源平出世術

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 朝、顔を洗ってから洗面台の鏡を見て、腰を抜かしそうになった。鏡には、僕の肩越しに覗く男の顔が映っているではないか。一人暮らしなので、この賃貸マンションの部屋には、僕の他に誰もいないはずだ。だとすると、泥棒だろうか。  昨夜は同僚の田崎と飲みに行って、上司の悪口で大いに盛り上がった。その結果、二日酔いというわけだ。おかげで、昨夜の記憶は未完成のジグソーパズルのように、ところどころピースが欠けている。部屋の鍵を掛けたという記憶も欠けたピースの一つだ。よく覚えていないが、多分鍵を掛け忘れたのだろう。だから、泥棒のやつが忍び込んだのだ。 どうすべきか。方法は二つ考えられる。一つは泥棒と戦うこと。けれど、僕は武器と呼べるものを持っていないのに、相手はナイフや鉄パイプを持っているかも知れない。たとえ泥棒を撃退できたとしても、怪我をしてはつまらない。二つ目は、幾らかの金を渡して帰ってもらうこと。怪我することを思えば、多少の出費は我慢すべきだろう。 「金なら少しある」  泥棒に背を向けたまま声を掛けてから、相手を刺激しないようにゆっくりと体の向きを変えていった。ところが、体を九十度回したときに鏡を見て、また腰を抜かしそうになった。僕の背後、歩幅半歩ほどの距離に鎧を纏った男が立っている。  僕は恐る恐る手を後ろに回してみたけれど、手は何の抵抗もなく男の体に入り込んだ。もしかして、幽霊か? いや幽霊などいるわけがない。夢だ、きっと夢を見ているのだ。起きたつもりが、まだ寝床の中にいるに違いない。昨夜の深酒のせいだ。  僕は頬っぺたをつねってみた。痛かった。ということは、本物の幽霊ということか。  幽霊がなぜ突然現れたのか分からないが、少なくとも泥棒よりはましだろう。泥棒に危害を加えられたという話は聞くが、幽霊に怪我をさせられたという話は聞いたことがない。そう思うと気持ちに余裕ができたのか、じっくりと幽霊を観察することができた。  幽霊は、腰に刀を差して、手に白旗を持っている。頭には兜の代わりに袋のような帽子を被っている。こんな装束をNHKの大河ドラマで見たことがあった。平家のなんとかという偉い武士が合戦のときにこんな格好をしていた。すると、源氏か平氏の幽霊ということか(後でインターネットで調べたところ、白旗は源氏の印だと分かった。因みに平氏は赤旗だ)。  幽霊の顔は土気色をしているものの、鋭い眼差しや堅く結ばれた唇を見ると、きっと知略にたけた意志の強い武将だったのではないかと思う。
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