43人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ
ヨセフの動きが固まった。
次の言葉を探していた。
この男はどこまで知っている?
この男は何をしにここにいる?
そうした疑心暗鬼と焦燥の苦い液体が脳髄から溢れ落ちて、重たくなる胃を満たしているのだろう。沈黙が流れた。
破ったのはヨセフだ。
「にいちゃん。ポリスってわけではなさそうだなぁ」
「俺がそんな立派な人間に見えるか?」
ヨセフは笑った。虹を仰いで、笑った。
「むかし話は好きかい? にいちゃん」
「短い話ならな」
俺は煙草を取り出して、ヨセフに勧めたが首を横に振った。火をつけて煙を吐きだす。
煙の輪郭が空に滲むと、ヨセフは話した。
「むかし、音楽に魅せられた男がいた。
その日暮らしだった。だけど幸せだったんだ。
ある日、家に帰ると子供を置いて妻が男と逃げたあとだった。男の稼ぎじゃ子供は育てられなかった。
それは男の言い訳だった。
男は逃げ出したんだ。音楽の道がなくなるからだ。小さい子供を施設に投げて、海外に出た。
逃げた先の未来は長続きしなかった。
十数年が経ち男がボロボロになって街に戻ると、男の知っている街は無くなっていた。
男はどうでも良くなったんだ。
男は名前も無くした。
ヨセフ・ポートマン? そんな男は知らない。そんな男はこの街には、いない」
話を聞き終えた俺は、ずいぶんとまぁ、自分勝手なむかし話だな。と話すと、あぁ、クソヤローのむかし話だ。とヨセフは返した。
俺はこの男の人生にこれ以上触れる気になれなかった。だから、仕事の用件だけを済ませる事にした。
それは明美のためであり、目の前のこの男のためではなかった。
「トム。もし、ヨセフ・ポートマンに出会ったら伝えてくれ、ポートマンの前妻、近藤玲子の兄、近藤真也がヨセフの命を狙いにこの街に来ているってな」
最初のコメントを投稿しよう!