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「俺が欲しいのは政権なんかじゃねえ、お前だ」
日本国総理大臣・安部晋之介(あべ・しんのすけ)が首相官邸の一室で、執務椅子の背によりかかってため息をついたとたん、机の電話が鳴った。
「……はい」
「総理、民意党の江田野議員が至急面会を求めていますが」
告げられた名前に、晋之介は一瞬息を呑み、それをごまかすように咳払いした。
「アポイントメントは取ってないはずだ。丁重にお断りして」
「先ほどから何度もそう申し上げているのですが……あっ、ち、ちょっと!」
電話の向こうがいきなりあわただしくなったかと思うと、プツリと切れてしまう。
嫌な予感に晋之介が立ち上がった時、ドアが乱暴に開けられて大柄な男が部屋に踏み込んできた。
スーツの上からでも筋肉が鍛えられているのがよく分かる体つきの、どこか野性味がある男である。
民意党の党首・江田野(えだの)であった。
「総理! 予算に対する意見書を持ってきたぞ」
「困ります、勝手に入られては!」
追いすがるSPを軽々と片腕で払いのける。
晋之介はため息をついて手を振った。
「いいよ、話を聞こう」
「しかし、総理……!」
「古い付き合いだし……。大丈夫、何かあったらすぐに呼びます」
しぶしぶ部屋を出て行くSPを振り向きもせず、江田野は分厚い書類の束を机に叩きつけた。
「分かってるじゃねえか、総理。若くして国のトップに登り詰める奴は器が違うな」
「あなたが引き下がらないことを良く知ってるからですよ。それに、あなただって十分若いじゃないですか」
「25歳で総理をやってる奴に言われたくねえな」
「……僕はあくまでも父の代理です」
選挙直前、急に倒れてしまった父親の代わりに出馬したら、いつの間にか総理になっていた。
選ばれた以上はこの国のために尽くそうと思い、自分なりにやれることを精一杯やってきたつもりだ。
安倍晋之介、25歳。
その若すぎる両肩には、一国の責任という重責がのしかかっていた。
「……この意見書には目を通しておきます。国会でまた……」
「なあ」
書類に伸ばしかけられた手を掴まれ、晋之介は顔を上げた。
いつの間にか、ぎょっとするほど近くに江田野が迫っている――と思った時には、腰を掴まれて引き寄せられていた。
「ちょっ、ちょっと……!?」
「無理してるんじゃねえか、晋之介。 少しやせたな」
腰に回った太い腕は、いくらもがいても逃れられない。
「離してください!」
「うちの予算案を通してくれるなら……なんてな」
吐息が至近距離で頬をくすぐり、晋之介は顔が赤くなるのを感じた。
「野党の意見をそのまま採用なんて、出来るわけないじゃないですか」
「分かってる。予算案を直接渡したのは、お前に会いたかったからだ……晋之介」
「なっ、名前!……で呼ばないでください」
「晋之介」
耳元で太い声が囁いた。
「衆議院を解散しろ」
「なっ……!?」
衆議院解散。それは内閣総辞職を意味する。
「僕に、総理をやめろというんですか?」
「内閣不信任案が可決する前に、自分で決断すべきだと言ってるんだ」
江田野は晋之介を見つめる。
「内閣総辞職して、党を出て民意党に――俺のところに来い、晋之介」
その瞳の奥の真摯な光に、晋之介はたじろいだ。
流されまいと、あえて尖った声を絞り出す。
「江田野さん、分かってますよ」
「何をだ?」
「今衆議院を解散したら、民意党が次の与党をとれる目算が整ったんでしょう」
江田野の瞳がかげった。
「――確かに、今ならうちの党が政権をとれる目算はある。総理――与党の党首が25歳の若造だなんて、前代未聞だからな」
吐き捨てるような言葉に、ズキリと走った胸の痛みを、晋之介は気付かないふりをした。
「やっぱり。あなたは僕を心配してるふりして、この国の政権を取ろうとしているだけだ。僕は、総理として責任が――」
突然、荒々しいキスで口をふさがれ、晋之介はその後を続けることが出来なかった。
「な……!?」
「バカ、ここまでやってもまだわからねえのか」
唇を離すと、江田野は晋之介の肩を強く揺さぶった。
「俺が欲しいのは政権なんかじゃねえ、お前なんだよ、晋之介!」
「……!」
「お前をこれ以上、国の重責で苦しめたくねえ。俺は……今でもお前のことを」
真摯な瞳と言葉に、晋之介はごくりと喉を鳴らした。
「え、だのさ……」
「――そこまでにしてもらいましょうか」
不意に、冷ややかな声が二人の間に割って入った。
江田野が弾かれたようにドアを振り返る。
「……菅谷(すがや)官房長官」
立っていたのは、すらりとした長身の男だった。
江田野とは対照的に、黒いスーツをスマートに着こなしている。
細められた目つきと恐ろしく整った顔は、見るものに怜悧な印象を与えた。
「うちの総理から手を離しなさい、野人」
「……チッ」
江田野はしぶしぶ晋之介から離れた。
「アポなしで押しかけるなんて、何を考えているんですか。さっさと退室しなさい」
「言われなくても、もう行く。……余計な邪魔が入ったが、晋之介。俺の気持ちはあの時から変わってねえからな」
「……」
「あんな別れ方……認められるかよ」
小さく呟いた江田野の燃える瞳を直視できず、晋之介はうつむいた。
「江田野さん」
菅谷の声が冷たさを増す。
「分かってるよ。……総辞職の件、よく考えてくれ」
江田野は来たときと同じく、大股で部屋を出て行った。
その背を見送った菅谷は、滑るように晋之介へと近づいた。
「タイが歪んでいますよ、総理」
細くしなやかな指が、晋之介のネクタイの位置を直す。
「……菅谷、ごめん」
「何がです?」
刺すような視線を向けられ、晋之介はますます縮こまった。
「……無断で江田野さんに会って」
「全くです」
返す言葉はにべもない。
「総理ともあろう方が、たかが野党の議員ごときのアポなしの面会にやすやすと応じ、あまつさえ意見書まで受け取るなんて、党への背信行為と見られてもしかたありません」
「……ごめん」
「ただでさえ、若いあなたは敵が多い。僅かでも隙を作る真似はしないでいただきたい」
「……」
うつむいた晋之介の頬に、冷たい手が触れた。
「それとも、相手が江田野だから……面会に応じたんですか?」
「え」
「未練があるから」
勢いよく顔を上げた晋之介は、首を振った。
「違う! 僕はそんな……」
「……」
じっと晋之介の顔を見つめた菅谷は、手を下ろすと踵を返した。
「それならいいんです。昔どのような関係だったかはもう忘れてください。今の彼は、政敵です」
「……」
「明日は新しい大統領との首脳会談のため、アメリカに飛ぶ予定です。早めに休んでください」
菅谷は振り向きもせず、さっと部屋を出て行った。
ひとり残された晋之介は、そっと頬に手を当てた。
菅谷の指が触れた、ひやりと冷たい感触がまだ残っている。
「……官房長官」
指は冷たかったのに、頬は燃えるように熱かった。
◆◇◆
「シンノスケ・アベは、明日は何時に到着する予定だ?」
「15時です、トランポリン大統領閣下」
執務椅子に深々と背をうずめた男は、返ってきた答えにニヤリと笑った。
「そうか、ならディナーを共にできるってわけだ。その後もな」
広々とした大統領の執務部屋にしつらえられたテレビには、日本のニュース番組が流れている。
政治関連のニュースで、晋之介の姿が大写しになった。
「おう、何度見てもいいな、シンノスケは。……チッ、後ろだ、ケツを映せ、クソカメラマンめ」
記者たちの質問に答え、にこやかな笑いを浮かべる晋之介に、男――トランポリン大統領は手を打ち鳴らした。
「映った! 観ろ、あのケツを! あれには百万ドルの価値があるぜ!」
薄暗い部屋に下卑た笑い声が響く。
「楽しみだなあ、ジャパニーズ・プッシーキャットの到着が。フッ……HAHAHAHAHA!」
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