第1章 ラブレターの行方は誰の手に?

1/1
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

第1章 ラブレターの行方は誰の手に?

 今日も図書室は閑散(かんさん)としている。春の昼休みの図書室に人はほとんど集まらない。私の通う学校は中高大一貫校で、三年生が大学受験のため必死に目の色を変えることもほとんどなく、外部を受験する人でもクラスから遠い図書室まで来る人はいなかった。遠くからは生徒が楽しそうに笑う声が届く。  私はいつものように(だる)さを感じ、カウンターに突っ伏して全身の力を抜いている。木製のカウンターはひんやりとして気持ちがいい。正面には貸出業務を行うパソコンがブーンと休むことなく稼働音を立てる。貸出カウンター内のスペースは狭く、キャスターが付いた椅子を後ろに引くと、壁にぶつかってしまう。だけど、私はこの狭さが心地よい。  昨日に返却された一冊の本を返却ボックスから取り出し、ラベルの番号を見てからその本棚まで向かい、本棚に収め、カウンターに戻って、腕を枕にし顔を伏せる。やはり身体は怠い。  私たちみたいな年頃の子の中には気怠そうにするのがかっこいいとか思ってやっているやつもいる。だけど私は純粋に怠いのだ。あまりの怠さに病気を疑ったことも中学生の頃あった。病院に行き身体をくまなく検査して出た結果は、異常なし。精神的な面でも特に問題は見られなかった。怠いからといって、勉強を疎かにして成績で悩んだり、交友関係を(ないがし)ろにして友人について悩んだりはしない。どれもほどほどにうまくやっているからだろう。  それにしても人が一人としていない。貸出カウンターから図書室全体を見渡してみても、長机にも個人用の席にも誰も座っていない。もしかしたら、見えていないだけで高い本棚の陰にいる可能性も考えたが、司書教諭から鍵を預かって私が図書室を開けた後には誰一人として訪れたものはいないので、それはない。  昨今の活字離れを考えれば、町の本屋だって潰れていくご時世に好き好んで図書室に来るやつは稀だ。図書室の壁には読書習慣を付けるだとか、読書月間だとかのポスターが貼られているが、図書室に来る人間に見せてもしょうがないように思う。どうせなら教室に貼るべきなんだ。  お前は本が好きなのか?と誰かに訊かれれば、ほどほどに好き、と答えるだろう。読むとしても週に一、二冊程度だ。じゃあ何で図書委員なんてやっているのか、と言われれば最初に述べたとおり、怠そうに座っていられるからだ。  高校一年の時、委員会を決める段階で、私は怠がりな頭をフル回転させて委員会を選んだ。委員長は当たり前だが、だめ。保健委員も怪我人の付き添いが面倒。その他の候補もめんどそうな理由を見つけては除外していった。検討した結果、残ったのが図書委員だ。図書委員を決める際、誰も立候補しないなか、私は天井を突き破るほどの勢いで右手を挙げた。それは二年生になった今でも続いている。  その結果、私は昼休み友達の輪をかいくぐって、この場でだらけていられる。業務があるという正当な理由があれば罪悪感も少なくて済む。この時間が私には必要なのだ。ちなみに、ときどきある新書の整理などの手間のかかる仕事は、私がほぼ毎日、貸出業務を行うかわりに免除してもらっている。  私はだらけるためには、努力を惜しまない性格なのだ。  しかし、私が図書委員になってから二年目にして頭を抱える問題が発生した。  週に二、三人、貸出業務をすればいい方だから、業務が忙しくなったわけではない。  図書室の扉を二回ノックする音が貸し出しカウンターに届いた。これが私にとっての悩みの合図で、彼、または彼女らが悩みから救われるようとする合図だ。 「おーい、一ノ本ーいるかー?」  図書室であるはずなのに、遠慮のない声が室内に響く。  まあ、誰もいないのだから怒るものもいないし、不機嫌そうな目を投げかける人もいない……いや、私が投げつけるのだが。  私の名字を呼ぶ彼は知った顔だ。知りたくもないが、私が自分の記憶を操作できない限りは知った顔で居続けるだろう。そして、彼の後ろには見知らない女の子が、恥ずかしいのか頬を赤く染めながら、困惑した顔で立っている。 「……二ノ文か……何か用か?」  私は不機嫌を丸出しにして、彼の苗字を呼ぶ。二ノ文透。彼を見知らないのはこの学校内では一人もいないだろう。高い背に、すっと通った鼻筋。短髪でスポーツも得意ということもあって女子からの歓声が絶えない。スポーツだけならまだいいが、勉強もできるという、まるで漫画の中から飛び出してきたような存在だ。  そんな彼がなぜ、私のことを知り、私を呼んで、こんな学校の辺境地とも呼べそうな場所にいるのか。  一から説明すると、彼が私とペアを組む図書委員であることが説明のスタートになるだろう。  この男のせいで私の至福のひと時が邪魔されそうになったことは絶対に忘れない。  二年になって私が最初に図書委員に立候補し、いつも通り勝ち取ったのだが、二ノ文透が「俺も図書委員で」という一言で、黒板に書かれた図書委員の文字を見る女子の目つきが変わった。定員は二名。すでに一ノ本文と二ノ文透の名前が板書されていて、そこに名前を載せるためには私か二ノ文の名前を消さなければならない。当然だが、二ノ文の名前を消す者はなく、消されるのは私だ。  ちなみに、言う必要はないかもしれないが一ノ本文は私の名前だ。  「いちのほんさん、私と委員会交換しない?」そんな私の名前をちゃんと憶えてもいない人たちから、委員会の交換をせがまれたのだ。私は他の委員会は死ぬほどごめんなので、断固としてそれを拒否した。  この男が図書委員ということで、昼の貸出業務が始まってから一週間は、図書室で眼鏡をかけ難しそうな本を読みながら、チラチラと貸出カウンターに座る二ノ文を見る。そんな本を読まなそうな女子生徒が増えた事件があったほどだ。たぶん、二ノ文が本好きの女性がタイプだとかの噂が流れたのだろう。目立つ人間というのは何か行動する度に、裏の事情を勝手に作り出されてしまうことは多々ある。しかし、一週間経つと二ノ文が図書館の業務をサボりだし、その騒ぎは収束していった。  それでも、一時期は私に嫉妬した女性から問い詰められたこともある。二ノ文君が好きなのか、二ノ文君に興味がないなら図書委員を代われだとか。たしかそんなことを言われた。怠そうにすることが目的なのに、関わると一番めんどくさそうな男に誰が好き好んで関わるか、と言いたいのだが、色恋で話が盛り上がる女子たちには、話が通じるはずもなかった。  それでも、二ノ文が業務をサボってくれるようになったおかげで、嫉妬の対象からは外れるようになったのだが。  いや、おかげというのは癪に障る。もともとはこの男のせいなのだ。 「何か用かって、ノック二回の時点で気がついてるだろ?悩み相談したい本郷楓さんだ」  二ノ文は後ろに立つ女性を見て言った。  そう、これが私の悩みの種であり二ノ文がこの辺境地に現れた理由だ。初まりは簡単な悩み相談だった。一年のときパートナーだった図書委員の女の子が、クラスの友達と喧嘩をしたという話を私たちの他に誰もいない図書室の貸出業務のカウンターで聞いた。彼女は友達が怒った理由が分からなかったらしく、私が怒った原因を調べ喧嘩の仲裁をしたのだ。  その子が悩み相談のことを誰かに話したのかは分からないが、川の流れに飲まれて角が取れた石のように噂は変容し、気がつけば図書室を二回ノックし入室すると悩みを解決してくれる、といった感じに変わって広まっていった。それ以降、悩みを打つ明けに来る生徒がぽつぽつと現れるようになったのだ。  しかし、二年になってこの男が図書委員となってからは頻繁に悩める人を連れてくるようになった。理由は不明だ。もしかしたら嫌がらせではないだろうか、とも思ってしまう。  そのせいか二年になってからは、二ノ文に悩み相談をすれば図書室で彼と二人っきりになれる、と間違った噂が広がり悩みのない悩み相談が起こることがあった。図書室に行ってみれば、私がいるのだから困惑した表情を浮かべたり怪訝そうに私を見たりする。最悪の場合、激怒し睨んで帰っていく女子生徒がいたことさえあるのだ。  ほんとに勘弁してほしい。そう思うと、悩みの種はこの男の方ではないだろうか、と私は二ノ文を睨みつける。 「昼休みはどこかの誰かがサボっているから、貸出業務は私しかいないんだ。忙しいから早めに言ってくれ」  誰がどう見ても忙しそうには見えない私だが、昼休みはあと四十分しかない。早めに済ませて、残りの時間をカウンターに突っ伏して過ごすことに使いたかった。  すぐさま悩み相談を請け負ったが、怠いことには変わりない。それでも話を聞く理由は自分でもよく分かっていない。ただ、辛そうな表情のまま放っておくことができなかった。  図書委員らしく開いていた本のページに栞を挟んで閉じ、カウンターに置いていた大きい黒縁の眼鏡をかける。  レンズの片隅で本郷楓という女の子に睨まれたような気がした。  顔を上げ本郷楓を見た。  彼女の身長は女子の中では高いほうだろう。私と並ぶと私がちんちくりんに見えてしまいそうだ。長い髪は小さなリボンが付いたヘアゴムで高めのポニーテールにしていて、容姿はかなり整っている。目は大きく、顎のラインはとてもシャープだ。持ち歩きするようにしているのか小さなポーチを右手に持っている。どこかのブランド物で買ったのか、見たようなロゴとデザインがあった。ブレザーのリボンは赤く、綺麗に真ん中で結ばれている。 「急いで連れてきたから悩みの内容は俺は知らないんだ。とりあえず、さきに楓さんについて話しておくとだーー」 「一年でバスケ部のマネージャー。つまりは二ノ文の後輩といったところか」  私は言下に答えた。 「……さすがだな。なんでわかった?」 「まずは普通に見ればわかると思うけど、ブレザーのリボンが赤色ってことで一年生だろ。そして、その身長からしたら高身長の部活に所属していた可能性がある。まあ何もしていないこともあるだろうけど、二ノ文が急いで連れてきた割に、彼女について説明できるってことは、相談を持ちかけられる前から面識があったってことじゃないか?だから直属のなんらかの後輩じゃないかと思ったんだ。で、図書委員でこんなに綺麗な子は見かけたことはないからな」  この高校では学年によって女子のリボンの色が違う。一年は赤、二年は青、三年は緑といったように分かれていて、入ってくる一年生が卒業生と同じ色を使うため、この三色が回り続けるのだ。 「まあ、リボンの色は赤じゃなくて臙脂色だと思うが……じゃあなんでプレイヤーじゃなくてマネージャーだと思ったんだ?」  臙脂色という色は私の頭の中にはない。  二ノ文は新しいおもちゃを見つけた子供のように、好奇心を一つも隠そうとせず、立て続けに質問してくる。  私たちのやり取りを本郷楓は私と二ノ文を交互に見るように目を動かしている。 「それはお前が一番よく知ってるだろう」  私の問いに対し、二ノ文は顎に手を当て考える人のポーズをしながら眉間に皺を寄せた。彼がその仕草をすると映画のワンシーンのように様になっている。 「そうか、バスケ部は男女一緒に練習しないからか。練習のときは体育館を丸ごと使うし、男子は第一体育館、女子は第二体育館で場所も決まってるしな」  彼はグーとパーの手で打ち合わせて答えた。  私は二ノ文の回答に頷いた。  この学校は敷地が余っていたのか体育館が二つある。そのおかげもあってか、運動部は強豪校と言われるほど強い部活が多かった。バスケ部もその一つで、強い部活は体育館を丸ごと使って練習が行われる。 「身長を見て最初はプレイヤーだと思ったが、この学校のシステムを考えるとな。一緒に練習しないとなると、さっきも言ったように悩みの噂があるからって一年生が二ノ文に簡単に話しかけられるとは思えない。バスケ部ともなると、それこそ先輩の圧があるだろうからな。まあ、この子がそんなの関係なしに積極的な女の子なのかもしれないが、見るからにしてそれはなさそうだ。それで考えられるとしたら、マネージャーってわけだ。マネージャーなら部活のことで話す機会はあるだろうし、二ノ文が説明できるほどの知り合いにもなりうるってこと」  右手に持ったポーチを両手でぎゅっと握り、視線を彷徨わせる彼女は、見るからにコミュニケーション能力が高い方だとは思えなかった。まあ、さっきから質問と応答のラリーで、話しに入る隙がないのかもしれないが。 「俺の友達の妹とか、近所の知り合いって可能性もあっただろう?」 「その可能性も頭にはあったけど、それなら年下の子に楓さんなんて付けないで、楓ちゃんって呼ぶだろう。まあこれらの要素で確定にはならないが、正解ってことは運が良かったってことだ……それよりも早めに相談内容を聞かせてくれ」  カウンターに肘をつき、背の高い二人を眺める。こうして並んでいると美男美女でいいカップルにも見える。この二人に挟まれて私が立ったら、中学生じゃないか。  私は視線を下に戻し、首を振って考えを打ち消す。  二ノ文が本郷楓を促す。彼女は困惑した表情のまま私の前に立った。二ノ文は彼女の二歩後ろで私たちの様子を眺めている。こうやって前に立たれると、モデルのようなスタイルにさらに圧倒された。何もしていないのに、なんだか敗北感があって少しだけ身を引いてしまう。 「え、えっと、この人に相談するんですか?」  相談主は訝しそうに私を見る。  図書室の噂を聞きつけて私に相談しに来たんじゃないのか。相談に力を入れようと思ったが、相談がないなら図書室で力を抜くことに力を入れたいんだが。  本郷楓は私と二ノ文とを交互に見やっている。私は彼女の後方で腕組みをしている二ノ文をじっと見た。 「ああ。紹介してなかったね。俺と同じ図書委員の一ノ本文だ。口調はこんなんだけど一ノ本に任せてれば大丈夫だよ」  粗暴な口調で悪かったな。その言葉が喉まで出かかったが、息を飲み込むのと一緒に喉の奥に流し込む。 「え、え……あ、はい。えっと相談というのはこの手紙のことです」  明らかな戸惑いが彼女の目の動きから伝わってくる。これは私のことを紹介する以前の問題ではないだろうか。  二ノ文の優しい声に流されるように、本郷楓は両手で持ったポーチに顔を近づけて中から小さな手紙を取り出した。ポーチの中身は見えないが、物をそこまで詰め込むタイプではないことは取り出す時の音で分かる。緊張しているのか、手紙を取り出す彼女の表情は固い。  取り出された手紙はよく見かける上部を折ると、三角形の頂点が手紙の真ん中あたりにくるタイプの物で、その頂点には赤色のハートのシールで留められている。  なんと在り来たりなラブレターだろう。ここまで形式通りな物だと、逆に珍しいと感じるほどだ。でも、メールで告白を済ませてしまうより私は好きだ。  ラブレターと思わしき物を持っている彼女の手は微かに震えている。 「え、えっとこの手紙が机の中に入っていたんです」  赤いハートのシールからラブレターを予想していたのに、彼女はラブレターとは言わず、手紙と言った。 「手紙の中は見ても大丈夫?」 「は、はい」  私は彼女から手紙を受け取ると、一度剥がされた形跡がある赤いハートのシールを取り、中から一通の手紙を取り出した。  026754  123030  536201  748912  彼女がラブレターと言わない理由が判った気がする。これはほんとうにラブレターなのだろうか。  私が手紙の内容を読んでいると、二ノ文がカウンターの中に回ってきて、私が持つ手紙を覗き込むと「なんだこれ?」と声を漏らす。  真っ白なコピー用紙にパソコンの文字で打たれている。こんな手紙の内容なら、もはや推理小説ヲタクの挑戦状と言われたほうが信じる気がする。  私と二ノ文が悩んでいると、彼女は手持ち無沙汰なようだった。手に持ったポーチだけは大事にぎゅっと掴んでいる。 「あ、あの頼みごとをしておいて、なんですが、五分ほど離れても大丈夫ですか?」 「え?ああ。だいじょうぶだよ」  二ノ文が答えると、固い表情を崩して図書室から出て行った。 「友達と待ち合わせか?」 「トイレとかじゃない?校舎離れてるし、用事なんて五分で終わらせられないでしょ。トイレに行きたいなんて言いづらかったんじゃない?それか空気に耐えられなくなったとか?……まあわかんないけどさ」  図書室は四つある棟の第一棟の二階の隅にあった。第三、第四棟は各クラスがあり、第二棟の二階には職員室、生徒指導室、理科室、視聴覚室などがあり、一階には生徒玄関があった。第一棟は、頻繁に訪れることはない校長室や事務室が一階にある。この学校の図書室の人気のなさは、もしかしたら図書室の配置による問題なのかもしれない。各棟は横並びにあって、一階と二階が中央と、図書室側ではない方の隅にある渡り廊下で繋がっている。上から見ると、円という文字が二つ横並びになったように見えるだろう。  しかし、いくら読んでもこの暗号、解ける気がまったくしない。というより、暗号解読は私よりもはるかに一ノ本のほうができるだろう。 「日本十進分類法……2タッチ法……ポリュビオスの暗号表……」  後ろでぶつぶつと呪文のように呟いている。たぶん私が知らない暗号を解く何かなのだろう。学年一位の知識量はやはり圧倒的だな。  後ろを振り返り彼の顔を見ると、真剣に紙を見つめている。顔は確かにいい。私だって普通の女子のようにバランスの取れた顔をかっこいいとは思う。  性格だって明るくて気さくで、誰に対しても裏表なく付き合っている。 「暗号解読は任せるよ」  私はなんだか恥ずかしくなり、少しだけ彼から離れて手紙を二ノ文に投げ渡した。時計を見ると、もうすでに昼休みは三十分しか残されていない。  図書室を出るとかなりぎりぎりになるかも。  予定よりも早く本郷楓は図書室に戻ってきた。少しは落ち着いたのか、さっきよりも戸惑いの様子は感じられない。強張った表情は柔らかくなっている。 「戻ってきてすぐで悪いんだけど、ちょっと付き合ってもらってもいいかな?」  図書室の入り口からこちらに向かってくる彼女に私は言葉を投げかける。 「え、え?」  せっかく落ち着いた彼女の表情に再び困惑が浮かび上がった。  それを無視し私はカウンターを出て、彼女のところに向かった。今まで暗号解読に頭を回していた二ノ文も、そこで私が動いたことに気がついたのか、手紙から顔を上げる。 「なんだ?どこかに行くのか?」 「ああ、机の中にその手紙が入っていたんなら、教室の様子を確認しておきたいんだよ」 「それなら俺も付いていくよ」  二ノ文が手紙を折り畳み、私たちのもとにやってこようとするのを、私は左手を出して制した。 「二ノ文はここで待って暗号解読をしといてくれ。誰も来ないにしても図書室を無人の状態にはしておけないからな。それに目立ちたくない」  彼が隣で歩こうものならば、どんな目を向けられるか、わかったものではない。女子の目線は必ず集めることだろう。しかも、本郷楓までいるのだ。男子の目線も集めてしまえば、校内中の視線を投げられることになる。それは絶対に勘弁してほしい。 「そうか。わかった、じゃあ俺はここで待ってるよ」  幸いにも自分が目立つことに二ノ文は自覚がある。もしこれで、「え?なんで目立つんだ」と鈍感系主人公のようなセリフを吐いていたら、私は身長差を考えずに右ストレートをお見舞いしてやるだろう。そのパンチが彼に効くとは思えないが。 「あの、私はここで待っていてもいいんですよね」  戸惑っているせいか、本郷楓はそんなことを言った。私が一年の教室に一人で行って何になるというんだ。彼女には手紙を見つけたときの状況を説明をしてもらわなければならない。 「いや、悪いんだけど一緒に来てもらうよ」  私の言葉に表情を曇らせるが、私は強引に彼女の手を引いて図書室を後にした。彼女は手紙が気になるのか、ちらちらと後ろを振り返っている。  日差しは少しずつ強くなり、春の終わりを徐々に感じていた。虫たちが冬の間に力を溜めたのか、日ごとに騒々しさが増している気がする。もう散ってしまったが第一棟と、第二棟を繋ぐ中央の渡り廊下の窓から中庭の桜が見えた。窓は誰かが開けたままにしているのか、頬を風が撫でる。私の前髪は風の力でほんの少しだけ揺れた。遠くで元気すぎる男子生徒の笑い声があった。しかし、周囲に職員室などがあるせいか、このあたりはとても静かだ。私と本郷楓が床を歩く音が渡り廊下に響くほど誰もいない。遠くにあるクラス棟の方では生徒がちらちらと見えた。この高校がかなりの大きさであることはたしかだろう。近々、新しい校舎も建つらしく、すでに建設の何割かは終わっているそうだ。  私は虚んでいた目に力を入れ、両手を後ろで組み背筋を伸ばす。  振り返ると、本郷楓は私の後ろを大人しく付いてきている。目線は私の足元を向いている。その表情は落ち着いているようにも落ち込んでいるようにも見えた。 「そういえば、クラス聞いてなかったよね?」  私は彼女の横に並んで、微笑んで彼女に訊ねた。 「えっ、は、はい……1のJです」 「そっか、じゃあ二階だね」  話しかけられると思っていなかったのか、彼女の返事は滑らかではない。  彼女はなぜ暗号解読を頼んだのだろう。もはやあんなのはラブレターなんかじゃない。ひどいと思われるかもしれないが無視してしまえばいいのだ。そうされても仕方のない内容であることは確かだろう。それなのに、なぜわざわざ解こうというのだろうか。 「そういえば、なんでマネージャーなのかな?」  気になっていたことがあり、彼女の表情を見ながら私は訊ねる。 「え?」  何を訊かれたのか分からない様子で彼女は小首を傾げた。 「その身長ならプレイヤーでも全然問題ないんじゃないかなって思って。というより中学のときはプレイヤーだったんじゃないのかな?」 「えっと、あ……違い……ます」  彼女は首をかすかに横に振った。 「そっか。なんとなくそう思ったんだけど、違ったんだ」  私は視線を前に戻しながら答える。  私が彼女ほどの高身長だったら、運動部に所属していたかもしれない。  彼女は不思議そうに私のことを見つめる。 「あの、ひとつ……訊いてもいいですか?」  やはり、訊いてくるだろうとは思っていた。  私は何も言わずに頷いた。 「図書室にいるときと態度が違うような気がするんですけど」  ここまで違うとさすがに気がつくのだろう。  第二棟と第三棟の渡り廊下で私は立ち止まった。彼女も私に合わせて足を止めた。 「あの図書室の貸出カウンターが私にとって休憩場所なのか、図書室にいる間だけはなんでか口調が変わっちゃうの。あれが素なのか分からーーー」  私が言い終わる直前、後ろから大きな声とともに背中から抱きつかれる。 「ふみちゃん!!」  高校生にしては大き過ぎる膨らみが後頭部に当たり、勢いよく前に倒れそうになるのを足で踏ん張った。私を家にある大切な人形のように、後ろにいる人物はギュっと抱きしめる。 「唯香ちゃん。重いよ」  いきなり現れた謎の少女に本郷楓は目が点になる。いや、それよりも私が唯香と仲が良いいことに驚いているのかもしれない。  三ノ宮唯香。冒頭でこの学校に二ノ文透を見知らない女の子はいないと言っていたが、唯香はそれの女性版とでも言えばよいだろう。彼女を見知らない男の子はいないほど彼女は有名だ。家がお金持ちで、父はITの社長、母は有名なブランドショップの創始者である。唯香は三人姉妹の一番末っ子なのだが、姉二人も女優業や女医など、これまた漫画の中の登場人物のような存在だ。  唯香が私に対してこんな態度なのには理由が色々とある。その話をすると彼女との出会いから語らなければならなくなり、とてもじゃないが昼休みが終わってしまうため、今回は割愛させていただく。しかし、本当の理由は私の背が小さいからだと睨んでいる。彼女は末っ子だったからか、年の離れた妹のように私に接してくるのだ。 「文ちゃん!重いって言わないで!最近、ちょっと太ってきた気がするんだから……」  私の体を離し、彼女は自分の体を見下ろしているが、その体に無駄な脂肪が付いているとは思えない。いや、一部分あまりにも発達はしているが、それは太ったとは言わない気がする。  ただ立っているだけなのに彼女は絵になる。整った鼻筋に白くすべすべの肌。黙っているとクールな印象を与えそうだが、笑顔で話す目の前の彼女はそのようなイメージは全く感じられない。渡り廊下を通る風は唯香の長くまっすぐな絹のような黒髪を揺らし、屋根があって日差しは入らないはずなのに、彼女だけが日に当たっているかのように輝いて見えた。 「いつもの図書委員はどうしたの?」  私は、私の後ろで変わらず驚いた表情をしている少女を手で示して説明する。 「お悩み相談だよ。今から一年生の教室に行くところで、図書室は二ノ文に任せてるの」 「また、二ノ文?私でさえ文ちゃんのことを思って、図書室には行かないようにしてるのに!」  彼女は私が図書委員を選ぶ理由を話した唯一の人物で、なぜかわからないが、校内一女子にモテる二ノ文を敵対視している。この二人が付き合ってしまえば、誰も文句は言わないだろうに、と密かに思っているが、それを口にすれば唯香から何を言われるかわかったものではない。 「あ、あの!お疲れ様です!」  私には図書室で会ったとき挨拶はなかったが、唯香には何かオーラを見たのか、本郷楓はしっかりと頭を下げた。いや、別に私に挨拶して欲しいとは思わないが、なんとなくつまらない。 「お疲れ様〜」  唯香は本郷楓と同じようにしっかりと頭を下げた。後輩であってもこういった態度を計算無く対応する性格が人に好かれる所以だろう。 「ねえ文ちゃん、私も一年の教室に付いて行っていい?」 「それ(だけ)はだめ。唯香ちゃんが来ると、目立っちゃうもん」  唯香は「けちけち」と言いながら、私を胸に埋もらせるようにハグをしてくる。これだけ美人だと同性の私でも少し照れてしまう。 「あれ?それママのブランドの最新作だ」  私の頭の上から何か見ているのか、動くのを止めて唯香はそんなことを言った。私はどうにか唯香のハグを振りほどいて、彼女の視線を辿ってみると、本郷楓が持つポーチに行き着いた。  どこかで見たと思ったら、唯香のお母さんのブランドだったか。唯香の家に遊びに行ったとき、ポーチのロゴを見た記憶が甦った。 「そうなんです!私、唯香先輩のお母さんのブランドが大好きで!」  さっきまでしどろもどろ話していたのを全く感じさせない様子で淀みなく言った。最初に挨拶をしたのはオーラなどではなく、元から唯香のことを知っていたからなのだろう。  母親の商品を褒められると嬉しいのだろう、唯香は笑顔を見せた。 「ありがとうね。これからも応援してくれると私も嬉しいな」  この艶然とした微笑みを男の子が食らったら一発で落ちるだろう。現に女の子である本郷楓も、唯香にうっとりとした表情で見惚れている。  彼女が母親のブランドを買ってくれた人にこの表情をすれば、それだけでリピーターが倍増しそうだ。  1のJに着いた。当初の目的を忘れるわけにはいかないので、駄々をこねる唯香に「昼休みが終わってから教室でね」と言って、一年の教室に向かった。本郷楓もまだ唯香と話がしたかったのか名残惜しそうにしていたが、大人しく私の後に付いて来た。  1のJは第一棟の二階の端にある。学校を上空から線対称で見ると図書室と対面に位置する。他の学年と違い、一年生はグループができ始めた時期だからか、クラス内は少し騒々しい。ちょっとでも目立とうと、大きな声を出して話す男子や、話題が尽きないのだろう女子は常に口が開いているように見える。  私は眼鏡を少しずらし、目頭を人差し指と親指で押さえ顔をしかめる。  さすがにこれだけの人数がいると疲れる。今では慣れた気怠さが体を襲った。 「楓さんの席はどこかな?」  私はずらした眼鏡を戻しながら訊ねた。彼女は人差し指で後方の窓側の席を差す。 「あそこの一番後ろの窓側の席です」  この季節だったらクラス内で一番良い席ではないだろうか。  そう思ったが彼女は私ではないのだ。陽射しが強く当たるこの季節の窓側の席は、あまり嬉しい席ではないのかもしれない。  黒板側の入り口から教室内を覗いていた私たちに気がついたのか、クラス内で話す女子生徒の一人が笑みを浮かべて近づいてきた。私は眼鏡を外す。 「楓ちゃん!どうだった?あの、ラブレターの相手は見つかった?」  あれをラブレターと呼んでいいのか私はまだ決めかねているが、彼女の目はラブレターと確信している。いや、というよりも確信させたがっているように見えた。また、心配よりも好奇心を多く含んでいるようだった。 「えっと……いまこちらの文先輩と、図書室では二ノ文先輩があの手紙を解いてくれてるところなの」  本郷楓に目を向けると、彼女の視線は泳いでいて緊張の色が現れている。  二人の関係はそこまで深くはないのかもしれない。 「ふーん……この人が」  彼女は呟くと、私を懐疑的な目で見る。 「まあ、いいや。また何かわかったら教えてね」  目当ての話が知れなかったのか、彼女は足早に女子生徒の輪に戻っていく。もしかしたら、あの輪では本郷楓の話で盛り上がっているのかもしれない。私は眼鏡を掛け直した。 「さっきの子はなんで楓さんの手紙の話を知ってるの?」  私は顔を上げて、本郷楓を見て訊ねる。 「姫花さ……彼女たちが『二ノ文先輩に悩み事を相談すれば図書室で解決してくれるらしいよ』って話していたのを耳にして、私はこの手紙のことを二ノ文先輩に相談しようと思ったんです。そのときに彼女たちに詳しく話を訊いたので」  図書館での二回ノックもそうなのだが、噂というものは尾ひれが付くものだ。二ノ文を通さなくても、二回ノックをしなくても私は相談にのる。 「あと、ちょっとだけ暗号を解読してもらおうとしたんですが、こんなの送るなんて面白い人だねって言われただけでしたね」  まあ普通はそうだろう。誰が好んでこの手紙の差出人を探すというのか。 「お……お疲れさまです」  教室を覗く私たちの背後から声を投げかけられた。本郷楓はひっ!と声を上げ、さすがの私もビクッと体が強張る。後ろを振り返ると、私と似たような黒縁の太い眼鏡を掛けた、男にしてはカーテンみたいな長い前髪の男子生徒が立っている、顔にはニキビが目立ち、身長も私より少しだけ大きいだけだ。 「あ!図書委員の瀬戸宮光くんだよね」  彼は自分が知られていたことに驚いたのか、髪に隠れた目が見開いた。  瀬戸宮光は私に貸し出し業務を譲ってくれた(少し強制的にではあるが)一年生の図書委員で私はとても評価している人物だ。排架作業も丁寧で、彼が排架する当番の日は図書室がいつもより綺麗に感じる。あまり整っていない場所と、整理された場所でダラダラするとしたら、後者の方が断然気持ちがいい。見た目通り、大人しい性格ではあるが、それも彼の長所だと私は思っている。 「ほ……本郷さんと一緒で、せ……先輩は何をされているんですか?」  意外にも瀬戸宮光と本郷楓は知り合いらしい。失礼な話だが、あまり共通点があるようには思えない。となると、彼は1のJの生徒ということか。 「二人は知り合いなの?」  私は推測が正しいことを確かめるために訊ねる。 「えっと、瀬戸宮くんとは隣の席なんですよ」  本郷楓は穏やかに答える。彼女は彼に対しては緊張しないようだった。それは彼が緊張しない相手というよりも、自分よりも緊張している人物がいると、落ち着きを取り戻せるといった様子だった。 「そ……そうです。ただ、と……隣の席ってだけで」  何もないのに彼は何度も頭を下げながら言った。 「そっか。私は本郷さんから頼みごとをされて手伝っているだけだよ。彼女がちょっと特別な手紙をもらって、その差出人を探してるんだ」 「ち、ちょっと」 「て、てがみ……」  本郷楓はあまり周りに知られたくないのか、焦った様子で、瀬戸宮光は消え入りそうな声で呟いた。  なるほどな。私はピースを徐々に集めている感覚を憶えた。  私は1のJを去って、図書室に戻ることにした。1のJから帰るとき、「もういいんですか?」と本郷楓が訊いてきたが、もうあのクラスで集められそうな情報はなさそうに思え「だいじょうぶ」と答えた。それに昼休みが終わるまで、あと二十分。時間は少ししか残されていない。瀬戸宮光は私たちを止める様子なく「お……お疲れ様です」と挨拶して別れた。  外で駆け回っていた生徒はほとんどいなくなっている。バラバラに散らばっていた生徒が徐々に教室に戻り始めているのだろう。  走ることはしないが気持ちは急ぎ足で第一棟と第二棟の渡り廊下を歩いていると、一年生だと思われる生徒が私たちとすれ違う。やはり、すれ違いざまに本郷楓をちらりと横目に一瞥する男子生徒は多く、彼女が目立つ存在であることは間違いなかった。  前を歩いていた本郷楓はその場で急に立ち止まる。私は急な静止に危うく彼女の背中に顔をぶつけそうになった。立ち止まる彼女の後ろから上半身を傾けると、すれ違う多くの生徒の中で、一人の女子生徒が立ち止まって本郷楓を見つめている。  急いでいるのに、と思わないでもないが、悩みの相談者が立ち止まってしまうと捨て置くこともできない。 「楓ちゃん……」  本郷楓の名前を呼ぶ彼女は肩にかからない位の髪を、後ろで小さくリボンの付いたヘアゴムで束ねている。目測だがほとんど身長は私と変わらないだろう。顔もどちらかというと丸顔で可愛いというより野暮ったい印象をもった。 「美奈ちゃん……」  本郷楓は俯いた。  美奈と呼ばれた女子生徒は言葉を探しているが、それが胸のあたりで止まっているようだった。意を決したのか女子生徒が何か言おうと口を開きかける。 「美奈ちゃん!頑張ってるんだね!」  美奈が何かを言うのを遮るように本郷楓は顔を上げ笑顔を作った。その言葉に美奈は開きかけた口を力なく閉じた。  本郷楓は早歩きで美奈の横を通り過ぎていった。私は彼女らの関係に何も問わず、黙って彼女の後を追いかけた。何も言わず顔を俯けた美奈という女子生徒の横を通るすぎると、微かに甘い制汗剤の匂いが鼻腔をくすぐった。  図書室に戻ると二ノ文が二冊の本を持って、バーコードを読み込んでいるところだった。新書が届くと図書委員がバーコードのシールと、その上から保護フィルムを貼り、貸出の時にはそのバーコードをパソコンに読み取らせるのだ。私は新書の業務に携わってはいないが、他の図書委員が懸命に作業している姿は記憶にあった。  それと、最初に言っていたように週二、三人しか貸し出しはないが、その二、三人にいつも含まれているのが二ノ文だった。見た目はスポーツ系男子といった印象だが、意外にもこの学校で図書室を一番利用するのは彼だった。 「暗号分かったか?」  私がカウンター内に直接向かう。図書室に入った途端に伸びた背筋は曲がり、声も低くなった。本郷楓はカウンター内に入るのは遠慮して、カウンターを挟んで私たちの前に立つ。 「いいや。まったく分かんなかった。お手上げだな。だから昼休みが終わるまでに借りたい本を借りとこうと思って」  二冊の専門書を持ち上げて二ノ文は言った。私はパソコンの前にある二ノ文が座っている椅子とは別の椅子に腰を降ろす。二ノ文は期待した目を私に向けている。 「なにか分かったのか?」 「まあな。ちょっと考えをまとめたいから少しだけ集中していいか?」  二ノ文と本郷楓、二人に目で返事を求める。二ノ文だけが頷いた。それを見た私は眼鏡を外し、頭を下げキーボード辺りに視線を置いた。  昼にあったできごと、集めたピース。ほんの三十分の間に起きたことを頭の中で巡らせる。ラブレターのような手紙。暗号にした理由。バスケ部のマネージャー。クラスの雰囲気。クラスメートたち。トンネルを進む新幹線の車窓から、流れていくライトを目で追うように私の頭の中で、今日のことが過ぎていく。 「大丈夫だ」  二ノ文には慣れた光景だろうが、本郷楓は眉をひそめ訝しそうに私を見ていた。 「じゃあ、まず暗号解読からだな」 「んーいろいろ試してみたがどれもうまくいかなかったな」  預けていた手紙を二ノ文はカウンター下のレターケースから取り出し、私に手渡す。私はその手紙の中から暗号文書を引き出し、自分だけが見えるように立てて眺めた。 「この手紙の差出人を考えたら、自ずと答えは出てきたよ。それに二ノ文がいろいろ試してくれたってことは、私の考える可能性以外が潰れたってことだ」 「ちょ、ちょっと待ってください!暗号が解けたって言うんですか?」  本郷楓は状況を受け入れられないのか、初めて声を荒げた。 「ああ、そうだ。配架って作業は分かるか?」  二ノ文は当然分かっているが、本郷楓はどんなものか想像できないのだろう眉間に皺を寄せている。 「配架ってのは簡単に言うと、図書室や図書館で新書や返却された本を決められた分類方式に従って並べることだ」 「それが暗号とどう関係があるんですか?」  彼女は私の考えが信じられないといった様子だった。私はその態度に確信を得ていく。 「図書館や図書室で配架のルールは違うかもしれないけど、この学校の図書館では英文字のZの順で一つの本棚に本を納めて、本棚が埋まれば横に並ぶ本棚の一番上から同じようにZの形で収納する方法を採ってる」  二ノ文は私のキーワードを元に暗号を解こうとしているが、うまくいっていないようで顎に手を当て考える人のポーズのまま視線が上を向けていた。 「ところで、暗号がどんな数字の羅列か楓さんは憶えてる?」  いきなり私が話を変えたが、彼女は素直に答える。 「えっと、026754、1……23……030……」  その先は思い出せないのか、彼女は二列目で言うのを止めた。ただの数字の羅列を二列目まで言えたことに感心する。記憶力はかなりいい方だ。 「というより、その紙に書いてあるんですから憶えてなくてもいいじゃないですか」 「まあ別に憶えてなくても問題はないんだけどね」  だけど、憶えているか憶えていないかで、私がどう行動するかが変わってくる。 「じゃあ話を元に戻すけど、配架の順で暗号を読み進めると、とある名前が浮かび上がる。これがパソコンで打たれたもので、横列を0123、縦列をキーボードに配置された数字と同じように見ると、『せとみやこう』って浮かび上がるんだよ」  二ノ文は私の答えに何か思い当たるのか、訝しそうに私を見ている。 「あ、ありえません!浮かび上がってくるなんて!てきとうなこと言わないでください」  本郷楓は声を荒げた。私はカウンターを飛び出し、手紙を持っていない方の手で彼女の手を引き、図書室から連れ出す。予想外の動きに彼女は抗えず引っ張られるままだ。図書室のドアがバタンと閉じられる直前に暗号の意味が解ったのか室内から「ま、待て!それじゃあ暗号は解けなく……」と聞こえたが、私は無視し近くの女子トイレに入った。ここだったら、二ノ文は来れない。 「は、離してください!いきなりなんなんですか!」  本郷楓は女子トイレで私の手を強引に振りほどく。 「あんな風に言ったら、暗号は解けないものだって言ってるようなもんだよ」  彼女はさっきまでの自分の言動を振り返り気がついたのか、手を口に当てその可愛い顔を歪める。 「ちなみに、暗号はほんとうに解読した。中途半端にだけど」  私は暗号を彼女に見せる。  026754  123030  536201  748912 「配架とおりに読むと、75、43、86、92、10、21、10、22、36、07、35、04。これをキーボードのカナ配列で見て、横列を0から3の数字、縦を0から9の数字で表すと、配架で並べた数字の後半は『せとみやこう』ってなる」  図書室でもないのに私は低い声できつい言葉遣いのまま言う。  私は携帯からキーボードの画像を検索し、暗号と一緒に彼女の目の前に出した。  彼女はそれをじっと眺めると、頭の中で解いたのか苦い顔になる。 「都市伝説とか噂もそうだけど、こういうのは強引に解釈させることもできる。つまり私の暗号の解き方はフェイクだよ。これじゃあ数字の後半部分はまったく解けないからな。瀬戸宮くんには悪いけど、今回は名前を使わせてもらった。あなたの反応を見たかったから。ほんとうはラブレターなんてなかったんだろ」  彼を勝手にラブレターの主にしたんだ。申し訳ない気持ちはある。 「ほんとうのラブレターはそのポーチに入ってる。そのポーチ唯香ちゃんの家で見せてもらったことがあるけど、中にチャックで収納できるスペースがあったはずだ」  記憶の中で唯香ちゃんが、お母さんの商品を私に嬉しそうに紹介していたのを思い出す。  彼女はぎゅっと力を込めてポーチを握る。 「私はここにいるから渡してきなよ。二ノ文に渡すつもりだったんだろ?」  彼女は驚いた顔で私を見る。 「どこまで分かって……」 「まあ最初から暗号を解いてほしいんじゃないのだけは分かってた。こんな私だけどちょっとばかし特技があってね」  私は気怠く過ごすのにはわけがある。以前、気怠くなる理由が分からず病院にも行ったこともあるが、この気怠さと付き合ううちに原因は私の母親にあったことがわかった。私の母は心理学者で、父は脳科学者だ。父は研究第一な人で大学の研究室にいることが多かったが、母は違った。経営コンサルティングやカウンセリング、セミナーを開き、得た知識を存分に使い、人心掌握術に長けていた。そんな母は私に人の行動から考えや嘘を見抜けるように指導した。しかし、私は母のようにはならなかった。熱心に教える母に私は反発した。自身の知識を過信していたのだろう。母は私を操れると考えていた。人間の脳はまだ少ししか解明されていないのに、母は持った知識を全てだと勘違いし、あの手この手で私を指導しようとする母の裏側を見た気がした。そんな母から離してくれたのは父だ。 「文は君の道具じゃないんです。一度、頭を冷やしてください」  温厚な父が初めて怒り、その場で私を連れ出した。  その後、二人は離婚という決断にいたらなかったが、父は私のために母と離れて暮らしている。母が私と落ち着いて会えるまでのあいだ、父と二人、アパートを借りて生活しているのだ。  幼い頃から刻まれた知識は気がつけば勝手に人の行動を読み取ろうとするようになっていた。学校など多くの人が集まる場で、私の集中力の半分は人の動きに向いている。母の教えは、人が隠しごとをしているのを見抜く力と、嘘をついているのを見抜く力を私に授けた。その力の影響で気力を使い果たし、中学生のとき学校にも行けないほどの気怠さを感じるようになった。病院でも原因は分からなかったが、父に相談してみると、父はこの伊達眼鏡を私にくれた。  これを掛けている間は視界が狭まり、前のような気怠さを感じることはなくなった。まあ多少の気怠さは拭えず、昼休みには図書室で怠けることにしてるのだが。 「初め楓さんがここに相談しに来たときに、隠しごとがあるのは見抜いてた。楓さん一度も暗号を解いてほしいって言ってなかったし。楓さん自身が暗号なんて解けるはずないって知ってたから、無意識にその言葉が出てこなかったんじゃない?」  だから私は早々に解読を諦め、二ノ文に手紙を任せた。  そして、演技できるほど彼女は冷静でなかったはずだ。だって私が図書室にいることが彼女にとって予想外だったのだろうから。 「楓さんが二ノ文のことを好きだって気がついたのは、1のJに行ったとき。そのとき楓さんは『二ノ文先輩に悩み事を相談すれば、図書室で解決してくれるって話をしていたところを聞いて、私はこの手紙のことを相談しようと思った。彼女たちから、どうすれば二ノ文先輩が相談にのってくれるのか訊ねた』って言ってたけど、私のことが噂話に含まれてなかった。前にもこういうことがあって、二ノ文と二人きりになりたくて相談する人がいたけど、私がいることを皆んな知らなかった。だから、最初この図書室に入ってきたときに私を見て困惑してた楓さんを見たときもしかしたらって思ったんだ」  たまたま耳にした情報ってのは直接教えられるよりも、より情報が真実であると確信してしまうものだ。だから楓さんは信じて疑わなかった。そして、強固に信じていたことが間違いと知り、彼女は図書室に相談しに来たときに、そわそわと落ち着きがなかったのだと推測する。  また、私が一年の教室に行こうとするときも、彼女は図書室に残ろうとした理由も明白だ。告白のチャンスだと思ったからだろう。  フェイクのラブレターを用意する必要性はあったのか。それについては、周囲を考慮した結果だろう。表立って二ノ文を呼び出せば周りの女子生徒からどんな視線を投げつけられるか分からない。しかも、それが同年代だけでなく二年の先輩たちもだったとしたら。  これらは全て推測の域を出ることはない。しかし、今の彼女を見るに当たっていたのだろう。  私は偽のラブレターを彼女に渡し、彼女の背中を押した。  彼女は握ったポーチをぎゅっと掴んで、私の目を見て小さく頷き、トイレから出ていった。 「告白したら、ほんとうにやりたいことをやれよ」  ゆっくりと図書室に姿を消す本郷楓にそんな言葉を送った。その声が彼女に届いたのか私にはわからない。  少しすると、本郷楓が図書室から飛び出し渡り廊下の方へ消えていった。私は二ノ文が一人になった図書室に入る。 「ラブレターの件、あれ解き方フェイクだよな」  二ノ文は彼女の告白で察しているようだった。 「ああ、そうだよ」  私はそう言って、ゆっくりと図書室の扉を後ろ手に閉める。 「返事はどうした?」 「断ったよ」  二ノ文はモテるが誰かと付き合ったという噂をほとんど聞かない。 「断られたとき楓さんどんな顔してた?」  私は気になって質問した。 「清々しい顔してたよ。なんか吹っ切れたようなそんな顔」 「そっか。それはよかった」  彼女が着けていた髪ゴムと、図書室に戻るときに会った女子生徒の髪ゴムは同じだった。  認知的不協和。人は本心ではやりたくないと思っていることをやっている場合、不協和を低減するため、認知の変化をさせる。彼女の場合はマネージャーであることが嫌なはずなのに、それ認めたくないがため、二ノ文を好きだと、認知的不協和が働いたのではないだろうか。  私の嘘発見器的な能力は彼女が元バスケプレイヤーではないという嘘を見抜いていた。なぜ嘘を吐いたのか、それは彼女自身が忘れようと自分に言い聞かせていたからではないだろうか。  そして帰り際に会った生徒。同じ髪ゴムを付けた彼女が何のプレイヤーなのか、過去に何があってプレイヤーを辞めたのか、それは悩み相談の内容には入っていないので、私は考えない。それに過去に拘っていたって前に進むことはできない。今の彼女がどうしたいかが問題だ。  これから先、彼女がどんな行動を起こすのか、心の片隅で楽しみにしておくことにする。 「ところで、なんて言って告白を断ったんだ?」  ただの好奇心で私は訊ねる。 「えっと、俺にも好きな人がいるからな」  短髪の頭を掻いて彼は照れたように笑みを浮かべる。 「え!」  遠慮なく私は大きな声で驚いてしまう。眼鏡の奥の二ノ文は嘘を言ってるようには見えなかったからだ。  二ノ文は私のところに近づくと頭に手を乗せてきた。私は手を払いのけ、誰もいないのに周りを見回してしまう。もし、女子生徒に見られていたらと思うと。 「そいつは俺のこと嫌いっぽいらしいがな」  ため息を吐いて寂しそうな顔を浮かべる。 「お前のことを嫌う女子がいるのか!それはいい友達になれそうだ」  そんな表情はお構いなしに、私は片方の手を口に当て、もう片方の手を腹に当てて笑った。 「うっせ」  二ノ文はその大きな掌で私の髪をぐしゃぐしゃにする。ちきしょう。  背の大きさ的に勝てる要素が見つからない。揺らされる頭で考えると、ひとりだけ二ノ文のことを嫌う女子がいることを思いつく。  そうか。彼女なら確かにお似合いだが、難しいかもしれない。 「私が仲を取り持ってあげてもいいけど」  私が見上げながらそう言うと、二ノ文は怒ったように顔を赤くして、その後は呆れたように表情が移り変わる。 「ほんと自分のことになるとーーー」  小声で呟く彼の言葉は私の耳に届かない。  図書室の壁掛け時計を見ると、昼休みは残り五分もなかった。  梅雨の気配を感じ始める。窓からは雨がゆったりと降るのが見え、微かに窓に雨粒が付いている。静かな図書室内では雨の音と壁掛け時計が時間を刻む音、そして休むことないパソコンの稼働音だけがあった。パソコンというのは働き者だなと、ディスプレイに映ったホーム画面を眺めながら思った。  本郷楓の相談から一ヶ月ほど経つ。あれ以来、なぜか二ノ文はなかなか悩みの主を連れてきていない。もしかしたら、二ノ文と二人きりになりたいがための悩み相談が続いたから、彼も申し訳なさを感じているのかもしれない。まあ、皆んなにただ悩みがないだけかもしれないが、それならそれでいいことだ。  返却ボックスにある本を一冊取り出す。スポーツ関連の本だ。カウンターを出て私はそれを本棚に戻した。  風の噂で聞いたのだが、女子バスケ部に強力な長身の新人が入ったらしい。  コート上であの髪ゴムが二つ揺れていればいいなと私はカウンターに戻りながら思った。彼女がラブレターを出したかったのは自分だったのかもしれない。勇気を出すための励ましのラブレターを彼女は彼女自身に渡せたのだろう。  身体の怠さを改善しようと、誰もいない図書室で顔を伏せて睡魔に身体を預けようとする。  そうしていると、夢か現実か二回ノックが聞こえたような気がした。また悩み相談だろうか。私は重い腰を上げた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!