幼年期のこと

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幼年期のこと

「とにかく今後はもうこんなことがないように!」  うなだれるばかりの彼は小さく頷いた。  その様子を見ていた父はため息をついて持っていた本を机に置いた。 「もう一度読んでおきなさい」  それだけ言うと父は部屋から出ていった。父が出ていくと、まだ反抗期すら迎えていない彼はうなだれるようにベットに潜った。じっと父の叱責に耐えてはいたものの、彼はまだ納得しきれてはいなかった。    幼いころから何かにつけ悪いことをした時には「そんなことをしていると『天獄』に昇ってしまいますよ」というのがお説教の定番であった。 天獄と地国。  教典を訳した本にはこうある。 『良き行いが地に染みれば、その身死に至れども恵みの大地に帰して大地と共にあり、次の生へと受け継がれん。悪しき行いが天に昇れば、その身朽ち果て太陽と共に全身を焼き焦がす業火でもって我らを照らすために縛りつけられる苦役を強いられん』  そんな天上の奴隷になりたくなければ、天を仰ぎ見ることなくしっかり地を見て励みなさい、と諭すのが世界の共通認識だった。  次の日。 「また空を見上げて怒られたの?」  隣に住む彼女が修養学校への通学路で声をかけてきた。どうやら父の声が聞こえていたようだった。 「うん」  彼はそっけなく返した。この後の会話はもう分かりきっていた。 「全然成長していないじゃない!あれほど言ったのに!」  彼女はお決まりの言葉を寸分たがわずいつも言うのだ。 「毎回毎回あなたが空を見上げるたびに私は心配なのよ。あなたが本当にいつか太陽に飲み込まれそうで……」 「ごめんね」  彼はそう返すことしかできなかった。いつもいつも隣でお説教を始める彼女には申し訳ないと思っている。しかし、本当は彼女にも同じ感覚を共有して欲しかった。彼にとってこの空の青さは間違いなく『きれい』だったのだ。それがどんなに背徳的なことであっても。  しかし彼女にそれを言おうものなら、『穢らわしい』とか『不快』だとかそんな感想しか返ってこない。自然、返す言葉は少なくなってしまう。  しばらく沈黙の時間が続いた。しかし、どちらからともなく別の話題に切り替わると打って変わって話は弾んだ。彼の通学の時間はいつも短かった。  学校からの帰宅後。夜は彼にとっての秘密の時間だった。それは親が寝静まった後、こっそり屋根に上って星空を見上げることだった。  昼の空も素敵だが、夜もまた良い。  いくつもの星が暗闇を彩る。言い伝えでは、彼らは遠い昔に罪を犯し、天獄に昇って行った人たちの姿。儚くまたたく姿は彼にとってはとても優美だが、罪人からすれば、息を切らせているだけなのかもしれない。夜は星々と月、犯罪幇助人ルーナの時間。昼は太陽、大罪人アポロの時間なのだ。  彼は夜空を見上げた。  広い、広い空。そこに散りばめられた星々。  東の空に半分ほど身を削がれた月。  みんなバラバラなのに均整が取れている。  あぁ、やっぱり素敵だ。  そんな時。  ガチャガチャ―と梯子が鳴った。瞬間、少年は恐怖に震え上がった。昨日の今日で両親に見つかってしまえば怒られるのは必至だった。それだけでは済まないかもしれない。彼がわずかに「ひッ……」という声を上げると、梯子の方から聞きなれた彼女の声が聞こえてきた。 「ちょっと待って。私よ。」 「あっ!なんだぁ……」  彼はは安堵のため息を漏らした。一瞬心臓が止まる思いがした。 「やっぱりここにいた。懲りないんだから」  彼女はため息交じりに彼の横に座った。 「好きなんだ。ここからの眺め」 「そう……」  彼女はためらいながらも続けた。 「……私は嫌い」  それ以降、また二人の間に沈黙が続いた。少し気まずかった。彼女は彼のここでの行動を気づいてはいたものの、屋根の上まで登ってきたのは初めてだった。どうして今日は上まで上ってきたのだろう?  彼が気まずさに耐え兼ね、ちらりと横を覗くと、彼女も夜空を見上げていた。細い星明りに照らされる真っ白な横顔に彼は見惚れてしまった。  そこからまた沈黙が続いた。しかしなぜだか彼は気まずさを感じなくなっていた。  どのくらいたっただろう。 「……でもね」  彼女はおもむろにぽつりとつぶやいた。 「あなたの言っていることを理解したいとも思っているのよ」  天蓋から目を逸らすことなく彼女はそう言った。 まじめな彼女からすればほとんど犯罪を犯したような発言だった。  そんな彼女の言葉の真意を知ってか知らずか、彼は徐に天上の星空に指を差し伸べて語り始めた。 「あそこにある星見える?明るいやつ」 「えぇ、見えるわ」 「それとその下にも同じくらいの明るさの星が二つ」 「あったわ」 「それを結んでくと3角形にならない?」 「そうね、なんだか正三角形に近いわ」 「面白いでしょ。しかもその3角形は夏の間しか見れなくて、冬は別の星が見えるんだ」 「へぇ、そうなの」  彼女は感心したようにうなずいていたが、ほどなくあることに気が付いた。 「というよりやっぱりあなた年がら年中ここで夜空を見上げてたのね」  呆れた、と彼女はぼやくが不思議と顔はほころんでいた。はにかみながらそれに応える彼にも自然と笑みがこぼれた。彼は声を抑えながらも彼女の横で星の説明をした。彼女は罵倒することもなく聞いてくれていた。  そんなことをしているとだいぶ時間がたってしまっていた。彼女は梯子を伝い帰っていく。丁度屋根から顔が見えるくらいまで梯子をくだったところで彼女はその歩みを止め、話始めた。 「まだ、正直わからないわ。あなたが良いという理由が」  でも、そうね―   彼女は言葉にできない何かを伝える言葉を探して少し考え込んだ。 「なんだか悪い気分ではなかったわ」  彼女はまだ何か言いあぐねたようであったが、ついにそれ以上何も言うことなく、梯子を下りて行ってしまった。  彼は固まってしまい、何も言えなかった。  しかし、彼の心臓はいつになく早鐘を打っていた。 (やっちゃった……)  朝起きた時から異変に気付いた彼は、咄嗟に心の中でつぶやいた。  何やら物々しい雰囲気が家中に立ち込めていた。考えなくてもわかる。昨日彼女と空を見ていたのがばれてしまったのだ。  下の階からから喧騒が聞こえてきた。 「うちの娘をどうしてくれようというのだ!今回ばかりは許さんぞ!」  彼女の父親の声だ。普段はこんな怒声など上げない敬虔な大地讃頌者である。だからこそ自らの娘をそそのかした彼を許せないらしい。 「申し訳ない。完全に私とせがれの落ち度だ。いつも言って聞かせてはいるんだが」 「結果があれではどうしようもない。君自身を叱責するつもりはないし、彼も普通にしてくれていればいい子だとも知っている。しかし、教義に背き続ける態度は周りに悪影響を及ぼすんだ!わかっているのか!」 「申し訳ない……」 「あなた、もうそのくらいで」  激昂した彼女の父親を母親がなだめた。 「たまたまではあるが、正直この時期で本当に良かったと思っているよ。娘のためにも」 「……あぁ」  二階にいる彼にもこの声は届いていた。そしてこの後行われるであろう父親からのさらに激しい折檻を想像してベットの中で震えていた。  予想通り今回の父親からの説教はもはや懲罰の域に達していた。隣の彼女をそそのかした、というのが大きかったらしい。彼には弁解の機会すら与えられなかった。顔面を3発平手打ちされた。そして現在進行中の大罪人アポロの苦役をこんこんと説かれた。経典に背く行為の何と愚かしいことか。犯罪幇助人ルーナの日ごとに身を削がれていく天獄の刑罰のなんと厳しいものか。  彼は地下室に1週間叩き込まれることになった。娯楽といえば教典とその翻訳書のみ。母親も今回ばかりは止めに入ることなく、見守っていた。 (わかってる。自分はおかしいのだ。空を眺めることは間違っているのだ。そこは罪人の世界で、天獄なんか目指してはいけないのだ)  何度も自分にに言い聞かせた。  それでも空への憧れは消えなかった。  一週間後。地下室から出てきた彼は父の言葉に耳を疑った。  「引っ越した……?」  事態が呑み込めなかった。  自分が地下でコンコンと説教を受けている間に彼女がいなくなってしまっていたのだ。  どうしてこんなことになってしまったのか。なんで?心当たりは― (僕のせいで……?)  幼い彼からするともうそれしか考えられなかった。  急いで自室に戻り、窓から彼女の部屋を窺うと、確かにそこはもぬけの殻となっていた。  その事実を心の中で反芻していくと、俄かにのどの奥が熱く腫れあがったような感覚が襲ってきた。うまく言葉が出ない。呼吸が苦しくなる。手が震える。頬が痙攣する。熱が顔中に広がる。 (僕のせいだ……ッ!)  堰を切ったように涙が溢れだした。呼吸ができない。前が見えない。途切れ途切れにうめき声が出るばかり。  嗚咽交じりの声を聞きつけ、母が部屋に入ってきた。母は彼の姿を見るなり駆け寄って抱きしめめた。しかし出てくるのは「ごめんね、ごめんね……」という言葉ばかりであった。  それからというもの、彼はおとなしく過ごそうと決めた。幼心に自分のしでかしたことを考えるようになった。  友達を、一番大切な友達を失った。 年端もいかない彼からすれば、引っ越しとはほとんど今生の別れである。自分が教えに背くことさえしていなければこんなことにはならなかった。考えてみれば彼女は何度となく自分を諭してくれていた。なのに自分は我を通すばかりで、そんなだめな自分のために彼女は……。  そんなことばかり考えて過ごした。 自分は悪い人間だ。罪を犯した。このままでは天に召されてしまう。  彼はそれからずっと苦しむことになった。清廉極まる生活、品行方正な態度、優秀な学業成績でもって名が知れるようになってなお、彼を苦しめたもの。それは、 一番大切な友人を自分のせいで失ってなお。 それでも空への憧れを消せないという事実であった。
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