Episodio uno Cappella ci sono malizia

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「マリーツィア」  口元だけ動かしぼそりとそう言う。 「いえ。ランベルトです、父上」 「マリーツィア」 「また新しい女ですか」  ランベルトは倒れる父の顔の横に手を付き、真上から声を張り上げた。 「いい加減にしてください、父上。いつまで続けるのですか!」 「マリーツィア」 「ランベルトだと言っているでしょう!」  父は目を閉じた。  発音の不明瞭な口調で、また何かを呟く。  抗議など、もう耳には入っていないのだな。  ランベルトは溜め息を吐き身体を起こした。  引っぱたいて叩き起こしたいところだが、一家の当主にそうもいくまい。  家の執務は、ここのところランベルトが執り行っていた。  跡継ぎとして一通りのことを教わっているとはいえ、執事に手伝って貰いながらでも、まだ効率は悪い。  残りの仕事の量を考えたら、そう長居する訳にもいくまい。  ダークブロンドの短髪を掻き上げる。  もう一度溜め息を吐いた。  いったん帰宅して、父を運べる者を寄越(よこ)すか。  立ち上がろうとした。  祭壇の奥に立てられた鏡の方から、女性の靴のような音がした。  衣擦れの音をさせながら現れたのは、胸元を大きく開けたドレスの女だった。  少し屈めば、隠すべき箇所まで見えてしまうのではないかという程の(きわ)どい胸元だった。  黒い髪を寝乱れたように雑に結い上げ、きつめの顔立ちに濃い化粧を施していた。  いかにも場末の遊び女という感じの姿に、ランベルトは不快な表情をした。  女は、落ち着き払った様子でドレスの両端をからげ膝を折った。 「ランベルト・コンティ(ぎみ)とお見受け致します」  仕草は丁寧だが、こちらをじっと見つめた目付きに禍々しさを感じた。 「お前が “ マリーツィア ” か?」  ランベルトは言った。 「左様でございますが」  マリーツィアはこちらに近付いた。 「上級貴族の若君さまが、直々に出向かなければいけないことを、わたくししましたでしょうか?」  マリーツィアは赤い唇の口角を上げた。 「父をここまで(たぶら)かしたのは、お前か」 「わたくし一人ではありませんわ」  マリーツィアは肩を竦めた。 「始めはインジュスティツィア、次がコルツィオーネ、その次がインモラリタ、そしてわたくし」 「始めが “ 不正(インジュスティツィア) ” 、次が “ 堕落(コルツィオーネ) ” 、その次が “ 不道徳(インモラリタ) ” 、そしてお前が “ 悪意(マリーツィア) ”」  マリーツィアは、口に手の甲を当てククッと笑ってみせた。 「見事なほどに不快な名前が揃っているな」 「若君さま方のお相手をする高級娼婦と違って、場末の者はそうでもしないと目立てませんから」  マリーツィアは、媚を売るような声色で言った。  ランベルトは身を屈め、もう一度父の様子を見た。 「取りあえず、父は今日は引き取らせて貰う。お前ももう帰れ」 「いいえ」  マリーツィアは父を挟むようにして座った。 「遊んで行きませんこと?」  きつい香水の香りが鼻をついた。 「結構」  ランベルトはそう言い、下を向いて父の頬を軽く叩いた。  マリーツィアは手を伸ばすと、ランベルトの唇を指先でなぞった。 「やめろ」 「下の方も、こうして触って差し上げましてよ」 「下品な女だな」  上目遣いで睨んだ。  マリーツィアと目が合った。  よく見ると、暗い赤色の気味の悪い瞳だと思った。  戦場の石や遺留品にこびりついた血のような。  こんな瞳の者がいるのか。  血の色が透けて見える白兎ですら、もっと明るい赤色の瞳をしている。  人間に、こんな瞳があるのか。  そう思った途端、頭の中に、渦巻く黒い雲が浸食してきたように感じた。  止める術もなく頭に次々と流れ込み、血の気が引き思考がしずらくなる。  気が遠くなった。  ぼんやりとした視界に、枯れ木に囲まれた崩れそうな古城と、遺棄された墓地の情景が見えた。  衣擦れの音が近付いた。  冷たい手が胸元の留め具を外し、服に差し入れられ鎖骨の辺りをまさぐる。  真っ赤な唇が、顔の間近でニッと笑うのが見えた。
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