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瓶底眼鏡の女
赤いちゃんちゃんこの自信は、今や風前の灯火だった。
連続で三人失敗したなんて、彼の長い歴史でも初めてのことだった。
いよいよ、自分の力も限界に来たのかもしれない。
その時だった、パーカーとジーンズという姿でリュックサックを背負った女性がトイレの中を覗き込んだ。分厚い瓶底眼鏡をかけた、彼女は赤いちゃんちゃんこ好みにおどおどとしていた。
「こ、ここだよね?」
誰に言うでもなくそう呟き、彼女は一歩トイレの中に入る。
そして、一つずつ個室を確かめながら、横に移動していき、やがてその中の一つに入った。
彼女は上を向いてきょろきょろとしている。
彼女は知っているのだ。
この個室の都市伝説、即ち赤いちゃんちゃんこの事を。
感無量とはこの事か。先の三つの敗北などもはや忘れ去った赤いちゃんちゃんこは、一つ喉の調子を整えるべく小さな咳払いをした。
それが聞こえたのか、ビクッと体を震わせる。
「な……何?」
何たる逸材。赤いちゃんちゃんこは、自らの心が期待で震えるのを感じた。
「赤いちゃんちゃんこ、着せましょか」
いつもよりもいっそう気合を入れて、彼は決まり文句を口にした。
さあ震え上がれ。怯える姿を見せておくれ。
だが、赤いちゃんちゃんこの望み通りにはいかなかった。
「え? あれ? ここ、赤いちゃんちゃんこさん?」
彼女はびっくりしたように顔を上げてそう尋ねたのだ。
「……ん? 赤いちゃんちゃんこ、着せましょうか?」
「あ、ご、ごめんなさい。私、間違えちゃった……。どうしよう」
きまり悪そうにオロオロしている瓶底眼鏡の彼女に、赤いちゃんちゃんこは尋ねた。
「間違えた?」
「あ、あの。ごめんなさい。私、てっきりここ赤マントさんがおられるんだと思ってて……」
その言葉は赤いちゃんちゃんこのハートをいとも容易く抉った。
赤マント。出たよ赤マント。赤いちゃんちゃんこは心の中でため息を吐いた。
「くそ、アイツと間違えられるなんて……」
「ほんとにごめんなさい。私どうすれば……」
困惑する便底眼鏡の女を見ているうちに、赤いちゃんちゃんこはイライラが抑えられなくなってきた。
それは、今日一日かかり続けている負荷が、赤いちゃんちゃんこの中で処理しきれなくなってきていたからだ。
「じゃあ、赤いちゃんちゃんこ着させてくださいよ」
「それは……」
「何だ、しおらしい態度は演技なんですね」
「そうじゃないです。でも、私やっぱり赤マントさんの方が……」
「くそ、何でアイツなんだよ。なあ、赤いちゃんちゃんこの何がいけないって言うんだ」
「来ないで!!」
女は叫び、後退った。その背中が個室のドアに当たる。
「何がいけないんだよ、行ってみろよ。お前が若いからか? それともちゃんちゃんこがダサいからか? それとも殺気丸出しだからダメだっていうつもりか?」
「だ……だってあなた……赤い半纏の劣化版でしょ……」
「れ……劣化版? そ、そこは赤マントも一緒だろ?」
そう言いながらもショックは隠せない。赤いちゃんちゃんこの声は震えていた。
「そんな事無い。赤マントさんはあなたより優しいわ。だって、こっちに選択肢をちゃんと与えてくれるもの!!」
「そ、それはアイツがアレンジしたからで……。赤い半纏は本来着せようとしてくる物だ。より原点に近いのは俺だろ?」
「違うわ。赤い半纏は赤い斑点だから、いわゆる言葉遊びから生まれた都市伝説よ。流れた血がちゃんちゃんこっぽいとか言う力技丸出しのあなたとは似て非なる物よ」
「うぐぐ……」
赤いちゃんちゃんこは苦し気にうめいた。
常日頃から気にしていた事を、面と向かって指摘される苦しさは都市伝説であっても変わる事は無いのだ。
「私の初めては赤マントさんって決めているの。赤いちゃんちゃんこなんて真っ平ごめんだわ。もし、どうしても私に赤いちゃんちゃんこ着せるって言うなら、その前に私は自分で命を絶つわ!!」
リュックサックの中からカッターナイフを取り出した女は、震える手でその葉を自分の喉元に突き付けた。
「く、そんなにか……。そんなに赤いちゃんちゃんこは嫌だってのか……」
「ええ、嫌よ!!」
あまりにきっぱりと言われ、赤いちゃんちゃんこはもう殺すのが嫌になった。
彼が見たいのは女たちが自分を恐れながらも気丈に振る舞う姿だ。その姿を見た上で、そこに絶望を与えるのが彼の存在であるべきなのだ。
彼の事を恐れもせず、自らの喉に刃を突き立てる女を殺して何になるというのか。
「もう良いよ。行けよ」
彼はそう言って、静かにため息を吐いた。
彼女がトイレから出て行った後も、しばらくは動く事さえままならなかった。
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