それからのこと

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それからのこと

 山と海の間の平地に石畳の街並みが広がる。  7番地1-9。きめの細かい花崗岩を用いた3階建ての建物のその3階。そこには本日0時をもって18歳となり成人を迎えた彼女がいた。今日は立派な大地の民として今後も歩むための儀式が待っていた。この儀式が終わると、晴れて親元を離れることになる。  開け放たれた窓から入る涼やかな風に触れ、少しずつ眠りが浅くなってくる頃。彼女は夢現の中にいた。  真っ黒な世界にいくつもの光が明滅していた。ふと、その中に懐かしい影が現れて、すぐに霧散していった。忘れられない。幼い彼の姿であった。もう一度近づこうと意識すると、途端に彼は逃げて行ってしまう。待って!私を置いていかないで!いや違う。私が彼を置いていったのだ。何も言わずに彼の前から離れたのは私の方だ。  突然彼の陰鬱な表情が克明に表れた。  ごめんなさい。ごめんなさい。くるしいよ。お願いだから。助けて…! 「イカロス!」  叫びながら飛び起きた。  そして彼女は眼を疑った。  窓辺に人影があるのだ。 「イカロス…?」  飛び上がりそうな心を抑えて小声で問いかけた。 もう何年も会っていない。その人物は少し幼さは残るものの精悍な顔立ちであり、そもそも本人かどうかもわからない。でも、それでも一目見た瞬間彼女は確信をもって彼だと感じた。 「やぁ久しぶりだね、セレン」  彼はびっくりした様子でそう答えた。しかし彼女はまだ混乱の渦中にいた。 「…どうしてここに?どうやって?あー…ちょっとまって言いたいことがたくさんあるの」  寝起きの頭をかきむしる様にして絞り出された彼女の言葉を受けて、彼は少し微笑んで答えた。 「僕もさ。言いたいことがたくさんある。でもその前に」  そう言って彼は手持ちの茶色皮の肩掛けバックをあさり、お目当てのものを引っ張り出して、彼女の前に差し出した。 「お誕生日おめでとう!」  そのあどけない表情はかつての彼そのものであった。  手渡されたのは何やら蝋付けされた便箋用の封筒であった。  ゆっくり蝋を剥がして開けてみると、中には『天獄への誘拐状』と厚手の木綿紙に最新のグーテンベルグ活版で印字されていた。 「これは?」 「そのままさ。君は今日で成人だろう?あれから僕はどうにかしてこの空を自由に飛び回る方法はないか研究していたんだ。それがこの前やっと実現したんだ。もし君さえ良いのなら、僕は今、君を誘拐しようと思うんだ。ついてきてくれるかい?」  彼女はあっけにとられて口が開きっぱなしになってしまった。しかし、次第にクスクスと笑い始め、頬を染めながら彼に手を差し出した。 「全く。全然成長してないじゃない!」  あの頃と同じいつもの言葉。でもそれは全く違う響き。  彼は彼女の手を取ると「行くよ」と、そのまま3階から二人して飛び降りた。悲鳴を出す間もないほどの出来事であったが、なぜか全く怪我無く地面に着地していた。あっけにとられる彼女に彼はこともなげに言う。 「言ったでしょ?研究していたって」  彼は慣れた手つきで大きい布と紐を畳み込み、靴を履いていない彼女を抱きかかえ、少し先の丘陵地まで登って行った。そこにはずんぐりとした1枚の板を備えた機体があった。彼女にはどんなものだかさっぱりわからなかったがどうやらこれが空を飛ぶらしい。 「いいかい?」  コックピットに二人で入り、何やら機材を操作する。彼女にはこんなものが空を飛ぶというのが全く理解できなかった。  ブロロロロロ……  レシプロエンジンの音が大きくなる。 「さぁいくよ!」  朝の山下ろしのタービランスをものともせず、機体は前進を始めた。  速度が増すにつれ、揚力がかかる。  坂道でさらに加速。  ふわりふわりとした感覚が否応なしに二人を襲う。  こんな感覚初めでだ。  次の瞬間―  機体は完全に宙に浮いた。  朝日に煌めく緑の巨体が地上を遥か眼下に収めて飛び始めた。 「あぁ、嘘、本当に飛んでる……。これ、夢みたい」  あっけにとられた彼女は初めての体験への不安から彼にしがみついていた。 「それより周りを見てごらん」  彼の声につられて彼女はあたりを見回した。  瞬間、世界が圧倒的なまでに広がった。  右手には太陽、左手には真ん丸の月があった。はるか先には藍色の山々とどこまで続くクラウドライン。天蓋では蒼穹が二人を飲み込もうとしていた。  青白いキャンパスにすべてを描き切った目の前の光景は、彼女を釘付けにした。 「僕、あれから頑張ったんだ。色々大変だったけど、ここまで来た。この景色を君と見たかったんだ。どうかな、僕はきれいだと思うんだ」 「えぇ」  それ以上言葉が出なかった。良心の呵責、彼とのランデブーへの背徳感、そして初めて湧き上がる『空』への感動、色々なものがない交ぜになっていた。 「今さ。僕はどこまででも飛んでいけそうなんだ。なんたって僕は君を誘拐した大罪人だからね。罪人は天獄まで行かなきゃならないんだ」 「それなら私だって犯罪幇助で天獄行きね。」  二人して笑いあった。 「こんな気分初めてなんだ。これ何というのかな」 「たぶんね。『天にも昇る気分』て言うのよ」 「それって結局どんな気分なのさ?」  彼は笑いながら問いかけた。  そうね―   彼女は言葉にできない何かを言葉に乗せ、笑顔で答えた。 「少なくとも悪い気分ではないわ」    二人を乗せた機体の影はさらに遠く小さくなり、空色の中に溶けていった。
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