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第四話 大黒屋の天丼
やっちまったー。
お酒の力によって、わりと駄目なことをした気がする。いや、そうでもないのか?
でもほろ酔いでふらふらーっとしながら帰る道にイケメンが落ちてるーなんて思って声かけてお持ち帰りしてご飯食べさせたって、どう考えても相手が未成年だったら青少年育成保護法の都条例に引っかかってしょっぴかれるパターンじゃないかー。? あれ? どっちにしろ未成年だし、私犯罪者じゃないの? どうなの?
「先輩、なぁに頭抱えこんでるんですかぁ」
休憩室に間の抜けた後輩の声が響く。毒が入ったセリフも、彼女だとなんだか許せてしまう。陰口をたたくのではなく、目の前にぶつけてくるからイラっとすることはたまにはあるが、正直者なんだなぁと思う。ゆるふわの肩より少し長めの髪はピンク系だけどやさしい感じの茶色で、フリルのついた白いブラウスとシフォンの柔らかい素材が上にかぶさるようになっているふんわりとしたAラインの臙脂のフレアスカートは彼女によく似あっている。私はといえば毎月縮毛矯正がかかせないほどのくせっ毛なのに太くて固い黒髪で、それをひとつにまとめて後ろに流しているだけのそっけない髪型だ。服は紺のカーディガンに白ブラウス、細かい千鳥格子のタイトスカートと可愛げはない。ていうかアラサーで可愛げも何もとかつい卑屈になってしまう。
「何でもないのよ、ちーちゃん」
「えー、ちーは今、先輩が話聞いてほしそうだなぁって思ったんですけどぉ」
一人称はちーだ。でも本名は市島いと。おばあちゃんみたいな名前が嫌で、ちーちゃんと呼ばれたがるし、自分のこともちーと呼ぶ。二十代前半の可愛い子だから許される特別待遇だけど。
「……じゃあ、ちーちゃんはさぁ、初対面の男の人を自分の家に連れてったことある?」
「え。そんなのしませんよ。今時、それって危ないじゃないですか」
真顔でざっくりと切り捨てられた。そうだよねー。ですよねー。正論すぎていつもの語尾のばしもなくなっているし。
「ていうか先輩、初対面の男の人をおうちにお持ち帰りしちゃったんです?」
「うぐっ!」
的確に急所を突いてくるなー。ゲーム的に例えるならクリティカル!ていう表示が出ていたと思う。悪気がないようなのほほんとした顔をしているけど……。まぁでも今のは正論だ。間違っちゃいない。
「え? 本当ですか? あの堅物を絵にかいたような、とまで言われる福ちゃん先輩が?! 事件ですね!」
うきうきしてやがる。すんごいうきうきしている。そうだよねー。女の子はこういう話大好きだもんなー。私だってちょっと失敗していなかったら、同じように浮かれて聞いて聞いてーなんて十年来の友人にだって話していたさ。でもさー、この状況は絶対怒られるもん。アラサー女子がもんも何もないけども。
イケメンだった。そしてすごい素直でいい子だった。酒のせいにして昨日の強引な自分のことはすべて忘れてしまいたかったけれど、それは出来なかった。
だってさー、本当にいい子だったんだよー。本当に!
いろいろと考えている間にスマホのアラームが休憩時間の終わりを告げる。
「あーごめん! 時間切れだわ!」
「えーっ! じゃあ、しょうがないんでぇ、みんなには内緒にしているかわりに今度ゆーっくり聞かせてくださいねっ!」
これはもう首を縦に振らざるをえない。にぱっといい笑顔をしているちーちゃんは憎めない。
私は仕事場に戻る準備をしながら、いろいろと考えを巡らせていた。
雷門の前は人がいつでもごった返している。目の前に派出所があっても、それは同じ。
にぎやかでうるさくて、浅草らしい風景だなと思う。ほとんどが観光客というのも面白い。
派出所の角のところで待っていると、重成くんが片手をあげて走ってくるのが目に入った。
「すいません! お待たせしました!」
「待ってないよ。時間ぴったりだね」
笑いながら腕時計を指さすと彼は照れたように頬をかいて笑う。なんだこの初々しさ。ドキドキしちゃうよ。ていうか、今のやりとりカップルっぽかった。カップルっぽかったな。
「さて、まずはご飯から行きましょうか」
「はいっ! あ、でも代金」
「今日、お給料日だったんだ。それとうちに来るののお祝いをさせて。もし払いたいっていうんなら、いつか余裕が出来たときにおごり返してくれたらいいよ」
「う。はい」
これぐらいは大人の女の余裕を見せたい。見栄だけどね。
雷門を通って仲見世に入ると、すでにお店はほとんどしまっている。浅草寺自体が夕方五時にしまってしまうものだから、仲見世のお店もしまってしまうのがものすごくはやい。
「ここのお店ってあんまり開いているところ見たことないです」
くるりと周りを見ながら重成くんが言う。そうだよねぇ。学校行って戻ってきたら、ほとんどしまっているんじゃなかろうか。
「そうねぇ。あ、あそこで曲がるよ」
伝法院庭園という普段は入れない庭園と、伝法院幼稚園を右手にして左に曲がって歩いていく。
「今のところ、幼稚園なんてあるんですね」
「噂ではかなり狭き門って話だよー」
浅草界隈のセレブが通うという噂があるんだけど本当なのかなぁ。噂、噂。
そうこうしていると伝法院とは反対側に続くお店の並びに、ビルではなくてこじんまりとした和風の建物が現れる。
「今日はここでご飯!」
大黒屋本店。言わずと知れた浅草の天丼の有名店である。
「ここはっ!」
重成くんのテンションが上がるのも分かる。そうなんだ。そうなんだよ。
お店の外までごま油のいい香りがする。ごま油好きなんだよね。この香りだけでもお腹が減ってくる。
「お高いんじゃあ……」
ちょっと及び腰になっている重成くんの肩をドアをノックするみたいにとんっと叩く。
「大丈夫、大丈夫。じゃなきゃ、私が連れて来たりしません」
そう笑ってみせて、のれんをくぐり引き戸を開いた。中は大盛況。うーん。やっぱり人が多い。
「お兄さん、お荷物お預かりしますよ」
「あ、ありがとうございます!」
はきはきとした返事が気持ちいいねぇ。店内はそんなに広くないので、大きな荷物を預かってくれるのはとてもありがたい。
「注文はいかがなさいます?」
「えっと、海老1かき揚げ1キス1の天丼ふたつで!」
ささっと頼んでお品書きは閉じてしまう。こういう時に値段を見せるのは野暮ってもんでしょ。ネットでいくらでも調べられるけどね。
おろおろしているイケメンもいいね。とりあえずあっついお茶を啜りながら、天丼が出てくるのを待つことにする。
「そういえば、大学に住所の変更届け出せた?」
「あ、はい。今日は一限がなかったので、区役所行って住民票とってお願いしてきました」
「うむ。よしよし」
「福恵さん、本当にいいんですか?」
「何度言っても私の意見は変わらないから無駄だよー。私の方こそ、私のところでいいの?ってなもんよ」
「はい」
少し苦笑い気味に笑う重成くんに道化るようにえせ江戸っ子口調で返して、私は本当は内心ドキドキしっぱなしなのを隠すのに必死だった。
だってこの至近距離で! イケメンとごはん! そうそうないシチュエーションですよ、これは。
前世でどんな徳を積んだというのだ、私。
「お待たせしましたー!」
そうこうしているうちに天丼が来た。来た来た来た!!!
これ! これですよ! 蓋を開けるとふわっといい香りが鼻を直撃するこれ!
「……真っ黒?」
重成くんがつぶやくのも分かる。そう、黒いのだ! 天丼のつゆというより、もはやタレの域に達している大黒屋の天丼にかかっている天ぷらは黒々としているのだ。
「ささ、冷めないうちにいただきましょう。いただきます!」
「いただきます!」
慌てて始まりの挨拶をすると、恐る恐るといった感じで重成くんが海老を箸で掴み口に持っていく。私もキスを口に運んだ。ふんわりとした白身とがつんとしたタレと衣に残ったごま油の香ばしさがなんともいえないハーモニーなのである。うまーいー。家では出せない味とは正にこのことだ。海老も食べる。海老はぷりっぷりで食感がたまらない。下に敷かれた真っ白なご飯のタレがかかったところも美味しい。もちろんタレがたっぷりかかった天ぷらといっしょに食べる白いご飯部分もいい。
人は、美味しいものを食べると無口になってしまう。
元々家でもご飯時にはあまり会話をしない家庭ではあったので、食事時に喋るのはなんとなく苦手だ。
ちらっと重成くんを見れば、一心不乱に天丼をかきこんでいる。うんうん。よしよし。気に入ってもらえたのかな? 汗かいた後に食べるとまた美味しいのよね、この塩っけが。
そしてしばらくの沈黙は続き、二人してどんぶりを置いたタイミングはほぼほぼいっしょで、手を合わせてごちそうさまを言った後、ほうっと満足の溜息を吐き出したのも同時だった。
「……おいしかったぁ……」
お米一粒残さず綺麗にたいらげた重成くんの満足そうな顔に、私もうんうんと頷いて同意する。本当に美味しいんだよね。ここの天丼。
「江戸前天丼発祥とも言われているお店だからね。ここのだけはぜひ食べてもらいたかったんだ」
嬉しくて嬉しくて笑顔になると、重成くんも笑顔で同意してくれた。
「これは食べないと損ですもん。分かります!」
食の好みがいっしょっていい! すごくいい! 嬉しくなっちゃうなー。もう。
それからお会計をして、ホッピー通りは寄らずにまっすぐ家に向かって帰った。なんとなく習慣になっていたお酒は、今夜は飲まなくていいかな、と思えた夜だった。
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