狭間

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「……では、そろそろ切らせて頂きます」 『ええそうね……ごめんなさいスピカ。気をつけて帰ってくるのよ、寄り道は許さないから』 「りょう、了解しました、ですから春日(はるひ)お姉様まもぐっすり、やすん、休んで下さい」  叔母の心配性は昔から変わらない。 「失礼します」  スピカは小さく苦笑をしながら、受話器を電話へ戻した。かじかんだ指先で財布を開き、数枚残った硬貨をそこに落とす。風を封じてくれる壁があるとはいえ、それは防寒のためではなく雑音を遮断するためのものだ。真冬の公衆電話の中は酷く寒かった。 「……はる、春は、まだまだ先」  四方を囲む壁にそれぞれ嵌め込まれた硝子は、雨風に晒され続けているせいかほとんどが茶色く薄汚れている。その向こう側には分厚い雲が広がっていた。こんなにもどうしようもなく寒いのは、太陽とその温もりを遮るあの重たい雲のせいだ。スピカは手袋をはめ、冷気から小さな両手を守った。  先日、日頃から世話になっている叔母が風邪を引いてしまった。しかもそれは近頃大規模に流行している風邪で、かなり悪質なものだ。叔母は健康な女人であったが、逆に病慣れをしていないという事だ。頭痛咳発熱その他諸々が盛り込まれた欲張り風邪の症状のフルコースに堪えきれるはずもなく、あっと言う間にベッドの住民になってしまった。  そうなれば同居人であるスピカが看病するのは自然なことで、あれこれ動き回り、こうして買い出しに出るのも、また当然のことだった。でも、実は普段の二人のパターンとは真逆である。不謹慎だとわかってはいるのだけれど、スピカは内心叔母に頼られているこの現状をほんの少しだけ楽しんでいた。僅かに口元に広がった笑みが、その証拠だ。  硝子に映ったそれに気付き、スピカは誰が見ているわけでもないのに慌てて表情を取り繕った。 「んっ……あら?」  ドアを押したのに。何故だか、ドアは外へ開いてくれなかった。 「ええっと……」  おかしい。何かの手違いかと、もう一度掌に体重をかけてみる。力が足りなかったのかと思い、肩をドアに押し付け、うんうん唸りながらやはり体重をかけてみる。  勢いが足りないのではと考え、一旦躰を離し、抱えていたエコバッグを置いてからえいえいと掛け声付きの体当たりをしてみる。自分なりにいろいろと格闘してみたのだけれど、結果的にそれらは全て無駄な努力になってしまった。 「こま、困った」  傍らの電話に手をつくと、僅かに乱れた息と前髪を整える。けど毛糸で覆われた指は癖毛に天敵な静電気を与えるだけだった。閉じ込められてしまった。しかも、住宅街から離れた、こんな真冬の公園の電話ボックスに。ここ数日にかけての気温が下がり方は酷かった。どんな人も急を要する何かに迫られない限り、誰もが家に閉じこもっている。  犬の散歩をしている老夫婦や、ベンチで休憩している若者、子供達がブランコで遊んでいる姿も当然なかった。自分が声を張り上げたところで、助け出してくれる対象には届かない。 「あ……そうだわ、でん、電話があるのに。いや、嫌ね、私ったら」  電話で誰かに助けを求めればいい。ここは、電話ボックスの中なのだから。予想外の事態を前に、スピカはそんな基本にして当たり前のことを失念していた。いかに自分が焦っていたかを思い知り、これではいけないと頭を振る。こういう時は。 『如何なる時も、冷静に思考し行動しなさい』 「……落ち着いて、私」  両手を組み、いつも叔母が仰っていた言葉を復唱する。彼女はいつだって己の正しい導き手なのだった。大きく深呼吸をしてからくるりと踵を返すと、さっき戻したばかりの受話器をとってボタンに指を乗せた。 「まず、まずは、えと……ええと? こう、こういう時はどこに、たす、助けをもと、求めればいいかしら……?」  病院、警察、レスキュー隊。ボタン付近の指が迷子になる。口にするのは簡単だが、冷静になるということはなかなか難しいことであった。そして、生け垣の向こうに人影を見つけたのは、スピカが迷いながらもボタンを押し始めたちょうどその時だった。 「も、もし! そこのお方、お待ち下さい!」  視線の先には少女の姿があった。まだ四つか五つくらいだろうか、亜麻色のボブカットと寒さで真っ赤に染まった頬はまるまるとしていて、何とも愛らしい。受話器を放り出して硝子に縋りつくと、少女の方もスピカに気が付いた。  にこりと笑顔を浮かべると、生け垣にそって、こちらとは反対方向へと走っていく。端から回り込んで公衆電話へと向かってくるつもりのようだ。公園に忘れ物でも取りに来たのか、ともかく誰かに見つけてもらえてよかった。ほっと安堵した。 「あの、お父様かお母様は近くにいらっしゃるかしら?」  ぞろろろろろ……。  少女の方から不思議な音が聞こえはじめたのは、その時だった。何かが地面を擦っているように聞こえる。少女が何かを引きずっていると思うのが、一番自然だろう。こちら側からは生け垣に隠れて伺えないけれど、少女の持ち物なら玩具か、はたまた傘か。だが。スピカにはそんなありふれた物は思いつかなかった。  具体的に何とは言えない。それは何かとてつもなく『恐ろしいもの』だとしか思えなかったのだ。よく分からない、けれどよくないものを呼んでしまった。  硝子に映る、少女の背中を見つめるスピカの顔は強ばっている。少女の足は止まらず、生け垣を抜け、そうしてスピカの前に、ちょうど電燈の下でその姿を現した。彼女の予想通り、少女は『恐ろしいもの』と共にいた。更に言えば、それは少女そのものであった。 「アーア」  少女は手に何も持っていなかった。ピンク色のコートを着た少女は、スピカの方を見てにこりと笑い、アーアと何度も繰り返しながら駆け寄ってくる。  ぞろろろろろ……。  少女の長い腕が、湿った土の上で悲鳴を上げていた。 「アーア、アーア」  ここで、スピカは悲鳴さえあげられずその場にしゃがみ込んだ。今、この空間を満たす全てに堪えきれなくなったのだ。これ以上見たくない、聞きたくもない。耳を塞いでぎゅっと瞳を閉じ、認めがたい現実を必死で切り離す。けれど少女の強烈過ぎた造形は、幻影となって瞼の裏にくっきりと焼き付いてしまっていた。  長い長い腕。飴細工を限界まで引き伸ばしたような、細くひょろひょろ腕。肩までは普通だった。それなのに二の腕からどんどん平べったくなり、歪んで、そして異様に長くなったその腕を引きずっていた。  ぞろろろろろ……。  ありえない長い腕が地面を擦る音は、どんどん大きくなってく。 「アーア」  少女は言葉が言えないのか知らないのか、ただ一つの言葉を繰り返していた。スピカにはその単語の意味は分からない。だが彼女は、少女がこれからするだろうことならばよく解っていた。 「ひっ」  びたん。  大きな音が正面から聞こえた。何の音かだなんて、考えるまでもない、自分が少女を呼び、少女はそれに答えただけなのだ。だから少女がドアを開けようとして、それの何がおかしいのか。 「アーア?」  びったん、べたん。  掌が硝子にねっとりと吸い付く音がする。妙な水気のある音だった。当たるたびに、剥がすたびに、硝子がびりびりと震える。ぎゅっと瞼を閉じて作った暗闇の中で、スピカは懸命に神に祈っていた。  この少女とは会話ができそうにない。通じる言葉が分からないし、そもそも恐ろしくて声もかけたくない。そして普段一番頼りになるはずの叔母は風邪で寝込んでいるのだ、駆けつけてくれるのは不可能。今のスピカには恐怖に震えながら手を組んで祈る他に出来ることがなかったのだ。消去法の末の行動だった。 「アー、アーアー」  だが実際のところ、スピカは神に祈ってなどいなかった。祈っている『フリ』になってしまっていた。スピカの脳裏に浮かび上がっていたのは曖昧な神様像ではなく、己の大切な叔母(かぞく)の顔ばかりなのだから。凛として揺らがない瞳、まっすぐな背中、頼もしい言葉達……。  紙芝居のように叔母の姿は次々と浮かび上がり、そしてページをめくるように消えていく。それは鼓膜を優しく撫でるような風にも似ていて、通り過ぎてゆくたびに、心を蝕んでいた冷たいものが少しずつ消えてゆくのをスピカは感じていた。血が通い、力んでいた白い両手が色づいてゆく。それはまるでゆっくり溶けてゆくかのような心地であった。 【スピカ。自分の行きたいように生きたいなら、自分のできることと自分にできないことをはっきりと自覚するべきよ。だから如何なる時も冷静に思考し、行動しなさい】 「……はい、お姉さま」  小さな声で返事をすれば、記憶の中の凛とした顔が満足そうに微笑む。叔母はいつでもスピカの頼もしい導き手であった。もう足は怯えていない。スピカはしっかりとしたその両足で立ち上がり、真っ直ぐに前を見据えた。 「アーア」  ドアの向こうに、もう少女の姿はなかった。その代わりに一人、女性が立っていた。ざんばらの茶髪、目は白く濁って虚ろだ。毛玉が張り付いて薄汚れたコートから伸びた長い両手を広げ、彼女はボックスに縋っていた。  どのような力で抱きしめているのだろうか、ガタガタとボックス全体が大きな声で軋んでいる。でも、もう恐ろしくなどない。スピカは雲一つない夜の空と同じように、冷静になっていた。 「アーア」  彼女の乾いた唇が開き、あの言葉を紡ぎ――その時だった。スピカは初めて彼女に反応を示した。すなわち、静かに首を横にふった。やっと少女の言葉の意味に気付いたのだった。落ち着いて考えれば簡単なことだった。それは、多くの人の子どもが最初に覚える言葉。 「ごめん、ごめんなさい……私、私は、『お母さま』ではないの」 「……アーア」 「あな、貴女の『お母さま』にはなれないの。私には、このドアを開けられない。あなたをだき、抱きしめてあげることはできない。貴女が決して私の、家族にはなれないように」 「アー……」  彼女はそれきり黙ってしまった。スピカもそれきり何も言わないものだから、公園は誰もいないような静けさに包まれた。  べったん……。  その音と共に両腕が剥がれたのは、それが数秒続いてからのことだ。だらりと長い腕が切れたかのように垂れ下がり、それを引きずりながら彼女は生け垣の向こうに消えていった。  ずるるるるる……。  土の上を引き回される彼女の両手は、よく見ると酷く傷んでいた。迷子が去ってからも、スピカはしばらくボックスの中に立ち尽くしていた。ドアはきっともう開くのだろうけれど、それを押す気にはまだなれないのだ。少女は泣いていた。何も見えない空を仰ぎ、嗄れた声で己の母を呼びながら去っていった。  おそらくあの長い腕の女は、先程の少女なのだ。そしてこの地域で命を落とした。碌な言葉も知らないような幼い少女が、凍り付くような冬に一人きりで。そして自分の死にすら気付かずにずっと母を捜している。世界から閉め出された少女はこれからも、季節の狭間で一人老いていきながら、届かぬ春に向い、長い腕を伸ばし続けるのだろう。 「私も……見つけてもらえなかったら、きっと」 「あの子とおな、同じになっていたわ……」  ――雪がまた降りはじめた。暗く陰鬱な冬の地平線は遥か遠くまで続いている。暖かな春は、未だその向こうで眠っているのだ。
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