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はしご酒にしつこく誘う芦田風太郎をなんとか振り切って、武田春樹は帰途についていた。
自分の姉の思い出話を懐かしそうに話す芦田は、いつものわざとらしい笑顔を貼り付けた彼とは違い、素直な表情の普通の青年に見えた。常に見えない仮面を被って本心を隠している芦田を知っている者としては、これはかなりレアな状況ではあったが、こちらにも都合というものがある。
暗い夜道を歩いていると、不意に少女のくすくす笑う声が聞こえた。
「……?」
見ると、立ち並ぶブロック塀の上に、ちょこんと一人の少女が座っている。
年の頃は12歳程度。白いワンピースを着て黒髪を長く伸ばした、可愛らしい少女だった。少女は武田を見て、にこり、と笑った。その姿は、夜の闇の中に在ってもはっきりと見えた。まるで、少女自体が光を発しているように。
武田は悟った。──これは、俺にしか見えないモノだ。
「こんばんは」
少女が言った。
「俺に何か用か? お嬢ちゃ──」
武田は言葉を切った。わずかに目を細める。
「……あんた、見た目通りの年齢じゃないな」
少女はにこにこ笑っている。
「女性の歳を口にするほど野暮じゃないが──あんた俺より歳上だ」
何処となく、既視感があった。この少女の笑顔に似た顔を、俺は何処かで見たことがある。武田はそう思いながら、言葉を続けた。
「ついでに言うと、あんた、死んじゃいないな? どういう状態かは判らないが……あんたは生きてる」
「正解よ。……思ってた以上に眼のいい子ね、あなた」
少女はふわりと塀から降りて来た。そのまま地上から10センチばかり浮いた状態で、武田の前に立つ。
「初めまして、武田春樹君。あたしの名前は、芦田凪。よろしくね」
「芦田?」
同じ苗字の男と、ついさっきまで一緒にいた。
「……あんた、もしかして……」
「そう。芦田風太郎は、あたしの弟よ」
少女は答えた。見たような気がしたわけだ、と武田は思った。よく見ると、少女の優しげな顔は、あのセンセイに似ている。
「あんたは死んだと聞いたぜ、あんたの弟から」
「死んだようなものよ。あたしの体は、この年齢の時から眠ったままだもの。もう随分昔になるわ」
「だからその見た目か」
ふふ、と少女の姿をした女は笑った。
「で、あのセンセイの姉貴が俺に何の用だ?」
「風ちゃんが、自分の生徒以外の人に自分から関わって行くなんて、珍しいことがあるものだと思って。どんな子なのか、ちょっと見に来たのよ」
空中を滑るように動きつつ、凪は歌うようにしゃべった。
「武田春樹、二十七歳。○○県警捜査一課所属、階級は巡査。代々高い霊力を有する武田家の現当主・櫻子の孫。ちなみに、警察の上層部にもお祖母様のお世話になった人達がいるおかげで、多少単独で変わった行動を取っていても大目に見てもらえている。──ついでに言うと、なかなかのイケメン」
「よく調べたな。探偵でも雇ったか?」
「あたしに行けない場所なんかないもの」
確かに、肉体を持たない彼女にかかれば、警察であろうが何処であろうが入り放題だ。
「風ちゃんはあまり他人に関心を持たない子だから、ああやってあなたを連れ回したりしてるのが本当に珍しいのよ。でもあなたを見て、何となくわかった気がするわ」
「あいつは俺の力に興味があるだけだろ」
どうやらしばらく彼女に付き合わされることになりそうだと踏んだ武田は、上着のポケットから煙草を取り出した。やれやれ、姉弟そろって、俺を振り回してくれる。
「そうかしら? 最初はそうだったかも知れないけど、だんだんあなた自身に興味が移っている気がするわ」
「それでも、俺はあいつの友人じゃないと思ってるし、あいつも俺を友人じゃないと思ってるぜ」
ふう、と煙を吐く。
「俺の家系は代々邪気を祓い、穢を清めて来た。対してあんたのところは──」
「──そうね、あなたの家とあたしの家とでは、相容れないかも知れない。でも、ただの人としての芦田風太郎と武田春樹には、そんなこと関係ないんじゃない?」
彼女は食い下がる。なら、こちらも言わなければなるまい。自分があいつをどう見ているのか。
「……あいつは」
少し目を伏せ、武田は口を開いた。
「作り笑顔の仮面の下に、とてつもない狂気を秘めてる。何の躊躇もなく人を殺せる程のな。自分は教師だというアイデンティティを持っているから、生徒に危害を加えることは死んでもしないだろうが──いっぺん箍が外れてしまえば、それ以外の人間には何をするかわからない。そういう自分を自覚してるから、あっちから踏み込むことはあっても、踏み込ませることはしない。近づいた者を、うっかり殺してしまわない為に」
だから誰も芦田風太郎と友人にはなれない。芦田も誰も友人とは呼ばない。すぐに切れる「知り合い」止まりだ。
「……良くわかったわ、何故風ちゃんがあなたに構うのか」
凪は静かに言った。
「あなたの見立ては正しい。あの子は闇を抱えている。……でも、そこまであの子をわかっているあなたは、うっかり殺したってただでは死なない。必ずあの子に一糸報いる人だわ」
「どうかね。本気でやり合えば、多分あいつの方が強いと思うがな」
「見込まれているのよ、あなたは。いざそういうことになった時、あの子を殺せる人間として」
彼女の言葉に、買い被られたものだ、と武田は思う。確かに、殺されそうになった場合にただで死んでやるつもりはないが、「あいつの方が強い」というのは本音だったんだがな。
不意に、少年の頃殺されかけた記憶がよぎった。あの時俺は、生き延びる為に禁を犯した。それは自分にとってもある種トラウマとなったが、咄嗟にそれが出来た俺を、あいつは認めたということだろうか。
武田は何処か自嘲的に微笑んだ。
「ぞっとしねえな。──そんな関係を、『友人』とは呼ばないと思うぜ、俺は」
殺し殺されることが前提の関係。そんなものが「友人関係」であるはずがない。名付けることが出来るのかどうかは知らないが、きっとそれは何か別のものだ。
だから恐らく永遠に、俺とあいつは「友人」にはなれない。
「そうね。……個人的には、あなたにはずっと風ちゃんとは『知り合い』でいて欲しいわ」
殺すことも、殺されることもなく。
あたしはこうして闇に沈んだけれど、弟には少しでも光の当たる場所にいて欲しい。凪はそう思う。だからあたしは嬉しいの──弟に、「知り合い」がいることに。
「それじゃ、あたしはもう行くわ」
ふわり、と少女の姿が舞い上がる。
「あいつには会ってかないのか」
弟の知り合いの男が、声をかけた。
「会えないし、会わないわ。……あの子ね、子供の頃はとっても甘えっ子だったのよ。いつでも何処でもあたしにべったりで。あたしが姿を現して、甘えっ子に戻っちゃったら困るもの」
想像しがたい、といったような武田の微妙な表情に、くすくす笑う。
「きっとあなたにも、無意識の内に甘えてるはずよ。あんまり甘やかさないでね、あの子の為にならないから」
「あんな図体でかい奴を甘やかす趣味はねえよ」
時々酒に付き合わされるのは、ひょっとしたら甘えているのだろうか。
「あなたと話せて楽しかったわ。じゃあね、武田君」
少女の姿をした女性は月明かりの中、空間に溶け込むように消えて行った。武田はそれを見送りながら、彼女の孤独を思った。
恐らく──彼女は、芦田の家系の“裏”を担う一員となっているのだろう。その為に、あの姿になった。弟である風太郎に会えないと言ったのも、姉と弟では文字通り住む世界が違ってしまったからだ。
姉があの姿になったおかげで、芦田風太郎は現在教師をやれている。普通の女性としての人生を捨ててまで、彼女はその道を選んだのだ。
他所の人間と話したのも、久し振りなのではないだろうか。今の彼女の姿を見れる者自体、そう多くはないだろう。それこそ俺くらいのものだ。
彼女は肉体が死を迎えるまで、あの姿でこの世の何処かを彷徨っているのだろう。
(姉貴に感謝しろよ、センセイ)
刑事として、憎しみ合い殺し合う兄弟も、愛情と独占欲が強すぎて破滅の道を突き進んだ姉弟も見て来た。──そして今、弟の為に自分を犠牲にした姉に出会った。世の中、色んな奴らがいる。
愚かだと言うのは簡単だ。だが、そういうところが人間の人間らしいところでもある。
武田は吸い殻を携帯灰皿に捨て、再び歩き始めた。
同じ頃。
武田と別れてこちらも帰途についていた芦田風太郎は、ふと足を止めて空を見上げた。
少女の笑い声が聞こえた気がした。
「姉さん……?」
姿は見えない。でも恐らく。
(見てますか、姉さん?)
芦田は普段見せない柔らかい笑顔を浮かべた。心の中で語りかける。
(さっきまで一緒にいた人、あれが武田さんです。あれで結構面白いし、いい人なんですよ)
日々を思い出して、くす、と笑う。
(武田さんはきっと僕の期待に応えてくれる人です。……彼にはちょっと過酷かも知れないですが)
──きっと彼なら、僕を殺してくれる。
(だから、僕は大丈夫だから、心配しないでください、姉さん)
二度と会うことはない人に向け、教師は密やかに微笑んだ。
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