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捜索
え? 何か言いました? この本ですか? 読みたいのならご自由にどうぞです。稲風(いなかぜ)兄様に置いていった本ですし。
「珍しいな、石菖(せきしょう)さんが読書なんて」
あ、そう見えます? よく言われるんですよねえ。私は案外、読書とか好きなんですけど。でもまあ、確かに人前で読んだりはしないですけど。誰かと一緒にいると、読書よりちょっかいかけたくなるし、読みながら話すなんてこと、歌留多(かるた)姉様みたいに得意でもないですしねえ。
でも私は兄様姉様たちと違って、そう勉強が得意なわけじゃないから、興味の引かれたものしか読まないし、憶えられないですよ。五十嵐(いがらし)さんも結構こういう本読む方なんですね、何というか、科学的なのしか読まないと思ってました。
「ああ、どんなジャンルであれ、書物は頭の肥やしになるからな」
意外と濫読派なんですね? ふーん、じゃあ今度私の兄様姉様達に云ってみたらどうですか。あの人ら、それぞれ色んな本をためこんでいますんで。蟻の巣みたいに交友関係が広いせいか、色んなもの集めてくるんですよ。――あ、でも、稲風兄様には余計ことは聞く耳を貸しちゃダメですよ? あの人、よく変なこと教えてくるから。其処は、タチが悪いんですよねえ。
「そのすぐ上のお兄さんは、今日はどちらに?」
ああ、朝はいたですんけど何か依頼が入ったみたいなんですよね。関西にいる従兄に視線を頼まれて、今日と明日はずっと京都へ出張だそうで。そういえば、五十嵐さんって京都出身なんでしたっけ。
「ああ、といっても、外れの方だがね」
そうなんですかあ、私は紀州出身だから、京都には修学旅行でしか行ったことが無いですね。――あ、その本なら、こちらの方が解かりやすいと思いますよ、たぶんそうマニアックなことは書いてないから――そうですねえ、いつか行ってみたいもんです。にしんそばとか食べてみたいですね。
「遊びにいくのはいいが、夜なったら出歩かない方がいいぞ」
そりゃあまあ、用事もないのに知らない場所をうろうろしたくはないですが。
「石菖さんは、京都に鬼がいることを知っているか?」
ずいぶん、唐突な話題をふってきましたね。それは【京都に】ってことですか?
「ああ、京都では、さまざまなお話が残っている。庚申の日にはもちろん、そうでなくとも夜には百鬼が出歩いて、時折人を喰っては朝日と共に消えてゆく」
五十嵐さんは、見たことがあるんですか。
「生憎、僕は山の方に住んでいたから、街中にもそうそう行かないし、そういったものはさっぱり見ないのだがね」
見たことが無いのに、信じられるものなんですね。
「自分が経験したことのないものを、文献で知るのと同じことではないのかな」
そりゃあ、そうかも。その発想はなかったですね。
「それに私は、見たことが無いわけではないよ」
鬼を、見たことがあるんですか。
「ええ、一度きりだが」
食べられなくて良かったですね。
「石菖さん、本気にしていないだろう」
違いますよお。自分で見たことの無いものを、伝聞(はなし)だけで信じろと云われても難しいじゃないですか。でも、アナタはそんな冗談言ってくるタイプじゃないし。だから、まだ信じられますよ。ただね、あの五十嵐科学部部長が発明以外で真剣な顔をしているから、おかしくって。
「まあ、おかしがるのも、無理はないが。私は、本当に怖かったよ。それは本当だ」
「これは、まだこちらに僕が引っ越す前の話だが……」
五十嵐は祖父に言いつけられて、商品をお得意様の屋敷へ届けに出た。結構な量になったので、荷車を使ったのだが、お得意様と云ってもその日は何軒か重なって、結局最後に商品を届け終わったのは誰彼時になってからだった。
その頃になると、もう人通りはまばらになっている。あそこは、それほど人心が平らかな土地では、ない。五十嵐は慣れているが、やっぱり、そんな時間に何が飛び出してくるかわからない往来に長居なんてしたくなかった。
しかし、流石にお腹がすいたので、まだ開いていた菓子屋で飴を買った。小さな素焼きの壷入りの、白い水飴だ。帰る道中にでも舐めていればいいし、残るだろうから、家族の土産にでもなる。何本か棒を入れてもらって、時おり壷の中に突っ込んで棒に絡めながら食べて。疲れていたから、やっぱりいつもより美味しく感じた。
荷車を引きながら急ぎ足で帰途につく。もう今にも日が山に隠れてしまいそうで、其処此処が薄暗くて。周りの家の窓から、灯りがちらちら見えて……それだけは、怖くはなかったのだが。
――ふと、視線を感じたのだ。それはすぐ後ろからだった。
妙に気になってしまい、五十嵐は振り向いてしまった。空になった荷車の上に、そうだな――二十代そこそこの男がちょこんと乗っていたんだ。
これは驚くしかない。いや、気配はあったし、もしかしたらという気はあったが。帽子を深く被っていたので、顔はよく見えなかった。それにずいぶん珍しい旧式の軍服を着ていて、けれど相当ガタがきている。千切れたり擦り切れていたり、元は華やかだったと判るような色合いだったけれど、でもそれも黄ばんで色褪せていて、正直コスプレか何かかと思ったくらいだ。
どなたですかと、五十嵐は訊ねた。男はそれに答えなかったものの、ぽつりと、一つだけ。
「――ワタナベという者を知っているか」
逆に訊ねられてしまった。しかし五十嵐には渡辺なんて知り合いはいないし、隣の隣の、そのまた隣の隣にだって渡辺という苗字を持っている人は聞いたことも見たこともなかった。
だからいいえと首を振った。渡辺という人を訪なうんですかと聞いたら、そんなところだと案外涼やかな声で答えられた。
聞いてみると、男はずいぶん昔に京都を離れ、久しぶりに戻ってきたということだった。そして渡辺と云う男には「貸し」があるらしくて、今まで探していたのだそうだ。どうして五十嵐の荷車に乗っていたのか、それは何だか聞くのが憚られて、最後まで聞けずじまいでだったが。
五十嵐はいつのまにか、小走りではなく歩いていた。別に男が重かったわけではない。むしろその逆で、男は全く重さが無かった。五十嵐はあの頃は今より背も体力も低く、大人の男が乗ったら普通は重いだろうに、その時は、重さを感じなかった。小石どころか砂粒も乗せていないような軽さで。そこでおかしいと思わなかったのは、今でも奇妙だ。
男は話し終わると、ぐうと腹を鳴らした。なかなか大きい音だったので、思わず笑ってしまった。子供じゃあるまいしと思いながら、まるで浮浪者みたいななりだったし、そんな金も持ってないのだろうと納得した。
五十嵐は、持っていた飴を壷ごと男に渡すことにした。空腹は満たせなくても、舐めるだけでも何か口に入れれば、少しは気がまぎれるものだろう。だが、男は、何かわからないという風に飴を見た。もしかして食べたことがないんですかと訊ねると、こくりと頷いた。それには、五十嵐も少し驚いた。今の時世、さほど手に入れ辛いというものではない。
棒に飴を絡めて、男に差し出してやると、男は割りと素直に飴を口に入れた。その前に、五十嵐が食べたのを見ていたのかもしれない。甘いと男は云った。甘味は知っているようで、少し見えた口元が笑っていたから、気に入ってもらえたようだった。よければどうぞとまた壷を差し出すと、今度は躊躇わずに男は壷を受け取った。
気が付くと、もう五十嵐と男は五十嵐の自宅のすぐ前まで来ていた。もう真っ暗で、目の前の家の明かりでようやく完全に夜になったんだと気づいた。明かりがついていたから、家族の誰かが家にいるとわかって少し安心できた。
五十嵐が男を見やると、男はさっさと荷車を降りた。でもそれは飛び降りる、というより、文字通り飛んだようだった。本当に、ひょいとという感じで。
身軽だなとぼんやり思っていたら、男はまだ笑っていた。よっぽど、飴が美味しかったのだろう。
「馳走になった」
こんなに甘いものは食べたことが無かったと、男は五十嵐に丁寧に礼を言った。そして本当に渡辺という男を知らないのかと訊ねられたので、もう一度いいえと答える。大体、渡辺と云う人は世にいくらでもいるだろう。苗字だけで、名前もわからない。
だから五十嵐は、渡辺と云う人の名前は何ですかと訊いた。
すると男は、つなだと云った。
「渡辺、綱」
わたなべつな。
そのフルネームには、五十嵐にも聞き覚えがあった。
「ああ、石菖さんは、知っているか? 京都に住む者なら、それは誰もが知っている名前だ。何度、本の中や祖母の寝物語に聞いたかわからないほどの」
呆然としていると、男は左手で空になった壷を五十嵐の胸に押し付けた。慌てて受け取って、気が付いたんだ。長袖でわかりにくかったんだが、男には、右腕をもっていなかったんだ。色褪せた服の右袖は、何も通されることなく不自然にゆらゆらと揺らめいていた。五十嵐が何も言わないで男を見上げると、男はもう背を向けているところだった。
馳走になったと男はまた云った。
「――だから、今日は特別に、お前は喰らわないでおこう」
そうして、男は煙のように消えてしまいました、ということですか?
「そうだ……まあ、正しくは煙のようにではなく普通に歩いて行ったがな。それで、私が彼に遭ったのは昔の話ではない」
「渡辺綱。平安時代中期の武将。源頼光の部下で、頼光四天王の筆頭。数々の武勇談を持つ、京都で有名な昔の豪傑だ」
「その昔、彼が夜中に一条戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性が夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。こんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行こうとした。彼は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができたという。平家物語にも語られる武人――だから、怖いだろう」
――怖いですね。ちょっと油断してましたよ。アナタからそういう話が聞けたなんて。本当――怖すぎます。それにしても五十嵐さんは本当に冷静ですねえ。私には真似ができない、怖くないんですか。
「もちろん怖かったさ。しかし、もう過ぎ去ってしまったことだからね。それに、私は怖いのはそのことじゃないんだよ」
じゃあ何が怖いんですか。
「だって、君のお兄さんは今、京都にいらっしゃるんだろう? ……もし何か【あった】ら、それは」
「とても恐ろしいじゃあないか」
本を白衣のポケットに入れ、短い眉を顰めたアナタの方が恐ろしいとは、私は流石に言えなかった。
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