリエットが、無邪気な子どもから恋を知った少女へと変化するさま。恋心が芽生えたふたりのパ・ド・ドゥ。ふたりの恋の心が膨張するのを抑止しようとする大人たちの画策。  そして場面はバルコニーに移った。 「私、このシーン、バレエの中でも相当上位で大好きなんだよね」  くらたまさんは、うっとりしていた。 「……いいね」  さっきまでケツケツ言っていたママ山さんも、優しい表情で眺めていた。  セリフがない分、あらゆるパを組み合わせ、感情を表現する。ロミオがダイナミックにマネージュするのも、ジュリエットがアラベスクやピルエットをするのも、恋の感情が昂揚し、ふたりの心がひとつに結びつく描写だ。 「私、このバルコニーシーンだけで、ご飯三杯食べられると思う」 「くらたまの、これまでの長い人生、こういうの、あった?」  ママ山さんの問に、くらたまさんは静かに笑うだけだった。  私はふいに涙がこぼれた。 「あ、また美音が泣いてるし」  ママ山さんが呆れたような色を浮かべ、くらたまさんがティシュの箱を取ってくれた。 「すみません。ありがとうございます」  頭を下げてティッシュを受け取った。 「……なした?」  くらたまさんの、壊れやすいものを、そっと丁寧に扱うような問い方に、涙が止まらない。自分がとても繊細で、大切にされるべきものになったみたいだ。 「……私、こんなふうになりたかったな」  ひどい鼻声でようやく言うと、 「あいつと?」  と、怪訝な声でママ山さんが言った。 「……ならないとは、限らないんじゃない?」  くらたまさんが小首をかしげ、 「あいつとぉ?」  と、ママ山さんが、さっきより強い口調で重ねた。 「そいつかどうかって、どうでも良くない?」  私はポカーンとしてしまった。ママ山さんと、くらたまさんの次の言葉を待った。 「誰かと美音じゃなくて、美音が、ってことだよ」  くらたまさんの言うことは、正直よくわからない。でもこの、よくわからない、というところに、すごく大切なものがあるような気がして、いつも耳を澄ませてしまう。 「全部、美音が決めていいんだと思う。ジュリエットみたいな自分に、ロミオが会いに来るって美音が決めたら、それでもう物語はスタートするんだよ。葵ちゃんが前に『ピルエットのダブルができたら、人生が変わると思う』って言ってたけど、そういうことなんだと思う。今回、ロミオになるには彼は力不足だったんだよね、おそらく」  くらたまさんがにっこり笑い、みんなの酒の進み具合を確認してから自分のお猪口に紹興酒を注いだ。 「ピルエットをダブルで回れたら……」  私がつぶやくと、ママ山さんがテーブルに肘をついて、 「ピルエットをダブルで」  と、ハードボイルドに低い声を出し、 「っつかさ、こういうのなかった?」  と、面白いことを思いついたように、くらたまさんに訊いた。 「……ギムレット?」  くらたまさんは眉間にしわを寄せた。 「カクテルの名前ですね」  私が言い、 「……ギムレットとかギブソンがダブルでどうの、ってのは、あった気がしないでもないけど、……いやあ、どうなんだろう?」  くらたまさんが頬をさすった。 「ね! 何かあるよねえ! あったのよねえ!」  ママ山さんは、楽しそうにくらたまさんを揺さぶったが、 「うーん、思い出せん」  腕組みをしたくらたまさんは、うつむいてしまった。  私の涙は、もうすっかり乾いていた。  その夜くらたまさんは、わざわざ二組の布団を敷いてくれ、パジャマまで貸してくれた。シーツや枕カバーの、清潔に乾いた感触が気持ち良く、布団の中が、私のための場所として完璧に機能していた。  そして、夢を観た。  夢の中では、私がバルコニーシーンでジュリエットを踊っていた。私は踊りの集中と、観客の興奮をひとりの身体の中で味わっていた。隅々まで音楽が身体をめぐり、ロミオとの呼吸もぴったりだった。感情が昂まり、私自身がリズムとメロディになっていく。ふと、リフトされた拍子に肋骨の辺りに痛みが走った。次の瞬間、私をリフトするロミオにそれを伝え、自分が支えられるのに丁度いい位置に、彼の手を導いた。するとふたりの軸が最高のバランスに入り、身体が美しく引き上がったのを感じた。私とロミオはアイコンタクトで、自分たちがベストポジションに入ったことを確認し、それがさらに二人を昂揚させた。もっといけると確信しながら、私たちはプロコフィエフの少し切なくて幸福な音楽の中で踊り続けた。  私は、まぶたの向こうに朝の明るさをかすかに感じていた。 「ピルエットをダブルで回れたら、私、きっと人生が変わると思うんですぅ」  鼻にかかったような葵ちゃんの甘い声が聞こえた気がした。 了 参考文献 『バレエ用語集』(クロワゼ編/新書館 刊) 『ピルエット!』(クロワゼ編/新書館 刊)
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