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第11話
ちふゆは俄かにパニックになった。
なにを言われたのかよくわからない。
頭が真っ白になってしまい、とりあえず確かなものに縋りたくて、闇雲に伸ばした指で青藍の着物を掴んだ。
ちふゆ、と母が静かな声音でちふゆを呼んだ。
ちふゆが動揺に定まらない視線をそれでも母親へ向けると、千秋が真面目な表情で口を開いた。
「あなたがこんな場所……すみません、敢えて言わせていただきます……」
「なに、間違っちゃいねぇよ」
千秋の謝罪に、煙管の男がシニカルな笑みを浮かべた。
「あなたが、遊郭なんてこんな場所に出入りするのを、お母さんは許可できないわ。お父さんは、男の子だから気持ちはわかるって言ってくれたけど……でも、普通の場所じゃないってことは、あなたにもわかってるわね?」
問われて、ちふゆは咄嗟に肩に掛けっ放しだったバッグを、母親の足元に向かって投げた。
「ちー!」
青藍が咎めるように声を上げたけれど、構ってる場合じゃない。
「へっ、変なことしてないっ」
ちふゆは早口に言い募った。
「そ、そこにゲーム入ってんだろっ! と、トランプとか、漫画とかっ。お、お、オレと青藍は、変なことしてないっ。ただゲームしに来てただけ! べべべべ別に、やらしいコトしたこととか、いいいい一回もないからなっ」
「…………」
「…………」
その場に居た全員が、一瞬黙り込んだ。
千秋や、直春……そして、楼主や紅鳶がこちらを見て……男たちは肩を震わせて笑いだし、母親はひたいに手を置いてため息を吐き出した。
意味がわからずに青藍を振り仰ぐと、彼は犬のような顔に苦笑いを浮かべているではないか。
「ちー。いまのはアウト。バレバレ。ぜんぜん誤魔化せてない」
「なっ……う、嘘だっ」
「なんであれで騙せると思うかなぁ」
青藍が天井を仰いだ。口元を覆っているのは笑いの発作を堪えるためだ。
ちふゆは腹立たしくなって、青藍の下駄の足を踏んでやった。
「ちふゆ。嘘が下手なのはあなたのいいところだとお母さんは思うけど……なんだか複雑だわ」
千秋が首を振って吐息を漏らし、それから改めてちふゆを正面から見つめてきた。
「あのね、あなたがここに通う理由が、そこの……青藍くん? 彼が男性だから反対してるとか、そういうことじゃないの。ちふゆの人生はちふゆのものだから、好きにしていいと思ってる。でもね、ちふゆ。それはあなたが自分の責任で行動する場合に限っての話よ。自分で稼いだお金なら、風俗へ行こうが誰に貢ごうが、お母さん、なんにも言わないわ」
母の厳しい言葉が、ちふゆの耳を打った。
「ちふゆ。あなたが青藍くんに使ったお金は、お父さんのものでしょう? あなたはまず、この三か月で散財したものをお父さんに返しなさい。ここへ通うかどうかは、その後の話よ。いいわね?」
ちふゆは、ただ立ち尽くした。
それしかできることがなかった。
千秋に言われたことは正論で……ちふゆは、ちふゆのお金で淫花廓へ来ていたわけではないのだ。
返せ、と言われるなんて思ってもみなかったけれど……指摘されてみれば当然の話だった。
「千秋さん。僕はべつに」
「べつにいいとか言わないで。これも躾けです。お金は無尽蔵に湧いてくるものじゃないし、あれは直春さんが汗水たらして稼いだものだわ。いくら息子になったからって……いいえ、息子だからこそ、軽いもののように扱わないでほしいの」
ちふゆを庇おうとした直春を、千秋がピシャリと遮断した。
ちふゆは項垂れた。
言い返す言葉なんて、欠片も見当たらなかった。
高卒で、ブラブラ遊び歩いてただけのちふゆが、即座に大金を用意できるわけがない。
大学に行くなり、どこかに就職するなりして、何年も何年も働いて……直春にお金を返して……それでも淫花廓へ通えるほどの稼ぎが得られるかは、不明であった。
ということは。
ちふゆはもう、青藍に会えないのか。
この先何年も……。
下手したら、一生。
青藍に、会えないのだろうか……。
ちふゆは唇を噛んだ。そうしないと、みっともない泣き声が漏れそうだったからだ。
どうしよう。
どうすればいいかわからない。
襲い来る虚脱に、ちふゆの手からちからが抜けた。
握っていた青藍の着物から、ゆるゆると指がほどけてゆく。
そのとき。
やわらかな温もりがちふゆの手の甲を包んだ。
驚いて顔を上げると、青藍がくしゃりと顔全体で笑っていた。
指に、指を絡めて、手を繋がれた。
青藍はちふゆの手を握ったままで、千秋たちへ真っ直ぐな瞳を向けた。
「俺……事情があって、この仕事をまだ辞めることができませんけど……年季が明けたら、ちふゆを迎えに行きますんで、そのときはまた挨拶させてくださいね」
人懐っこい犬のような笑みを浮かべて、青藍が頭を下げる。
千秋が戸惑ったように直春と視線を交わし、「ちょっと待って」と言った。
「あなたが、ちふゆを?」
「はい。俺が男だからここへ通うのを反対したわけじゃないと言いましたよね?」
「い、言ったけど……でもあなたにとって、ちふゆはただのお客でしょう?」
恐る恐る、というように千秋が問いかけた。
青藍がくせのない黒髪をさらりと揺らして、横目でちふゆを見てくる。
ちふゆは緊張に生唾をごくりと飲んだ。
迎えに行く、と言った青藍の言葉に、たぶん一番驚いたのはちふゆだ。
なぜ、青藍が。
ちふゆなんかを迎えに来るのか。
だってちふゆは。
千秋がいま口にしたように、ただの客のはずで。
客がひとり減ったからといって、青藍にさほどのダメージがあるはずもないのに……。
これがただのリップサービスなのだとしたら、ひどすぎる、と。
固唾を飲んで彼の返事を待つちふゆの耳に。
「俺、ちふゆのこと、好きなんで」
あっさりと、気負いのない口調で告げる青藍の声が。
じわり、と溶けて広がった。
ちふゆは呆然と、男の横顔を見上げた。
青藍がチラとこちらを見て、小首を傾げる。
「ちー? なに変な顔してんの?」
くしゃりと笑った青藍が、ちふゆの手を握っている右手を軽く揺すった。
ちふゆは、パクパクと唇を動かして……。
思わず、大声で叫んでしまった。
「な、なんでここで言うんだよっ!」
「え? な、なんでって、いまちふゆのお母さんに訊かれたから」
「ち、ちがっ……ちがうだろっ。お、オレっ、オレ、おまえにそんなこと言われたことないっ」
ちふゆは空いている右手で、ドンと青藍の胸を叩いた。
「いままで一遍もそんなことオレに言わなかったくせにっ。なんで母さんに先に言うんだよっ。オレに言えよっ。お、おまえがなんにも言わないから、オレ……オレなんて、ただの客だと思われてるんだと思ってただろっ」
「ちー」
「す、好きとか、聞いたことないっ。なんで言わなかったんだっ」
「ちー、落ち着いて」
「このクソバカっ。い、いま、言うなよっ」
青藍の手を振りほどこうと、左腕をぶんぶんと振り回しながら、ちふゆは地団駄を踏んだ。
こんな場所であっさりと言うなんて!
もっと早くに言ってくれてたら、ちふゆは悶々と悩まなくて済んだのに!
「ちー!」
ジタバタと暴れるちふゆから一旦手を離した青藍が、強い声でちふゆを呼んで、両頬をてのひらで包んできた。
ごちん、とそのままおでこをぶつけられて、ちふゆは「わっ」と悲鳴を上げる。
「ちー。俺は言った。おまえに、何回も、ちゃんと言った」
「……は? う、嘘だ。知らねぇ。聞いてない」
「ベッドの中で、何回も、好きだよって言ってる。ちー、ほんとに全然聞いてなかったの?」
「…………」
先ほどの母親と同じようなことを言われ、ちふゆは押し黙って記憶を探った。
ベッドでは……青藍がエッチなことを仕掛けてくるから、ちふゆはすぐにトロトロになってしまって……会話をした記憶があまりない。
しかしちふゆには前科がある。
家族の医療ボランティアや海外出張の話がまったく耳に入っていなかった、という前科が。
もごもごと口を噤んだちふゆを、青藍が鋭い眼差しで見下ろしてくる。
「言ってないのはおまえだよ」
青藍が、囁く声音で、ちふゆを責めた。
「……は?」
「俺はちふゆが好きだ。ちーを、特別に思ってる。ちーは? 俺のことどう思ってる? 俺が……おまえのこと迎えに行ったら、迷惑?」
間近で見つめてくる瞳も、一段低い声のトーンも、まるでベッドの上に居るときの青藍のようで……ちふゆは頬を火照らせた。
ちふゆの頬を包む青藍のてのひらも、熱かった。
「……め、迷惑じゃ、ない」
「ちー。ちゃんと言って」
「う……。…………、だよ……」
「聞こえない」
青藍に追い詰められて、ちふゆはぐっと眉を寄せた。
そして、眉間にしわを刻んだまま、勢いに任せて怒鳴った。
「オレだって好きだよクソバカっ。す、好きじゃなきゃ通わねぇよわかれよそれぐらいっ」
早口にそう告げた途端。
ちふゆは、青藍の胸にぎゅうっと抱き込まれていた。
青藍が明るい笑い声を上げた。
「ははっ。ちーは告白のときも悪態つくんだな。好かれてるかもとは思ってたけど……ちーはなんにも言ってくれないし、ちょっと自信がなかったから嬉しい。ちー。ありがとう。好きだよ」
「…………お、オレも……す、す、好きだし……」
「うん。ありがとう」
青藍の腕に抱擁されたちふゆが、彼の背を抱き返そうと、おずおずと手を回しかけたときだった。
ゴホン、ゴホン、とわざとらしい咳ばらいが聞こえた。
ちふゆはハッとして、慌てて青藍の胸を突き飛ばす。
ここにギャラリーが居ることを忘れていた!
しかも、母親の前でラブシーンを繰り広げてしまうとは!
ちふゆは「ぎゃー!」と叫んで床に身を屈めた。
恥ずかしすぎて、このまま消えてしまいたい。
「イチャつくなら余所でやんな。本題に戻すぞ」
煙管の男が、低く滑らかな声で場の空気を引き締めた。
楼主、と青藍が呟く。
ちふゆは顔を真っ赤にしたままで、そろそろと目線を上へ向け、紫煙を燻らせる男を窺った。
楼主が、年齢の読めぬ目元を僅かに細めて、千秋と直春を見た。
「確認だが、淫花廓に通わせたくねぇってのは、飽くまで金の問題で、青藍の性別は関係ねぇってことだな?」
ぞんざいな楼主の口調に、千秋が少し考えた後で首肯する。
「ちふゆがきちんと就職し、自分で稼いだお金を使っているならば、なにも言いません。けれど、いまこの子があなたがたにお支払いしているのは、うちの夫のお金です。これ以上夫に迷惑をかけるわけにはいきません」
「なるほど……」
男が、煙管の吸い口でこめかみを一度掻き、それから唇の端を歪めて問いかけた。
「なら、そこのガキ……失礼、そこのご子息のお金であれば、自由に使っていい、ってわけだな?」
「え? ええ、まぁ、そういうお金があるなら、という話になりますが……でもうちは私が再婚するまでは貧しくて、お小遣いもたくさんはあげてませんし、ちふゆに貯金なんかありませんよ」
金の話を始めた楼主に、千秋が警戒するような目を向けた。
楼主が小さく肩を竦め、ふぅ、と甘い匂いの煙を吐き出す。
「いやなに、お宅のご子息と、うちの男娼が恋仲だって話なんでね。俺にもこう見えて親心ってもんがある。うちの者にはしあわせになってほしいって思いが、ないわけじゃねぇんだ。音羽さん。あなたの考えはどうですか?」
楼主は千秋の隣で黙って控えていた直春に水を向けた。
直春は曖昧に頷き、
「ちふゆくんのしあわせが、第一です。僕は、僕の財産を使われることに痛痒は感じませんが」
「あなたっ!」
「うん。わかってる。でも、妻のこれまでの教育と相反した価値観を彼に植え付けたいわけじゃない。ちふゆくんは千秋さんの宝物です。僕はそれを彼女と一緒に大切に守る役割がある。青藍くんとともにあることがちふゆくんのしあわせなら、叶えてやりたい気持ちはありますが……それは、千秋さんの言う条件を満たした上で成り立つものだと、思ってます」
楼主がなるほどと頷いた。
「では、状況がゆるせば、ご子息とうちの者の関係を続けても良い、と」
ちふゆは、一体大人たちの間でなにが話されているのかよくわからずに、とりあえず差し伸べられた青藍の手に縋って立ち上がった。
ふと部屋を見渡してみれば、紅鳶の姿がない。 いつの間に出て行ったのだろうか……。
きょろきょろとするちふゆを余所に、さて、と楼主がてのひらを一度、打ち鳴らした。
気付けば会話の主導権がこの男に移っている。
着流し姿の楼主が、灰皿に煙管を打ち付けて、
「入れ」
と、短く告げた。
応接室の扉が外側から開かれる。
そこに立っていたのは紅鳶で……。
彼は、ひとりの初老の男性を伴っていた。
まったく見覚えのないその男は、ちふゆを見てなぜだか「おおっ」と感極まった声を上げたのだった……。
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