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朝の出来事
その細い体で生きていけるのだろうか。
階段を下りていくとき、体とは逆に顔を上げることが習慣になろうとしている。
天井の隅に、一匹の蜘蛛がいる。
注意して見ないと気づかない。その蜘蛛は白く、うちの壁紙の色と同じだから。
そして、脚がとても長くとても細い。爪楊枝よりも細いんじゃないだろうか。
だが、全長は長そうだ。脚の先から測れば8センチはある。
しかし、どれだけ大きかろうが結局はひどく頼りなく見えた。その脚を八方に伸ばせば伸ばすだけ簡単に折れてしまいそうだから。
俺が上を気にしながら最後の段を下りるときに、目の前を勢いよく姉が通った。
「うわっ」
姉 咲は振り返る。
「おはよう、圭吾」
言うなり、俺の坊主頭を触ろうとする。いつものことだ。触り心地がやみつきだとかなんとか。
「やめろよ」
俺は毎度必死に抵抗するが、なぜか姉には弱い。しかし、今日はあっさり開放された。
「ケチなんだから。じゃあ、行ってきまーす」
「え?もう行くの?」
「雨だといつもの電車は混むのよ。圭吾の世代は朝練なくて良かったね。じゃあ」
姉は傘を片手に勢いよく飛び出して行った。その後姿はすっかり高校生だ。
同時期に新生活がスタートしたというのに、俺はまだ中学生という身分がしっくりこなかった。毎朝、白いシャツに腕を通すたび、背伸びしているような気恥ずかしさがある。
そして、姉を今まで通り咲ちゃんと呼べばいいのか、咲と呼び捨てにするか、姉ちゃんに変更するのか、決めかねている。いきなり姉貴と言うのも勇気がいる。
少なくとも、中学生の弟が高校生の姉を「咲ちゃん」はないのだろうな。
父は大抵、俺が起きる前に出勤してる。そして、俺はパートの母と一緒に家を出る。
母が言った。
「中学まで送ろうか?」
玄関前の石畳にしとしとと降り続ける雨粒を見ながら、俺は「自分で行く」と答えた。すると、耳元で母の笑いをかみ殺した息遣いが聞こえた。
母が何を笑ったのか、すぐにわかる。
俺は早口で喋っていた。
「いや、あの道混むって前に言ってたから。仕事遅れたら困るでしょ」
すると、母は「ありがとう」とだけ言って優しく微笑んだ。母は小柄だ。視線の高さが俺と変わらない。いや、ひょっとしたら、もう俺の方が高いかもしれない。
言えばいいのに。母は全てを見透かしているはずだ。
母親と一緒にいるところをクラスメートに見られたら恥ずかしいんでしょ、と。
母は玄関に俺を残すと、目の前のカーポートに向かった。車のエンジンをかけてから、運転席のウインドウを下げて振り返る。
「本当に乗らなくていいの?」
「いいんだよ。しつこい」
俺はつい荒い口調になる。
「なら、気をつけて行ってらっしゃい」
母は名残惜しそうにこちらを見てから、ウインドウを上げた。
俺は頷くだけだった。
中学まではさほど遠くない。
俺は父から譲り受けた濃紺の傘をさして歩いていく。使い始めたときは、なんだか落ちてくる雨粒の音も高級な音に聴こえる気がした。
そのうち、持ち手が木目調になっていることが、おじさんっぽいと感じるようになり気になり始めた。さらに、同級生から「お父さんの借りてきたの?」と聞かれたのがトドメだった。「違う。俺のだ」とはとても言えなかった。ずっと、心に引っかかっているが、もはやどうしようもない。譲ってくれた父さんにも罪悪感が少しある。
その出来事があってから、通学途中に同級生にからかわれないか妙に気になるようになった。こんな些細なことで、と自分でも恥ずかしい。けれど、とりあえずは中山と通学路が違うことが救いだった。
中山 有理花のことを考えるとき、いつも後姿を思い出す。小学校のクラスで、着席している、その姿を。セミロングの黒髪。毛先がやんわりと内側にそろっている。授業中に板書するとき、左に首を傾ける癖がある。そうすると、右の髪が頬に触れるのか、髪を耳にかける仕草をする。小学一年生のときから、細くきれいな指だと思っていた。
中学では違うクラスになってしまった。通学路が違うことは、雨の日には結果的に良かったが、本当は通学路くらい一緒なら良かったのに、とも思う。
この時間に道を歩いているのは生徒だけではない。近くに駅があるため、通勤中の大人ともすれ違う。傘でお互い顔が見えにくい。スーツの人。ポロシャツの人もいる。暑がりかな?女性はレインブーツの人もいる。みんな、歩く速度が速いわけではないのに、急いでる感じが伝わってくる。いや、急いでいるのでは、ないのかもしれない。仕事に向かう緊張感なのか。
たまに、早起きしたら会う父さんの、いつもと違う雰囲気に似ているかもしれない。
俺にはまだ実際のことは、わからないけれど。
その時、前方から一人の女性が歩いてきた。ヒールのまま目の前の水たまりを避けようともしない。ストッキングに水がかかる。
不自然に思って、思わず俺は傘を傾けて顔を見た。
女性がさすビニール傘は何も隠すことがなかった。
女性の顔が見える。長い黒髪から覗く顔が真っ青だ。
そして、次の瞬間、その女性は前方に崩れ落ちた。
俺は自分の傘を後方に放り出して、彼女を受け止めた。受け止めたといっても、きっと膝は思いっきり道路に打ち付けている。
ビニール傘が道路の中央に転がって行った。
「大丈夫ですか!」
女性は小さく唸るだけで言葉は発してくれなかった。
俺はとっさに自分の膝を枕にして女性を路肩に寝かせた。俺の傘を手繰り寄せ、女性に雨がかからないように差した。
「俺、どうしたら」
頭が真っ白になった。これって救急車?どうやって呼ぶんだっけ?
しとしと降る雨が顔を撫でるように流れていく。
さっきまで近くに大人が何人かいたはずなのに、誰も来てくれない。電車の時間が迫っているからか。
首を回して辺りを見ても、まつ毛についた雨粒が邪魔をした。
そのとき、近くに一台の車が停車した。中から傘もささずに、若い男性が急いで降りてきた。きびきびとした動作だ。
その人は女性の顔を覗き込むように見た。
「大丈夫ですか?」
はっきりと力強い声で発せられた言葉に、女性は薄目を開けた。
「名前は言えますか?」
女性はふっくらとした唇を少し動かすだけで、何も言えない。しかし、次の瞬間、慌てて手を口元にあて横向きになった。
「吐き気がありますか?」
女性は小さくうなずいた。
男性はすぐに車からビニール袋を持ってくると女性に渡した。そして、すぐさま携帯電話で119番通報をしてくれた。結局、必要なことは全てその人がやってくれた。
救急車を待つ間に、その男性がここまで手際が良かった理由を知る。
呆然と男性を見上げる俺に、その人は言った。
「僕は消防隊員なんだ。さっき、この道を通り過ぎた後、バックミラーで女性が倒れたのに気づいて引き返してきたんだ。信号が赤になって、ちょっと遅れてしまったね」
俺は合点はいったけれど、言葉にならなかった。
そのうち、遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。
安堵のため息が出る。その息と同時に、体の力が抜けた。ずっとガチガチに力が入っていたのだ。
落ち着いてくると、急に視界が広くなったような気がした。
いつの間にか、先ほど投げ出されたビニール傘が車に轢かれていた。既に、ビニールが骨組みから外れてしまっている。これは、一台だけに轢かれたんじゃない。
俺が見ていると、次、また次と車が通り、その度に銀色の骨がタイヤの下敷きになった。
女性が無事に搬送されると、消防隊員のお兄さんは車から使っていないタオルを出してきて、俺に拭くように言った。
「君は東中生?僕の後輩だね。よく行動した」
「あ、いえ。タオルありがとうございます」
出勤するお兄さんの車を見送ると、そこに残されたのは、俺と傘の骨組みだけだった。銀色に光る骨が濡れた道路の上にひれ伏している。ビニールから離れてしまったそれは、もはや何の役にも立たない。
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