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#8 - 堕天狩り
1
――“忘却と真実(レーテー)”。
魔物によって上下二つに分かたれた修道女クロエの亡骸、命の灯を失った虚ろな頭部の傍らにアダムは膝を着くと、心中で言霊を呟いて自らの意識を幽界に飛ばした。
零体と化したアダムは彼女の亡骸の上を漂う白炎の玉『霊魂』を見つけ、それに手を翳す。
すると、霊魂は淡い光を放ちながらその形を人型へと変えていく。
やがてアダムの前に現れたのは、修道服を身に纏う若い女――生前のクロエの姿だ。
『――アダム様』
「よぉ。アンタがあっちに行く前に、いくつか聞きたいことがあってな」
まるで世間話をするかの様に、アダムはクロエの霊体に尋ねる。
秘技『忘却と真実』は女神ステュクスの支流の一つ『レーテー川』の力を具現化したものであり、その力の本来の役割は魂の裁定の為に死者から真実を聞き出し、そして転生の為に記憶を忘却させることだ。
もっともアダムが現世に居る以上、後者の力を行使する機会は無に等しい。
霊体と化して空中に佇むクロエは辺りを見渡し、足元の自身の亡骸や周囲に散らばる黒ずんだ氷塊を見つめる。
そして状況を理解したのか、儚げな表情を浮かべてか細く息を漏らした。
『私は、命を終えたのですね……あの子も……』
「ああ」
『あの……主はあの子を、導いてくださいますでしょうか?』
「アンタ等の神の基準は知らねえけど、基本的に人を食らった魔物の魂を救うことは不可能だ。煉獄か、冥府か、はたまた虚無に還るか……」
『そう、ですか……』
儚げな表情は変わらなかったが、その声色はさらに悲嘆の色を増していた。
命の終わりよりも魂が救済されないことを嘆くのは彼女の信ずる神の教え故だろうが、それでも凶悪な魔物を我が子の様に想っているクロエの心を、アダムは量れずにいた。
それを知るのが霊体化した理由だ。
「あの魔物に出会ったのはいつだ」
『ひと月ほど前です。最初は小鳥の様な、小さくてとても可愛らしい姿をしていました。森で怪我をしたのか、教会の裏手でうずくまっていたあの子を見つけまして、怪我の手当てをして森に帰そうとしたのですが、どうにも懐かれてしまった様で……あの子は森から毎日の様に院にやって来て、私の肩で囀る様になりました』
魔物とクロエの出会いは、アダムが狩りを始めた頃と同時期だった。
恐らく自らが狩り始めた大量の魔物のうちの一匹であり、怪我をしたものの命からがら逃げ延びた結果、クロエに救われたのだろうとアダムには容易に想像が出来た。
そしてその一匹を仕留めておけば、彼女達が死なずに済んだかもしれないということも。
「アンタ、あれに血を吸わせたか?」
『……はじめは、麺麭の耳をちぎったものだけで十分でした。ですがある日、外で遊んでいた子供の一人が転んで足に怪我をしてしまい、地面に大量の血が流れました。子供はすぐに他のシスター達によって病院に運びこまれて事なきを得ましたが、院に残った私が血の片づけをしようとそこに行くと……あの子が血を啜っていました』
「切っ掛けは事故か。だが、その一回程度じゃそこまで成長しなかったはずだ」
『以来、あの子は麺麭の耳だけでは満足出来なくなっていました。肉の切れ端を与えると喜びましたが、日を追うごとにその量も増えていき、それにつれて体も大きくなり……そして遂に、子供の一人を襲ってしまいました』
血の味を覚えた獣の如く、魔物が人間を襲うことはもはや運命だったと言えるだろう。
大抵の魔物は自らの食欲に従順となり、思考を放棄して獲物を食い散らかすが、件の魔物はそうはならなかった。
極限まで食欲を抑え、姿を隠して機会を窺い、視覚では判断できない程精密に人間に擬態し、人語を扱うほどに思考力を高めたのだ。
かつて小鳥だった魔物としては明らかに異常な進化であり、その進化に至った理由はクロエが知っている。
「どうやって抑制した」
『注ぎました。愛を、我が子のように。獣の本能は赤子をあやすように宥め、血への渇望は私の血で満たしました。そうして宥めていくうちに、あの子は子供を襲うことなく逞しく育っていきました。あの時までは』
悲痛な表情のクロエが語る「あの時」とは即ち、アダムが魔物を追い詰めた二日前の事。
魔物が左半身に火傷を負い、それを癒す為に子供のみならず他の修道女達も食らったのだ。
それを手引きし、そして隠蔽したのは紛れもなくクロエだ。
彼女は魔物に心酔していた。狂っていた。
「なぜそこまで惚れ込んだ?」
『……私は、子供が出来ない体でした。物心付いた時には既にこの修道院で暮らしていましたが、きっと私を森に捨てた理由はそれだったのでしょう。そして、私にとってもその事実は耐え難い事でした』
「アンタ等には戒律があるだろ」
『望んで院に入ったならともかく、私達にはこの生き方しか許されませんでした。許されなかったのです。他に行き場所など無く、身寄りの無い私達だけでは生きていけません。ですが一度街を訪ねた時、道を歩く親子の姿を目の当たりにして、幸せに満ちた顔で子供の手を引く母親の姿を見て、私は羨望してしまったのです。「子供が欲しい」と』
「魔物を自分の子供の様に育てたのは、それが理由か。神父は知っていたのか?」
『いいえ。あの方は最期まで知りませんでした。あの子の事も、他の修道女と子供達の死も、私の想いも……何も、知りませんでした』
漸く全てが明らかとなった。
ローレンスははじめから何も知らなかったのだ。
魔物が潜んでいたことも、学舎の隠匿も、クロエの想いも、なにもかも知らず、最期は魔物に殺された。
おそらく信仰に誠実な、司祭として模範とされる男だったのだろう。
しかし周囲の変化には酷く鈍感であり、それが彼女を狂わせる原因となった。
『……アダム様、あの子が人に仇為すものであったことは理解しています……ですが、この世に生を受けた確かな命でもありました。命とは他の命を糧にして生を繋ぐもの、であれば! ただ生きる為に人を食べたあの子にっ! 罪は……無いはずですっ……!』
クロエは双眸から雫を落とし、掠れた声で自らの子の救済を訴える。
たとえ自らの子が人を食らうという罪を犯したとしても、彼女は人の親の様に魔物に救いを求めた。
それは崇高な思考であり、魔物に抱いた感情でなければ正しいものだったのだろう。
だが、その想いを尊重する義理はおろか、慈悲すらアダムには存在しない。
「俺は狩人だ。人界に害を運ぶ黒翼をその背中から剥ぎ、命を狩るものだ。万人がその魔物に罪が無いと訴えようと、人を食らった魔物は全て狩る。それが俺の仕事だ」
無感情に放たれた言葉により、クロエの瞳から零れていた光は消え失せた。
人を食らった魔物は狩る。
それを為すことに対する迷いは一切なく、彼の意志は決して揺るがない。
なぜなら、この様な事はこれまで幾千幾万とやってきたからだ。
そして、それが彼の望みでもあるからだ。
打ちひしがれた様子のクロエだったが、やがてその霊体の光が強まり、魂の残留の刻限を告げる。
「知りたいことは以上だ。最後に言い残したい事があれば聞く」
『……それでは、アダム様に一つ』
その身を光に包まれながらクロエは眼前のアダムを見つめ、そして微笑みながら言った。
『アダム様。貴方は地獄に落ちるでしょう』
『我が子を――いいえ、これまで数多の命を奪った罪で、貴方は地獄に落ちるでしょう』
『煉獄の炎に身を焼かれて、身が裂ける苦痛に悶えて、その罪を償いください』
『それが私の、最初にして最後の怨恨です』
『その時が訪れるまで……どうか平穏にお過ごしください』
止め処なく溢れ出た呪詛を最後に、クロエの霊体は光の粒となって跡形も無く消えた。
彼女は最期の最期でこれまで守ってきた戒律を投げ捨て、修道女ではなく母親としてこの世を去ったのだ。
果たしてその魂が彼女達の主の下に辿り着けるのかは定かではない。
それでも、彼女は自らの子を奪ったアダムへの怨恨を、言葉にせずにはいられなかったのだろう。
しかし、クロエの呪詛を聞いたアダムは、僅かにほくそ笑んでいた。
「――もう知っているさ、クロエ。三千年前からな」
吐き出す様に紡がれたアダムの言葉は、夜の帳に紛れて消えた。
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