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「政治家の手は開かれているべきだ」
「……マーチ……」
身体がふわふわと柔らかなものに包まれている。温かくて、規則正しく波打っているものが自分を守ってくれている。
「トゥィ……メニャー……アドナー……」
誰かが歌っている。
低く抑揚のついた不思議な音の連なり。
晋之介はうとうととまどろみながら、気が付いた。
これは言葉だ。
「マーチ……」
これはロシア語だ。単語の意味は、確か……。
「『おかあさん』……?」
「目が覚めたか」
ぽつりと呟いた言葉に思いがけずはっきりとした返答があり、晋之介は思わず目を開けた。意識が急速に明確になるにつれて、ズキズキと頭が痛みだす。
どうやら、大きな毛皮に包まれて寝かせられているらしい。スーツは脱がされ、下着一枚になっていた。
薄暗い室内を大きな暖炉が照らし、パチパチとまきが燃える音と心地よいぬくもりが部屋の中を満たしている。外ではまだブリザードが吹き荒れているらしく、時折吹き付ける風の音が聞こえていた。
「ずいぶんうなされていたぞ。……日本語は分からんが」
声は頭の上から降ってくる。晋之介は顔を上げた。
枕元にはプッチンが座っていた。揺れる暖炉の灯りを見つめている。
赤々と燃える炎が裸の上半身を照らしだしていた。
「プッチン首相……! 僕は」
「寝ていろ」
思わず跳ね起きかけた晋之介を指一本で制し、プッチンはおもむろにベッドへと入ってきた。
「し、首相……?」
冬の匂いがしてひやりと冷たい肌が晋之介の額に触れる。
「まだ熱い」
プッチンは晋之介のからだを引き寄せた。
「あ……あの!?」
「脆弱な身体だ。仔ウサギよりも筋肉がない」
ぎょっとして離れようともがく晋之介をやすやすと押さえ込み、プッチンが呟いた。鍛え上げられた胸筋は晋之介の抵抗を受けても揺るぎもしない。
「お前のような男が覇権を握れるほど、日本の政界は惰弱なのか?」
「ぷ、プッチン首相、離して下さ……う、くっ」
「それとも、お前の中にも獣性があるのか? シンノスケ・アベ」
組み敷かれ、晋之介はプッチンを見上げた。銀の瞳の中に、当惑げな顔をした自分が映っている。
じっと見つめられるとそのまま吸い込まれそうな色の瞳だった。
「……お前の目は不思議な色をしているな。エキゾチックな深みがある」
「僕も……同じことを思いました、閣下」
プッチンの瞳に魅入られたまま、晋之介は答えた。
こちらを見つめる銀の瞳が、記憶のなかである人物と重なる。
彼は今、日本で晋之介の身を案じているのだろうか。
風が吹きすさぶ異国の地にあって、無性に彼に会いたかった。
「興味深い」
物思いにふけっていた晋之介の意識が引き戻された。ぐいと顎を掴まれ、荒々しく唇を塞がれる。
「まっ……ん、く」
「つっ!」
思うがままに晋之介の口腔内を蹂躙していたプッチンが顔を上げ、眉を軽くひそめた。その唇が噛み切られ、つっと血がこぼれる。
「す、すみませんっ! あ、で、でも……」
その隙に何とかプッチンの腕をかいくぐった晋之介は、ベッドの端へとあとじさった。
「何を謝る。お前が食われまいと抵抗を見せたことは雄として当然のことだ」
プッチンは血をなめとると、身を起こした。
「食うか食われるか。雄ならば牙を磨け、政治家ならば常に他国を食い殺す気迫を持て。そうでなくば、自国は守れんぞ」
「プッチン首相は、日本を食い殺すおつもりですか」
晋之介は深呼吸した。
「僕は……そんなつもりでロシアに来たわけじゃない」
「ふん?」
鼻を鳴らしたプッチンに向かって、晋之介はぐっと握りしめた拳を突き出した。
「僕が兵士なら、この拳はあなたを殴るためのものです、閣下。けれど、わが国には兵士はいないんです。そして……僕は政治家だ」
晋之介は、腕を伸ばしたままゆっくりと手を開いた。
「政治家の手は開かれているべきだと……僕は思っています。どんな人とでも握手ができるように」
プッチンは差し出された手を無造作に掴むと晋之介をぐいと引き寄せ、抱きすくめた。
「握手だと? 戦場で寝ぼけたことを言っていると」
「ここは戦場ではありません、閣下」
晋之介はぐ、と唇を噛むと、そのまま身をプッチンへと寄せた。開いた手が柔らかくプッチンの肩を包む。
温かな手の感触に一瞬気を取られた瞬間――晋之介がプッチンの唇についた血をなめとった。
「っ……?」
「……すみませんでした」
完全に予想外の行動に、プッチンの反応が遅れた。
さっと唇を離した晋之介が、俯いて言う。
「あなたを傷つけるつもりはなかった。たとえ……あなたが僕を傷つけようとしていたとしても、僕はあなたを傷つけたくはなかったんです」
「……」
プッチンは口を開けた。頭の中では反応が遅れた自分に対する怒りが渦巻いていた。
この怒りをぶつける相手は、目の前の男を置いて他にない。
ローティーンの子供のようなスキンシップを図ってきた晋之介を嘲り、下手な誘惑だが乗ってやる、と押し倒し――
だが、声が出てこなかった。
からだの神経が断ち切られたかのように、指一本動かせない。
(何だ……どうなっている? これが噂に聞く『NINJYUTSU』なのか……?)
混乱する思考の中で、プッチンは晋之介を必死で見つめた。
(まさか、この人畜無害な外見こそが擬態だとでも……この私が、まんまと騙されたというのか?)
「……閣下?」
動かないプッチンを、晋之介が怪訝そうな顔で覗き込む。
「あの……怒ってますか? 僕はただ、噛みついてしまったお詫びがしたくて……シーツで拭うとしみになりますし、あの」
伏し目がちの黒い瞳、甘い匂い、シャツから覗く鎖骨から胸元へのライン――
ドンドンドンッ!
不意に鳴り響いたドアのノック音が、プッチンの金縛りを断ち切った。
「閣下、こちらにシンノスケ・アベ首相はおいででしょうか。日本より急ぎの電話が」
「――ああ」
かろうじて声を絞り出したプッチンは、ベッドから滑り降りた。
「あの、プッチン首相――」
「うちの首相をいつ帰す気だ、と昨日から何度も日本からかかって来ている。どうやら、日本でお前を待っている奴はよほど焦れているらしい。確か……スガヤとか言ったか」
晋之介はパッと顔を上げた。その頬が赤らんでいる。
「あ、あの、僕は」
「今回の問題は海難事故として処理する。山吹丸は既に日本へ送った」
「あ……ありがとうございます!」
上着を手に取ったプッチンは鋭い一瞥を晋之介へ投げた。
「勘違いするな。貴様が甘ったれの理想主義者であることは間違いない。その手をいつまで開いたままでいられるか、見ものだな」
「善処します……っと、わっ」
照れたように笑って立ち上がった晋之介がふらつく。
「ミーシャ!」
プッチンの声に呼応するように、ベッドの毛皮がぐんと持ち上がって晋之介を支えた。
「えっ……この毛皮、動いた……?」
「それは今回の詫びだ。お前にくれてやる」
「えっ……え?」
晋之介は唖然としてプッチンを見つめ、恐る恐る毛皮に視線を落とした。
波打つ見事な毛並みがうねり、ガラス玉のような目がぱちりと開くと小さく唸る。
「え……こ、これ、生きて……?」
「特別便を手配した。30分後には飛べるぞ、急いで支度しろ」
「えっ、いや、ちょっと待ってください、これってもしかして」
プッチンは足早に部屋を出た。
これ以上部屋で晋之介を見ていると、自身が築き上げた心の強固な城壁がさらさらと崩れて行ってしまう気がしたからだ。
「ぷ、ブッチン首相!? ちょっと……ちょっと待って~~!?」
――ロシアの特別チャーター機が極秘裏に日本へ着いたのは夜遅くだった。
空港で待っていた菅谷はタラップを降りてきた晋之介に話しかけようとして、その後ろに続いて現れたものに目を見開いた。
「や、やあ、ただいま」
「……それは何ですか、首相」
晋之介は曖昧な微笑を浮かべた。その後ろでりんごをかじっているのは――巨大なハイイログマだった。
つぶらな瞳だが、体長は優に2mを超える。
「この子、プッチン首相からのプレゼントで……官邸で飼っていいかな」
菅谷はしばらくまじまじと熊を見つめた後、咳払いした。
「……駄目です」
「そ、そこを何とか……あの、躾はばっちりらしいから」
「駄目です、元居た場所に返していらっしゃい」
「ち、ちゃんと世話するから! 頼むよ菅谷!」
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