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そんなことを考えつつ、ともなりさまに相談してみたら、こんな返答が。
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ざっくり言って感覚の鋭さは情報を得る力、感性はそれを料理する(分析とは違います)力みたいな感じでしょうか…。
当然感覚が鋭い方が、入ってくる情報が多いので有利にはなりますが、感性が鋭くないとそれが官能的なものにはならない…。
大きな風音を聞いて感性の差によって『うるさい音』だったり『獣の唸り』だったり『精霊の歌声』だったりするような…。
感覚が鋭ければ、その大きな風音の中に、強弱のうねりがある事や、一緒に舞う枯葉の音も聞きつけるかもしれません。これらもきっと感性の差で『雑音』だったり『秘密の声』だったりするのかもしれません。
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…ということは、『感性』を豊かにするためには、『想像力』も必要?
つまり、感性の原石を見つける→それを五感や感情で、丁寧に感じてみる→自分はどう感じたのかを自分に問いかけ、想像力を駆使して別のものを思い描く。そういうことなのかなって。
…といったことを話してみたところ、ともなりさまが、さらに教えてくださいました。
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例えば夕陽を見た場合、にこさんのケースですと、
情報の入力→想像、共感→感性(表現) という感じに見受けられますので
『おお夕日だ。』→ 『何に例えられるかな、まるで火の様ではないか!雄たけびにも似ているな、そうだ、情熱ともいえないだろうか!』→ 『おお夕日だ、あたかも炎が情熱的に雄たけびを上げているようだ!』
といった感じになると思うんです。
僕はそうではなくて、 情報の入力→感性→表現 となるように思うんです。
『おお夕日だ。』→ 『あたかも炎が情熱的に雄たけびを上げているようだ!』→『あたかも炎が情熱的に雄たけびを上げているようだ!』
といった感じにダイレクトに組みあがるイメージがあります。場合によっては刻々とそれが次々沸き上がり、想像のプロセスが入らないような…。
というのは、多分ご経験あると思うのですが、何か素晴らしい光景や体験をしたときに『言葉にならない』といった状況があると思うんです。
ただただ気持ちばかり膨らんで、それに対して言葉が追い付かないような。それは感性が情報を料理するのに手いっぱいで、想像なんかに手が回らないのではないかと。
もし、にこさんがおっしゃるように、『想像力を駆使して』となると
『ああ、今、私はあたかも舞い上がるような?いや、そうじゃない、光に包まれたかのような…う~ん…』
とかいう、おかしなプチ分析が入ってくると思うんです。感性は感じたことがすべてで、分析ではないと思っていますので、順序が違うかなぁと…。
先に出した夕日で言うならば、想像や比喩を完全に無視して、
『それはただただ赤く赤く、狂おしいほどに赤く赤く、体を芯から震わすほどに赤かった…』
としても感動は伝わる気がします。(ニュアンスは伝わりにくくなりますが。)
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