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蒼穹と鳥影と奈落
ふと目を開けると、そこはただただ何もない真っ青な世界だった。
溶けてしまいそうなほど深く濃い空色。私はこの美しい空間をふよふよと漂っているようだ。
ここはどこ? だだっ広い青空間を見回す。上を見て、左右を見て、後ろを見て。そして最後。下を見て……げげげ。私は慌てて上へ逃げようと、手と足としっぽをジタバタさせ泳いだ。けど、ちっとも身体は動かない。どうやら空に浮いてるようなんだけど、これ一体どういう原理になってるの!?
って慌てたのにもちゃんと訳があって、ほら見て! 私のつま先から遥か下、地面のところを! この高さからでもハッキリと分かる、とんでもなく大きな穴が開いているでしょ!? しかも深くて底が全く見えないのだ。
いや。違う。穴ってわけじゃないな。えっとお、なんていえばいいんだろ。ドーナツ状の円を思い浮かべてほしいんだけど。その穴の部分だけ地面が残されていて、身の部分が穴、つまり溝となっている状態っていえばわかってもらえるかしら。
遥か遠く、彼方から流れ来る大河の水が、ゴウゴウと地響きをたて、その深い溝に流れ落ちていく。けれど溝に水が溜まり、あふれてくる気配はない。それほどふっかーい穴なんだろう。
「いよっ! ダンナ。どうやら雌雄を決する戦もここで終わりのようだねえ」
この異常な風景に反して、突然、場違いなのん気な声が響いた。私は驚いてあたりを見渡す。今のはどこから? また足下から? つま先からさらに下を見下ろす。あ! 確かに誰かいる。いや、その誰かも宙に浮いてる!? だいぶ距離があり、見下ろす私にはその人物の顔はわからない。けれど、陽の光を受けて輝く浮かぶ美しい黒髪に、同色の衣服を身にまとっているのはわかった。背格好から私と同じくらいの年齢の人のようだ。
「……ああ、そうだね」
また別の声だ。今のはすごく低くて落ち着いた声。大人の男性のものだろうか。再度辺りを見渡す。やっぱりだ。黒髪の少年から少し離れたところに、彼より背丈のある、ストロベリーブロンドの長髪の男性がやはり同じように浮かんでいる。藍色のローブを身につけているようだ。裾が風ではためいている。
「君のお陰で……は守られた。我々の勝利だ」
え? なにが守られたの? 大切なところが聞こえなかったけど? その場から動けないけれど、位置は変えられる。私は逆さになって耳をそばだてる。
「まさに天命ってヤツだったね。そうでなきゃ、こうはいかなかった」
少年が足下を見下ろした。そこにあるのはもちろん大穴。え。こうって言った? まさかこの大穴を開けたのって?
「味方ながら恐怖を感じますね……それにこの大穴どうしろと」
「んー。でもほら、うまく地形を利用すれば難攻不落の城とかが築けそうじゃない?」
やっぱそうなんだ! 大切なテラ・マーテルの地面にこんな穴開けちゃってどうするつもりなのよ! そんな私の気持ちを青年が理解したように、青年は深いため息をついたが、
「しかし、まだ終わりではない、私にはあと一つだけ仕事が残っている」
和やかな雰囲気が一転、緊張があたりを支配した。青年が少年に向けて構えたのがここからでもわかる。まさか二人はここでやり合うってこと? って相手はこんな大穴開けちゃうようなヤツでしょ? かなうわけないじゃない。逃げて、お兄さん! 逃げてー! って叫んだものの、私の声は全く出てこない。ど、どうしよう!?
「そうだねえ。大丈夫。俺も引き際くらいは心得てるからさ」
一方、少年にその気は全くないらしい。相変わらずのん気な様子でそう返す。なーんだ慌てて損したぁ。
「俺、実はふわふわした生き物、大好きなんだよねえ」
何かと思えば唐突に始まる自分語り。青年が気を削がれたように腕を組み、またため息をついた。それを知ってかしらずか少年は話し続ける。
「オコジョだっけ? フェレットだっけ? 昔飼ってたんだ。モモちゃんって名前でさあ」
オコジョ、フェレ……え? 一体なんの話だろう? 私には全くわからないが、少年はうれしそうに、なぜか顔を上げた。え? 私の存在がバレる! と思いきや。彼はすぐさま前に向き直る。はぁ。こちらの存在がバレたような雰囲気は全くない。私の存在って、彼らに見えてない?
「だから転移して消された記憶が、戻ったのかもしれないなぁ」
ふっと彼がうつむく。
「……不本意であったとはいえ、彼らを手にかけ続けたのは正直辛かった」
絞り出すような声。しばらく続く沈黙。少年は髪をかきあげ、自嘲気味に笑った。そうして自ら重たい空気を振り払うように明るい声で、
「もしチャンスがあるとするなら、彼らに囲まれて、平和で楽しい、ラブコメみたいな日常を送ってみたいね」
なんて言い放った。青年の制止も聞かず、彼は続ける。
「筋肉ダルマたちと紡ぐ戦記モノはもう、やり尽くしたからね。俺だって一応は夢と希望あふれる健全な一青少年なんだ、今度はジャンルを……」
わかった、わかった。と青年の制する声が小さく聞こえ、二人は吹き出し、笑いあった。しばらくして。今度は青年の方が一度息をのみ、
「それならば……」
そう言いにくそ切り出す。それを遮り、
「わかってる。その夢を実現にするには、今俺はいない方がいい。それに」
少年は肩をすくめ、
「今の俺に、旦那に抵抗できるような力は残されちゃいないしね」
そう話を自ら切り上げ、彼はひらひらと、まるで別れの挨拶のように手を振った。
「おやすみ旦那。お手柔らかに頼むよ」
ストロベリーブロンドの青年が、少年に向かい、小さく何かつぶやいた。その声は風にかき消されて私には聞こえない。しかし少年は小さく、なぜかうれしそうにうなずいたことだけが分かった。
「……おやすみ。……てくれ」
青年の低いささやき。最後はお別れの言葉だったのかもしれない。寂しげなかすれた声。と、同時に黒髪の少年の身体から急に力が抜け、仰向けに倒れた。その時初めて私は、少年の全身を見ることができた。
革のような素材、身体の線がぴっちり出るような上下黒の服。身体は華奢で、確かに私と同じくらいか、少し上くらいに見える。けど……衣服はあちこち無残に破れ、その穴から白い肌が見え隠れしている。声からはわからな買ったけど、ケガをしていたのかな? とても痛ましい姿……。
意識を失った少年を両手に抱こうと、青年が手を伸ばしたその瞬間。
視界の端からとんでもない速さで、大きな羽を持つ何かが飛び込んできた。それは、今まさに気を失った少年を奪おうと飛びかかる。
「貴様何を!? 約束が!」
もみ合う男と鳥。舞い散る真っ白な羽。少年の身体は宙に投げ出された。いけない! とはいえ今の私は彼のそばに行けるはずも、ましてや彼を助けることなどできるはずもなく。
後を追う鳥。さらにその後ろを追い急降下する青年。
少年はどちらに助けを乞うこともなく、ただただ深い穴の奥底に静かに真っ逆さまに堕ちていった。
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