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第14話
「……え?」
「どういうことです?」
唐突な楼主の提案に、ちふゆの両親は戸惑いも露わに楼主へと問いかける。
ちふゆも青藍も、思わず男の顔を窺ってしまった。
いったいなにを言い出すのか……。
楼主が一同を見渡し、口を開いた。
「まだ若ぇご子息が、ひとりの男を身請けするってなると、なるほど確かに先のことを考えりゃあリスクがある。だからこれまで通りに週に一回……いや、回数はどうでもいいが、客としてここへ通えばいい。そうすりゃあこころ変わりした際も後腐れなく別れられんだろ。それぐらいなら音羽さん、あんたたちだって譲歩できるよな?」
「ええ……まぁ、それなら……」
滔々と語る楼主に、ちふゆの両親が目を見交わせて、曖昧に頷く。
楼主はチラと青藍へ視線を走らせ、言葉を繋げた。
「青藍、手前だって、一足飛びに身請けとなりゃあ確かに自由にはなるが、今後の生活の見通しが不安じゃねぇか?」
「……は、はい、それは」
「どうせ手前の年季はあと三年ほどで明けるんだ。年季を終えたあかつきには、当面困らねぇだけの餞別も包んでやる。金はあって困るもんじゃねぇだろう。手前は年季までを勤め上げ、その間にここを出てからも生活していけるだけのスキルを、翁や紅鳶から習っておけ」
「……は、はいっ!」
青藍は勢いよく返事をした。
楼主の提案は、青藍と、ちふゆを心配する両親、双方にとって受け入れやすいものであった。
お互いが少しずつ譲歩することとなるが、結論としては悪くない。
まだ若いちふゆが、いっときの感情で巨額を投じて青藍を身請けする、というデメリットは解消できるし、晴れて自由の身になることはできない青藍側にだって、ちゃんとメリットが残されていた。
それに、なにより……。
青藍はこれからも、ちふゆと一緒に居る時間を持てるのだ!
まだ状況がわからずにポカンとしているちふゆを、青藍はちからいっぱい抱きしめた。
「わっ! え、な、なに? どうなった?」
「身請けはなしだけど、ちーがこれまで通りここに通うのはオッケーだって!」
「ま、マジでっ?」
遅ればせながらそのことを理解して。
ちふゆが色白の頬に血の色を上らせ、母親たちの方を見た。
千秋と音羽氏が、仕方ない、とばかりに嘆息を漏らして……それからニコリと微笑を浮べる。
「あなたがそうしたいなら、もうそれでいいわ。その代わり、進学でも就職でもどっちでもいいから、自分の将来をちゃんと考えること。わかった?」
「わ、わかった!」
「ちふゆくん。千秋さんに心配をかけないこと、それから……たまにでいいから、僕とも会話する時間をとってくれるかい?」
「あ、ありがとうゴザイマス……と、父さん……」
ちふゆにそう呼ばれ、音羽氏がものすごく嬉しそうに頬を緩めた。
息子、というより孫に懐かれたおじいちゃんのようである。
「さぁ、話はお仕舞ぇだ」
楼主が声とともにてのひらを打ち鳴らした。
すると、自動ドアのように扉が外から開かれた。電力ではなく、怪士面の男衆による人力である。
ふと見れば、いつの間にか紅鳶が部屋に戻ってきていた。
圧倒的な雄のオーラを振りまく美丈夫なのに、気配を消すのが上手いのだな、と青藍は思ったが、単純に青藍がちふゆに集中しすぎていて、他のことに注意を払えていないだけかもしれなかった。
ちふゆの両親が先に部屋を出てゆく。それに続いて、青藍とちふゆも応接室を後にした。
途中、千秋が一度立ち止まり、ちふゆを振り向いた。
「ちふゆ。どうする? お母さんたちと一緒に帰る?」
問いかけておきながら、ちふゆの返事がわかっているかのように、彼女はその唇に苦笑いを浮かべている。
ちふゆの手がごそりと動いて……青藍のてのひらを探り、きゅっと握りしめてきた。
青藍よりも小さなてのひらは、僅かに汗ばんでいて……わかってしているのか、ちふゆのその体温に、青藍の劣情が俄かに煽られた。
「お、オレ、今日はコイツと一緒に居るから」
ぼそり、とぶっきらぼうな口調でちふゆが返事をした。
千秋が肩を竦め、
「お説教は明日にとっておいてあげるから、早く帰って来なさいよ」
と、笑いの混ざった声音でそう告げた。
いいなぁ、と青藍は思う。
家族という存在は、いいものだ。
青藍にだって弟妹はいるけれど……両親はもう、居ないから。
ほんの少しの郷愁に、胸がちくりと痛んだ。
「青藍くん」
不意に千秋に声を掛けられて、静かに両親を懐かしんでいた青藍は、ハッと意識を引き戻した。
「は、はい」
「いつかあなたも、遊びにいらっしゃい」
「え……?」
パチリ、と瞬いた青藍に、千秋がやわらかな微笑をくれる。
「私の名前ね、千秋で……秋という字が入ってるの」
持ち上げた指先で、『秋』という漢字を中空に書いて。
千秋が隣に立つ音羽氏を見上げた。
「このひとは『春』。ちふゆは……平仮名だけど『冬』ね。名前を知ったとき、このひとが、運命ですね、って言ったわ」
「……千秋さん。恥ずかしいから」
「ふふっ。いいじゃないの。青藍くん。あなたの名前には青。夏の海の色ね。それとも空かしら?」
アフリカ方面へ医療ボランティアに行っていたという千秋が、化粧っ気のない日に焼けた頬をやさしく緩ませる。
そのとき、青藍の脳裏に、『青藍』という名を楼主に与えてもらったときのことがくっきりと甦った。
煙管を咥えた男は、とろりと甘い煙を吐きながらこう言ったものだ。
(ほぅ。名前に海の字が入ってんのか……。ゆうずい邸の男娼はな、色の名前をつけんのが決まりなんだが……そうだなぁ、手前は青藍だ。青藍ってなぁインディゴのことさ。鮮やかな藍色で……海の色だな。澄んだ色はいけねぇ。すぐに濁っちまう。手前は藍色のまんま、青藍としてここで働きな)
当時の楼主の声が、耳の奥でじわりと響いた。
青藍はくしゃりと顔全体で笑って、右手にあるちふゆの温もりを、強く握り返した。
「俺……本名に夏の字が入ってるんです。夏の海で、夏海」
青藍の言葉を聞いたちふゆの目が、真ん丸になった。
ちふゆと同じような表情をした千秋も、「あらまあ」と呟いて。
隣の音羽氏に目配せをした。
音羽氏が、ゴホンと芝居がかった咳払いをこぼす。
そして、ちふゆへと、滲むような微笑をひらめかせて。
「運命だね、ちふゆくん」
やさしい音の響きで、そう囁き。 洒脱なウインクを投げたのだった……。
***
「ひとが悪い」
ぼそり、と紅鳶が吐き捨てるのを、楼主はどこ吹く風とばかりに聞き流した。
応接室には二人の男だけが残されている。
楼主が新しい葉を詰めたばかりの煙管をくるりと回して、吸い口を紅鳶の方へと向けた。
紅鳶は無言で手を伸ばし、男から煙管を受け取ると、火をつけてからゆっくりと吸い込んだ。
楼主の愛飲する刻みタバコは、僅かに甘い味がする。
男のトレードマークのようなそれを、一服だけ味わわせてもらい、紅鳶はすぐに煙管を楼主へと返した。
「口に合わない」
「そうかい。安物のタバコばっかり喫ってるから価値がわからねぇんだよ」
「漆黒と一緒にするな」
他愛のない言葉の応酬をしてから、楼主が手元に戻ってきた煙管を咥えた。
「で、誰のひとが悪ぃってんだ?」
「あんた以外に居るか?」
胡乱げに目を眇めて。
紅鳶が冷淡な口調で続けた。
「結局、あんたの儲けが膨らんだだけだったな」
「あん?」
「青藍は無邪気に喜んでいたが……あんたの思うとおりに話が進んで満足だろう?」
紅鳶の皮肉を、楼主は鼻で笑った。
そもそも、ホームレスのあの初老の男が音羽ちふゆに巨額の金を譲渡したいという意向があることは、この話し合いの場を持つ以前からとっくにわかっていたことだった。
それでも男の存在を伏せたまま、ちふゆを両親と対面させたのは、言質を取るためだ。
青藍が男だから二人の仲を反対しているのではない、と。
母親が早々にそう言ってくれたので、話がやりやすくなって助かった。
もちろん、性別を理由に別れさせようとしてきた際の対応策も、頭の中にはあったが。
相手は無医村に医療ボランティアとしてアフリカくんだりまで行くような女性である。リベラルな思考を持っていると、最初からわかっていた。
楼主にとってなにより魅力的だったのは、音羽直春の存在だ。
音羽といえばかなりの資産家で、貿易業で名を馳せる敏腕実業家、音羽直春。思わぬところで彼とのパイプができた。
繋がりは強固に、太くしておきたい。
まずはちふゆに両親と対立させた上で、ホームレスの男を投入し、ちふゆにも決定権があることをわからせる。
ちふゆが青藍の身請けをしたい、と口にするかどうか、そこは曖昧であったが、楼主には九分九厘言うだろうとわかっていた。
ちふゆが熱心に淫花廓に通うようになって三か月。日頃の彼らの様子から、一番気持ちが盛り上がってるだろう頃を狙って、ちふゆの両親を招聘したのだ。
二十歳そこそこの子どもが男娼の身請けをしたいだなんて、真っ当な親なら絶対に反対する。
そこで折衷案だ。
ちふゆが淫花廓へ通うことを認める代わりに、身請けの話は白紙に戻す。
よく考えれば現状となにも変わらないのだが、両親としては息子が男娼を身請けするよりも、遊郭に通う方がまだ許せるだろう。
それに、青藍の人柄もある。
爽やかで飾らない青藍の個性は、マダム世代に受けがいいのだ。
今回の策は、青藍ありきのものだった。
これがべつの男娼だったならば、楼主もまた違う手段を講じたはずである。
楼主の狡猾さは隅々にまで及んでいる。
青藍に男娼を続けるよう仕向けたのは、なにも身請けの話を退けて音羽直春に恩を売るためだけではない。
青藍は人気男娼。すなわち、稼ぎが良い。
青藍に残りの年季を勤め上げさせている間に、次の『青藍』となる男娼を育てる。淫花廓は高級遊郭だ。常に男娼の質を保っておかなければならないのだった。
それに、ちふゆが定期的に金を落としてくれることが既に確定している。
身請けで一気に大金を得るよりも、青藍を男娼として残した方が旨味がある、と楼主は判断したわけである。
「なにが、親心みたいものがある、だ。素直に喜んでる青藍たちを見て、良心は痛まないのか」
紅鳶の言葉を、楼主が鼻で笑い飛ばした。
「俺ぁ淫花廓の楼主だぜ? 儲けが一番に決まってんだろ」
「どうせ、あのホームレスの男をしずい邸で遊ばせたのも、足を運んでもらった礼なんかじゃないんだろう」
「ハン。当然だろ? 金の匂いのする野郎をみすみす帰す阿呆が居るか?」
ふぅ、と白い煙を吐き出して、楼主が満足げに目を細めた。
紅鳶は、枯野色の着流しの男を、無言で見つめた。
不思議な男だ、と、そう思う。
皮肉屋で、己の利益を追求するだけの守銭奴で、男娼を商品と言って憚らないような冷血な淫花廓の支配者なのに。
今回の件で、損をした人間は居ないのだった。
底の見えない、感情を読ませない楼主の目は、いったい何を映しているのだろうか。
いまここに、こうして紅鳶を伴っていることさえも、なにかの布石なのだろうか。
そういえば、先日などは暴力団絡みの子どもをひとり、預かったと耳にした。子どもはそのまま漆黒へと押し付けられたようだが……。
あれにもなにか思惑があるのだろうな、と紅鳶は嘆息を漏らし、部屋に漂う煙管の煙を、見るともなしに眺めたのだった……。
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