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紅の遺品
「お次は妾黒松雪之丞、が話すわね。アナタ達は絵を描くのは好き? ここにいるみんなは知っていると思うけど、妾は小さな頃から結構描いているのよ。特技というよりは、単純に好きなのかもしれないわね。だから時間に余裕があったらベランダや庭でスケッチしたり、水彩絵の具を使ったり、少し遠出してキャンバスを張ることもあるわ」
「でも油絵は最近やっていないわねえ。経験のある人は知っていると思うけれど、アレはなかなか臭いが凄まじいのよ。何というか……腐った油? 説明が難しいわあ、あの臭いは……自分のアトリエを持っているなら問題ないでしょうけれど、リビングなんかでやろうとするともう大変よ。そもそも、やらせてもらえないんだけれどねえ」
「それがね、一度家の中でうっかり油をこぼした時なんて、ガスが漏れたとか大騒ぎさせてしまったのよ。何よりも、絵の具が服に付いてしまうとね! 時間が経つとなかなか落ちてくれないし、そのくせ塗ったのは最低三日は置かないと乾かないのよ! それで何回も泣かされたわあ……」
「ああ、ごめんなさい、ちょっと脱線したわね。こういう場で絵の話題となると、やっぱりみんなはベクシンスキーの絵などを思い出したりするかしら? ゾディソワフ・ベクシンスキーの絵は凄まじいわよねえ。見ていると何だか不安になってくるというか……キモ面白い? 好き嫌いは分れるだろうけれど、それでいて、綺麗だと思えるし。あんな絵を描けるなんてすごいと見るたびに思うわ」
「ベクシンスキーの他にも、有名な画家はたくさんいるわねえ。ラファエロや、パブロ・ピカソにオーギュスト・ルノワール……妾はミュシャがお気に入りね。素敵じゃない、ミュシャ。あの柔らかい色調、波打つ髪の毛の曲線やしなやかな躰、繊細な画風は憧れるわあ」
「ねえ、ピカソでもルノワールでも、ずいぶん前の人だっていうのに、その人達が描いた絵は今現在でも残っているわよね? 額縁の中だけでなく洞窟に昔の描いた絵が残っていて……ラスコーだったかしら? 絵に限らなくても、エジプトのピラミット、イギリスのストーンヘンジ、日本の厳島神社……言い出すとキリがないけど、それらが作られたのはずっと前なのに、今でもほとんどそのまま残っているじゃない」
「……すごいと思わない? 何か、えもいわれぬロマンを感じるじゃない。今に遺されたモノから、当時の生活や世界状況を大体把握することができてしまうのだから。『時を超えて』今に伝わっていると言うのかしら? もしかしたら、今、妾たちが集まっていることも未来には『歴史』の一端として残っているかも知れないのよ!」
「つまり……ね、誰かが恐怖のあまり気絶したということも、もしかしたら後世に伝わってしまう可能性があるということでしょ? 何か……ホラーとは別の意味で怖い……ああ! 自分で言ってなんだか凄く怖いわ!」
「あらやだ、前置きが長くなってごめんなさいね。それでね、どうして絵の話題を持ち出したかと言うと、妾が今から話す怖い話は、絵にまつわることなのよ。……ねえ、絵を描く時に必要なものは何だと思う? まずは絵を描くキャンバス。とにかく、何かに描きこまなきゃだめだものね。お次は絵の具。顔料がないと色彩が描けないでしょ?」
「そして……なあに?『絵を描こうとするやる気』? あははは! 確かにそれも必要だわ! ええ、それ相応の作品を描きたいのなら、それなりの時間と意欲が無いといけないもの」
「……そして、今までに言ったものと同じくらい必要なものは『筆』じゃない? 筆は本当に大切よ。自分の頭の中の構想をキャンバスに反映することのできる、唯一の道具なんだもの。……大袈裟すぎる? いいえ、それくらい大切な物なのよ。少なくとも、妾はそう思っているわ」
雪之丞の伯父は、畏怖を与える雰囲気をもつ人だった。例えるなら、日本のヤクザとイタリアンマフィアを足して二で割ったところだろうか。そんなとっつき難い、自分にも他人にも厳しい性格。詳しくは知らないが、昔にいろいろあったりやらかしたらしい。そんな彼も、ある話になるとその雰囲気が少しは柔らかくなった。それは、雪之丞の従兄妹――つまり伯父の娘の話。
話の流れでその話題になると、本当に嬉しそうに話していた。娘が初めて歩いたとか、娘が学校の試験で一番だったとか。早い話が親ばかだったわけだ。遅く出来た子で、妻も病気で亡くなっていたから、可愛がるのも無理も無いというか、当たり前の流れだったかもしれない。
「妾はまだ、そんな経験は無いから良くは解らないけれど……。たぶん、妾も彼の立場だったらそうしたと思うわ」
従妹は、とても絵が上手だった。天賦の才能もあったかもしれない、有名なコンクールで最優秀賞をとったくらいなのだから。
「すごいと思わない? 何たって最・優・秀・賞よ! 何百人の学生が出品したコンクールの中で、一作だけ選ばれたんですもの!」
伯父に誘われて、従妹の絵が出品されたコンクール会場にも見に行った。どの作品も個性的で圧倒されたが、その中でも従妹の作品は一際、存在感があった。油彩で描かれた風景画。しかし誰が見ても、本当に丹念に時間をかけたと思えるくらい、何回も何回も色を塗り重ねていて、色合いが深くて……。
「ああ、言葉にできない、まさに論より証拠! みたいな。本当に驚いたわ。まだあんなに若い子がこんな絵を描けるなんて」
若い頃からこんなに凄い絵が描けるなら、年を重ねるたび、一体どんな素晴らしい絵を描いていくのだろうかと……雪之丞は期待に満ち溢れた。……それが沖のはまちになることを、その時は微塵も浮かばなかった。
雪之丞が通勤でいつも通る道を歩いていると、何だかいつもよりも人が多くて、ざわついている。一体どうしたんだろうと思って、背伸びして集まっていた人が見ていたものを雪之丞も見ようとした。
そこに広がっていたのは……惨たらしい光景だった。辺り一面、どす黒い赤と赤味がかった黒で染められていて、地面も、木も、店の壁も血だらけだった。それだけではなくて、血に染まった髪の毛やら服の切れ端が散らばっていた。どう見ても大事故、もしくはテロの現場だった。
「テレビのニュースなんかで時おり耳にするだろうけれど、実際遭遇する機会は滅多に無いでしょう?」
雰囲気からして、ほんの数時間前に起こった様子だった。ショックで雪之丞はしばらく動けなかった。そうしていると、人ごみの中から話し声が聞こえて来た。おそらく、登校途中の学生達。女の子と男の子の声が二人分。聞き耳を立てたわけではないが、ちょうど雪之丞の近くで話していたから、聞きたくなくても聞こえた。
「うっわーえっぐー……大事故だって。しかもケッコー燃えたらしいし」
「先輩、知ってます? オレたちと同じ学校の生徒も、これに巻き込まれたらしいッスよ」
「えー?! マジで?! ホントなの?!」
「マジッスよ! ウチの部活の先輩のお姉さんがーそれらしいの運ばれたトコ見たって言ってました」
「……やだー……この様子じゃ、そいつ……死んだんじゃね?」
「そうそう……躰も血だらけで顔とかメチャメチャだったとか」
「……うっそ、やだ、寒気してきた。早く行こうよ」
「あ、ちょ、先輩ちょっと待ってください! 置いていかないでくださいよー!」
その会話の後、学生たちは逃げるようにしてその場から居なくなった。もちろん、雪之丞もそこから立ち去った。朝からわざわざ耳にしたい内容でもない。
職場には、いつも誰よりも先に出勤してくる伯父の姿がなかった。雪之丞を含むスタッフも不思議に思った。何年も同じ時間に出勤していたし、よほどのことが無い限り、休む人では無かったから。
……その時、雪之丞はあの事故現場の光景がふと頭をよぎった。もしかして、あの子達が言っていた『同じ学校の生徒』と言うのが、従妹ではないのかと。そう思ってしまって。まさかと思い直そうとしていたら、部屋に後輩が飛び込んできた。そして、挨拶より先にこう言った。
「あの……ニュース見られましたか……?!」
みんなでテレビのある部屋に移動して、テレビのニュース番組を見た。ガソリンスタンドでの事故のニュースを。 アナウンサーの女の人が読み上げる。早朝、ガソリンスタンド付近で乗用車とタンクローリーの玉突き事故。ガソリンが漏れ出て引火した結果、大炎上した。被害者は主に運転手など大人だったが、一人だけアルバイトの女学生が巻き込まれていて。
彼女の名前が……従妹の名前で。特徴的な苗字まで一致した。それを聞いた時、全員黙り込んでしまった。……黙っていたと言うより、言葉が出なかったというのが正しかったかもしれない。だって、その状況で何か話せるというのか。
「……何も話せるわけが無いわよ」
数日後、伯父は出勤してきた。彼の顔はお葬式で見た時より、酷い様相だった。まるで死者の如く青黒く、いつも鋭い目尻も下がっていた気がする。その時には事故のニュースは広まっていて、全員既に知っていた。だからといって、一体どんな言葉をかけるべきか悩んでいた。
「残念でしたね」
「お悔やみ申し上げます」
「元気出して下さい」
……どんな言葉を彼にかけたとしても、おそらく良い結果は生まなかったことだろう。だから、誰も彼もしばらくの間、どことなく伯父と距離を置いていた。そして無意識に憐れみと不安の眼差しを向けている。
雪之丞は……そんなみんなと伯父を、更に遠い場所から傍観しているしかなかった。自分も大多数と同じだった。何て言葉をかければいいか解らなかったから。……下手なことを口走って、伯父が余計に落ち込むのは見たくなかった。……だから見ているだけだった。
その事故から一年と半年ほど経った頃だっただろうか。雪之丞は休日、都心部の中心を歩いていると、通りかかった体育館で、偶然学生の美術展が開かれていることに気づいた。それを見て、従妹のことを思い出した。その頃には、事故なんて無かったように普通に伯父に接していた。
「……だって、そんなものじゃない? 自分のことじゃないんだから」
他人の痛みを、完全に理解することなんて、できやしない。大切にしているものは人それぞれ、見方が変われば価値観も変わっていくのも当然のこと。伯父が一人娘を喪った痛みは、そっくりそのまま第三者には伝わることはない。
「……お葬式が、良い例じゃない? 家族を喪った親族は悲しみに暮れているけれど、そこから少し離れた所では、集まった人達が談笑しているでしょう? ……それと同じことよ」
人は自分と無関係な人の生死に鈍感にならざるをえないのだ。
従妹を思い出した雪之丞は何となく、美術展の会場に足を踏み入れた。今回はどんな作品があるかという興味もあったし。去年とは全く違った趣きのある作品が出されていた。水彩の風景画、モノクロの抽象画、廃材で作った町のジオラマ……。大小さまざまなゴムで作ったロボットや、見上げないと先が見えないお菓子の模型。
どの作品も個性的で胸が高鳴る。一通り見た後に、雪之丞は最優秀賞の作品を探した。こんなにも個性的な作品から選りすぐられた作品だ、一体どんなものなのか気になるのは当たり前。しかし、何せ数が数だ、なかなか見つけられない。後で聞いた話によると、五百点もあったらしい。一通り見回っても見つからず、結局スタッフ人に聞いて案内してもらった。
「こちらが、今回の最優秀賞の作品で御座います」
示された油彩の作品を見た時、雪之丞はまだ驚いてしまった。……その作品は、死んだ従妹の絵に似ていた。……そっくりなんてものではなかった。線の輪郭、色使い、塗り方……全部、異なる箇所は一点もない、従妹が描いた絵そのものだった。従妹の絵はかなり特徴的だったから、一目見ただけでも解かった。
驚いて作品名と名前を見る。作者は男の子だった。学校の名前も描いてあったけれど、流石に覚えていなかったから、確認の意味も込めて、一応伯父に連絡をとった。
「どこそこの展覧会で、従妹の絵と酷似する油絵が出品されていて、最優秀賞に選ばれています」
……それを聞いた伯父は、電話の向こうで静かにだけれど……怒っていたことだろう。冗談でもそんな事なんて聞きたくないのは当然だろう。それでも、雪之丞はどうしてもそれを伝えないと思って必死になって説得した。
「……というかね、冗談だったらもっとマシな話題にするでしょうよ。不謹慎にも程があるじゃない、そんな冗談!」
何とか雪之丞の必死の思いが伝わって、それでもしぶしぶという感じだったけれど、伯父は会場まで来てくれて、雪之丞は彼をその絵の前まで歩いて伯父にみせた。横から彼の表情を見ていたけれど、本当に驚いた顔をしていた。
……やはり、その絵は実の父親から見ても娘の絵に見えたのだろう。しばらくそのままで、伯父はなぜかすぐにその場から走って行ってしまったの。雪之丞も慌てて追おうとしたけれど、結構良い歳なのにかなり速くて……途中で見失ってしまった。その翌日に、直接伯父から話を聞くことができた。
……その時の彼は、何だか少し嬉しそうに見えた。娘が死んでから、嬉しそうな顔なんて一度も見ていなかった。雪之丞は、安心よりも、逆に……何だか怖く思えた。あの後、伯父はすぐさま娘の通っていた学校に行ったそうだ。やはりというか、あの作品は従妹と同じ学校から出品されていた。
「もしかしたら、回収しそびれた作品を展覧会に提出したんじゃないか?」
もちろん、葬式の後に彼女の作品は全て回収されたそうだが、一応その可能性が出たわけだ。応対した美術部の先生は、従妹のことを知らない新任の人で、突然やって来た故人の保護者に困った様子だったけれど、きちんと対応した。
「あの作品は新入生が描いた作品なのです」
そんなこと言われても伯父からすれば納得できず、実際に本人が絵を描いている教室まで行った。そして、最優秀賞を取った学生――仮名をA君としよう――が絵を描いているのを見た時、驚いた。展覧会を終えた後だというのに、自主的に制作を続けていたのだ。それがまた、描いている作品は、娘の描く絵そのもので……。
伯父は茫然としながらもある事に気が付いた。A君が使っていた筆だ。柄が紅い一色のデザインだったらしいのだが、入学祝いに伯父が従妹にプレゼントした筆に、そっくりだった。その子から半ば奪うように筆を見たら、イニシャルが刻んであった。その子とは違う……死んだ娘のものが。
「……ほら、良く言うじゃない。ずっと同じモノを使い続けていると、そこに魂が宿るって。きっとそういうことだと思うわ。……もしくは、志半ばで死んでしまった従妹の強い想いが、身近にあった筆に残ったのかもしれないわね?」
展覧会の絵は、やはり【従妹】が描いたものだった。A君は【従妹】に【代筆】している形になっていた。自分で描いたはずのものが、実は他人のものだったというわけだ。
「……これだけでも十分ゾっとしない話だけれど、これだけでは、みんなは満足しないでしょうね? 怖くなるのはこれからよ」
娘の形見ということで、伯父はそれを持ち帰ろうした。しかし、今でも絵を描き続けている【娘】を見て、思う存分気が済むまで絵を描かせた方が良いと思ったらしくて、そのまま帰ったそうだ。
「……それは、確かに父親の愛情深い行動かもしれないわね。でも。善行はすべての人間を幸せにできるとは限らないわ。だって、不思議な偶然といえ、遺品の所有者にさせられた生徒さんの立場はどうなるの? 今まで何気なく使っていたお気に入りの筆が、実は不慮の事故で死んだ人の私物で、しかもいきなりその人の父親がやってきて、「それは私の娘の形見の筆ですが、今まで通り絵を描き続けて下さい」なんてぶっちゃけるのよ」
「困るのが当たり前じゃない、嫌な言い方をすれば迷惑よ。だって、全く知らない人の形見なわけなんだから。知り合いから譲り受けたものだったらまだしも、名前どころか顔も知らない、悲しい事情のある誰かの物をみんなは使える? ……使えないわよね? 何か構えてしまうっていうか……妾だったら絶対に無理よ。モノの経緯を知ってしまえば、尚更。みんなはどうかしら? もしかしたら使える人も居るかもしれないわね……いいえ、別に何も言う気はないけどね」
A君も似たようなことを思ったのだろう。さんざん悩んで、結局伯父に返すことにした。……おそらく、【知らない人の形見は使えない】という良心と、【自分が描きたい絵を描きたい】という野心があったのだろう。だって、今回最優秀賞を取ったのは自分絵じゃなくて、【他人】の絵だったわけだから。自分の絵で賞を取りたいと思うのは当前だろう。
先生を通して親元に返そうと思い、封筒に紅い筆を入れて、テープで封をした状態で渡した。……顧問の先生も、A君の気持ちが何となく理解ったのだろう、責任を持って父親に返しておくと約束してくれたみたい。一安心したA君は、とりあえず新しい絵の構想を練るために、教室に戻った。
いつも作業している机の前に腰かけた時……目の前にあの紅い筆が置いてあることに気が付いた。
焦っていたから、先生に別の筆を渡してしまったのかもしれない。そう思ったA君は、慌ててその紅い筆を持って先生の元へ行った。事情を話して、取り替えようと思って封筒の封を開けたら、何も入っていなかった。これにはA君も先生も驚いた。A君は確かに筆を入れたつもりだったし、先生も空っぽの封筒を渡されたら、流石に気が付く。
内心不安に思いながら、筆を封筒に入れ直して教室に戻ったら、今度は机の中に紅い筆が入っていた。
……それからというもの、A君は紅い筆に付き纏われるようになった。どんなに筆から離れようとしても、すぐ目の付く場所に筆がある。学校に置いてきたつもりでも、家に帰ると部屋の筆立てにあるとか。逆に家においてきたつもりでも、靴箱の中に筆がある……。そんな事が続いた所為で、A君は気鬱を患ってしまった。そして、とうとう絵を描く事さえも辞めてしまった。
「筆がついてくる」
なんて言っても、そんな現象を信じてくれる人も居ないだろうから、誰にも相談できなかっただろうし。下手すれば自分の精神状態を疑われてしまう。それでも、筆はずっとついてきた。きっと従妹にはもう、絵を描きたいという想い――いや、執念しか残っていなかったのだろう。
「もしもの話だけど、他の人間にその筆を渡せば、もしかして解放されたかも知れないわね。でも、そんな曰く物、渡すに渡せなかったみたい。彼、ちょっとお人よしなタイプだったらしいしねえ。やすやすと他の人に押し付けることが出来なかったんだと思うわ」
A君はどうしようと一人でずっと思い悩んで、ある方法を思いついた。それはね、筆を物理的になかったことにすること。筆として使えなくさせてしまえば、ついてくることは無くなると思ったのだろう。幸か不幸か……彼の学校の近くにはお寺があった。
A君は早朝、筆を供養してもらいに行くことにした。早い時間に行った所為か、まだ寺は清掃中だった。でも一刻でも早く筆をどうにかしたかったA君は、階段の前で焚き火していたお坊さんに頼んで供養してもらうことになった。筆が炎の中に入れられて。ああ、これでやっと解放される……そう思ったA君は安堵した。
「でもね」
突然強い風が吹いて、大きく火が燃え上がった。キャンプファイアのごとき炎の柱は、まるで怒り狂った女の顔に見えたそうだ。驚いて逃げようとしたA君に目がけて、焼却炉の中から火の塊が飛んで来た。……避けることも出来ず、A君はあっという間に火だるまと化した。火に包まれていた中で、彼は足元に転がっていた紅い筆を見たとか。
……A君は奇跡的に助かった。お坊さんが人を呼んで、急いで火を消して救急車を呼んでくれたみたいで、処置が早く済んだおかげで命はとりとめたのだ。
……それでも、全身に大火傷を負ったら、動くこともできない。全身は包帯でグルグルに分厚く巻かれていて、一目見ただけでは、性別さえ判別できなかったらしい。動くことができないなら、当然、筆を持って絵を描くなんて行為は不可能だ。そんなことになっても【従妹】は納得できなかったようだ。
入院した数日後、A君の病室から、ナースコールが鳴った。でも、彼はまだ動ける状態ではなかった。だから、自分でナースコールをすることなんてできない。巡回していた他の看護師がナースコールしたのかと思って、ナースステーションに居た人が出た。
「助けて……助けて……」
向こうから掠れた声が聞こえた。これはただ事ではないと思って、A君の病室に急いで行ったら……A君はもう死んでいた。真っ白な床にA君自身の血で、それは見事な病室から見える風景画を遺して。……その子の口には、紅い筆が収まっていたという。
「……あら、どうして、妾がそこまで知っているのかという顔をしているわね。とっても単純なことよ? 全部、伯父さんから聞いたものなんだもの」
何でも、夢の中で娘に会って聞いたらしい。それはもう事細かに、当事者で無ければ知りえないことも語ってくれたそうだ。
「……それが本当だっていう証拠はないわよ。そりゃ、調べてみたら解るかもしれないけれど……結構前の話だし、から」
雪之丞はそんな気は起きないし。伯父も、既に鬼籍に入っている。そして従妹はこう言ったという。
「あの子はもう絵が描けないから、別の子と絵を描いていく」
その話を聞いてから、雪之丞は絵筆を出す時、紅い筆が混じっていないか探すようになった。……万が一でも増えていたら、ゾッとするだけでは収まらない。
「もし娘が君の所へ来たら、好きなだけ絵を描かせてあげてくれ」
伯父は、この話をしてくれた後にそう言い含めてきたという。
「……妾はそんなの、絶対に嫌よ。妾の描く絵は、妾自身、この黒松歌留多(くろまつかるた)のものなのよ。代用品だなんて冗談じゃないわ! いくら上手で素敵な絵でも、私が描きたいものが描けなくなるなら、いっそのこと……」
「……あら! いいえ、ふふ、何でもないのよ。ああ、そうそう。肝心の紅い筆の行方を言い忘れるところだったわ。あの後さんざん探し回ったようだけれど、見つからなかったそうよ。……もしかしたら、別の誰が【手にしている】のかもしれないわね?」
「……アンタ達は絵を描く?……いいえ、別に絵じゃなくても、知らない間に増えている筆記用具はないかしら? 書き心地が良くて、かなりの頻度で使っていたりする? ……お節介かもしれないけれど……そういうものには気をつけた方がいいと思うわ。誰が使っていたのかわからないもの……一体どんな想いが込められているのか……わからないから……ね?」
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