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せっかく産んだ赤ちゃんだけど、やっぱり顔が気に入らなくて押し戻した感じ
髪の隙間から見える、カメラのシャッターから常に一歩引いたような幼顔。
少女性を残したままの少女。
クラスメイトの前橋里奈子が、こちらをのぞき込んでいたのだ。
前橋里奈子。
バスケ部中退でいまは帰宅部、身長は150㎝弱。
髪はリンゴのコンディショナーの香りがするセミロング、部活をやっていた頃より伸びており今のほうが好きだバストは最近A+まで上がったらしい、クラスの女子とはしゃいでいたのをたまたま聞いた細身で、激しい運動を続けていたのでふとした折に怪我でもしてしまうのではないかと心配になったこともある、その細やかで艶やかで胞衣を着せて屏風で囲って深窓に押し込んでしまいたい衝動に駆られる四肢をこっくりと垂れ下がった野花のように折り曲げて、ボクの視線の先をのぞき込んでいたいたボクを僕が読んで見てるこのボククボボボお
「ね、そんなに面白いの。その本」
彼女がもう一度口にしたのか、自分の脳がリピートで再生したのか。
弾むような問いかけに、慌てて答えようと喉を開いた。
キュエっなんて上ずった声が漏れた。
「キュェっく。おも、面白いよ…」
「へー、どこが?」
「え、やっぱり…」
世界観かな、と言おうとして止めた。
冒頭の序文を見せようととして止めた。
胎児とか、母親とか、口にしたらセクハラだと思われると思った。
この子に嫌われるのは嫌だと思った。
「文体かな、読み進めたいと思わせて来るっ、ほら、ビロビロの指の皮をめくっていく感じ、めくったらめくるだけ、ヒリヒリするけど、スッキリもするでしょ、、そんな不思議な文章なんだ、よ、、、、、ね――」
はた、と口をつぐむ。
何を熱く、それに気持ちの悪い言葉を口にしているのか。
「………」
案の定、前橋里奈子は無言のままだ。やってしまった。
嫌われるのは嫌だ、なんて言って、どれだけ健常者じみた皮を被ろうとしたところで、陰険で、陰湿で、世界を燃やしてやるぞ、なんてキチガイじみた深奥を隠しきれないなんて。
”嘘をついたら地獄に落ちちゃうよ”
死んだはずのおばあちゃんの声が耳小骨に響く。
天国から降って来たのか、地獄から這い上がって来たのか。それとも発達途中の小脳にこびりついて離れないだけなのか。
オマエのような人間が恋などできる筈がない。
強迫観念に近い老婆の思念は動悸を引き起こして、僕がここに存在する意義を根こそぎ奪って――
「――あッは」
「きゃハハハハハッ! なにその表現、郷田くんって面白いんだね…ッ!」
甲高い…いや、ヘルツ数が一周回って、可愛らしく聞こえる笑い声。
無垢で純粋な前橋里奈子の笑い声。
(この場合の”無垢で純粋”は処女性の事を指す)
僕の言語性に惹かれて笑っているのだ、と理解するのに数瞬の時間を要した。
そう、彼女は、笑ったのだ。僕の話で。僕と、話して。
「そ、そんなことないって…。ま、まぁ、ちょっと本にうるさいくらいで」
「郷田くんって、国語の成績良いしね。テストの点数、いつも張り出されてるよね」
またも一際、動悸。
前橋里奈子が僕の成績を知っている? 現代文学年二位、古文学年十一位、漢文学年七位の僕の成績を?
自慢じゃないが、入学以来国語の成績優秀者の張り出しを逃したことは無い。
と言うことは入学以来、彼女は僕の名前を認知していたと言うことなのか。それも意識して。
…いや、いや、早計はよくない。
根暗で陰険な主人公が、身の丈に合わない恋と思しき熱量に浮かれ、結果、痛い目を見る作品を過去に幾つも読んできたじゃないか。
これはたまたま、そう、たまたまで…。
「ね、オススメの本とかって、無いの? 教えてよ」
オススメの本。なぜこそんな雑談にもならないような一言が、胸中にずしりと響くのだろう。
下着の色や陰茎のサイズなんか話すみたいなシリアスさだ。
「お、オススメか…。前橋さんは、普段、どんな本を読んでるの?」
「うーん、本はあんまり読まないの。マンガとかは読むけど」
「マ、マンガ…。ボクも、生徒諸君とか、エロイカとか、読んだよ」
「えー! お母さんとかおばあちゃん世代のヤツでしょ? 郷田くん、良いセンスじゃん」
センスが良い。イケてる。センス逝ってる。
なんだろう、その言葉だけで下腹部辺りがとっても、熱く火照って焦げ堕ちそうだった。
そして、これはチャンスだった。
一切知ることのなかった、そしてこれからも知り得ることのなかった、前橋里奈子の内奥を知ることができるんじゃないかと思った。
「じゃ、じゃあ、前橋さんは普段、どんなことしてるの。趣味とかさ…」
「そうねぇ…、音楽とか聞くかな。ポップスとか、ロックとか」
ポップスという単語に、僅かばかりの虫唾が奔るが、ロックと言うのは琴線に引っかかった。
古今東西の書物に祭り上げられている文化。オルタナ的、カウンターカルチャーとしての側面を秘めている。
前橋里奈子はそれが好きなのか。なんて教養があり、そして理解のある女なのだろうか。
彼女は辺りに跋扈する雌共とは違う、理知的な内奥がある。そしてその一欠片に触れることができたのが重要だ。
前橋里奈子の秘密。これはもはや内内たる性事情を打ち明けられたことと相違ない。
”郷田くん、昨夜は何をオカズに使ったの?
私は X'Japan の hide かな。死因は首吊りだったけど、リストカットしたところを想像したの。
ほら、彼って髪が紅かったじゃない?
毛先が血色に浸って波紋がぴちゃぴちゃしてる様を想像したの。
部屋の隅にはギターが転がってて、先端も紅く染まってるの。
けどそれは彼の血じゃなくて、私の破瓜の血。彼ったら直前に私のあそこにヘッドを突き立てたんだ。
入らないって言ったんだけどね、ズブブって無理やり。
まるでせっかく産んだ赤ちゃんだけど、やっぱり顔が気に入らなくて押し戻した感じ。
ひょっとしたらあのギター、ボディは私の骨盤で作られたんじゃないかな。
弦はリンゴの香りの髪で編まれたの。
ピックはほら、親指の爪を剥いだわ。
マニキュアはピンク。
私をイかせるだけイかせて、自分はさっさと死んじゃうなんてね。
アーティストってわからないわ。
仕方ないから、彼の冷たくて青白くなった腕にこすりつけて達したの。
愛液でちょっと温かくなったのがすごかったな。
どう、とってもロマンチックなオナニーでしょ?”
…あぁ、それはスゴイな。
てっきり床や机やらで済ませてると思ったのに、そんなクールな人だったのか。
近しい本、読んだことあったっけ。
谷崎潤一郎? 江國香織? 昨今のSNSで流行ってる作家の自虐レポマンガ?
いや、違う。
これはきっと新しい文学だ、ジャンルだ。
前橋里奈子の赤裸々エッセイ。いや、退屈だな。紅裸々エッセイだ。
経血の紅に、裸々はハダカハダカと読ませる。ベニハダカハダカエッセイ。純文学ならぬ純血文学。もとい経血文学。彼女を題材にして、彼女を綴って初めて完成する、まるで新新宗教が如く高潔さ。すごいな、ノーベルなんて夢じゃない。というかノーベルなんて正直ダサくて陽的すぎる。世界的で俗的で脚光を浴びすぎて、文学の本質が何たるかを忘れている。紅裸々エッセイこそが真理。これは文章にしないと、文学界の大きな損失だと言えるだろう。
でも彼女は文章を嗜まない。じゃあしょうがない、僕が書かないと。大儀を果たさないと。さては彼女、僕がこっそり作家志望の夢を秘めていることを知っていて、僕に話しかけたんだな。なんて魔性な女なんだ。艶やかだ。やっぱりこれは僕が紙頁に刻み込まなきゃ。万年筆で削り取ったっていいくらいだ。インクにはそうだな、手首の血を使っても良い
………あ、ごめん、返事が遅れたけど、ボクはオナニーのおかずに君を使ったことは、一度だってないからね。
「……郷田くん、郷田くん?」
「――え、あぁ。うん。ごめん、前橋さん」
「考え事? 頭いい人は違うね。でさ、おすすめの本のことなんだけど…」
前橋里奈子がセミロングの髪をかき上げながら、垂らしながら、こちらをジッと見下ろして来て――。
「おぉい、里奈子ッ! 週末のライブの話なんだけどさ!」
教室に甲高いが鳴り声が響く。
あぁ、この声は。聞き覚えのある、声だ。
僕より先に、前橋さんが振り向いた。
「あっ、照人くん…ッ」
先ほどの聡明な声とは違う、湿り気を帯びた声で、前橋里奈子は、隣のクラスの天崎照人の名前を呼んだ。
あ、あぁ、あれ。さっきまで、ボクは何を考えてたんだっけ。
おしべとめしべの仕組みか。一人っ子政策か。
子宮が脱臼する奇病が世界で大流行するパニックSFの設定案か。
いや、違う、僕は、そこいらの端にも引っかからぬ恋愛小説とは一線を画した、恥などかかない、全うな思いを…、彼女から。それを、こんな、男に。
「おう、郷田じゃん。なんか久しぶりだな」
天崎、天崎照人。
祖母が燃え尽きたのに、燃えきらなかった焼けカスが燻り続けるに至った根源の一因。
「照人くん、学校ではこっそりって決めたじゃん」
「そうだっけ。まぁいいだろ」
「よくないって。もー、しょうがないんだからぁ」
困り顔をしながら、そっぽを向きながら、でも視えている。
机の下では、こっそりと手を握っている。
生理用品を湿らせている。
しってる、しってるしってる。キミのことなら、内奥まで知っている。
さっき知った、でもそれがすべては無いというのか。
「あ、天崎、くん……」
「ん、どうかしたか?」
「…えっと、あの、ほら、トレーディング・カードゲーム、まだやってる?」
「は、…えっと、なんだっけか、それ」
「う、うぅん、なんでもないんだ」
「そっか。でさ、里奈子。さっきの続きなんだけど、週末のライブのあと……」
「えー、いまそれを話すのぉ?」
満更でもなさそうな、キンキン声が、脳下垂体に突き刺さるような錯覚。
出血死しないだろうか、勿体ない。
この液体をインクに浸して、紅裸々文学を書き上げなきゃいけないって言うのに。
帰ろう、帰らなきゃ。紅裸々、紅裸々。
「あ、あれ。郷田くん?」
「帰るのか? 午後の授業どうすんだよ」
「ちょ、ちょっと、家の用事があって…」
もごもごと口にしながら、教室を後にした。
走る、走る。校舎を、街並みを、走り抜ける。
”嘘をついたら地獄に落ちちゃうよ”
掠れる景色が、まるで走馬燈みたいに見えて、同時におばあちゃんの声が天から、地の底から鳴り響いて止まない。
あぁ、あぁ。
この世の総てを燃やすには、いったい何千度の炎が必要なのだろう。
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