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ユキノと別れた後、一人で弁当を食べた。
ヒナコの作る弁当も美味いけど、やっぱ時々は自分の好きな物食べたくなるんだよなあ。
それがいくら、俺の健康を考えての物だとしても。
それに…
申し訳ないが、実のところ…夕べのヒナコの鬼の形相が…
脳裏に焼き付いて離れない。
ヒナコにあんな一面があったなんて。
しかも、たかがケーキで。
正直…ちょっと幻滅だ。
そんな昨日の今日で、ヒナコの手作り弁当はのどを通らない。
「キヨシさん。」
会社の近くに戻ると、後ろから声を掛けられた。
その声に、俺は少しだけ顔の表情を整えて振り返る。
「やあ…ミユキちゃん。」
同期の松井の嫁、ミユキちゃんだ。
この子、愛想はイマイチなんだけど、それに慣れてしまえばひたすら可愛く思える。
飲むと甘えて来る所もいい。
そのギャップに萌える。
ヒナコは酒を飲まないから、そういう変化が楽しめないんだよな~。
…いや、浮気心とかじゃない。
俺はヒナコ一筋…だから。
「バーベキューの時は、色々ありがとう。」
ミユキちゃんは艶のある長い髪の毛を後ろに追いやりながら、特に微笑むわけでもなく言った。
俺はそれに対して少し目を細め、鼻で笑うような仕草で首を傾げた。
「色々?俺、何かしたっけ?」
「もうっ、何それ。」
バシン、と腕を叩かれる。
「あいてっ。」
大げさに痛がってみせると、ミユキちゃんは『ひ弱』と、つぶやいた。
ふと、ミユキちゃんが手にしてる物に目が留まる。
「あれ?それ…」
「え?ああ…Pinksのケーキ。」
紙袋には、見覚えのあるロゴ。
夕べ、俺がつまみ食いして…
すぐさまヒナコの怖い顔が浮かんで、ギュッと目を瞑ってそれを消し去る。
「女は甘い物が好きだな。」
前髪をかきあげながら言う、ミユキちゃんは首をすくめて。
「ここのケーキ、あまり甘くないの。私よりヒデオがお気に入り。」
どうでもいい事を言った。
松井の好物なんて、ほんと…どうでもいい。
「だけどヒデオに頼んだら、選べないって全種類買って来ちゃうから、こうして私が買ってるの。」
「全種類?ははっ。松井の奴、優柔不断だな~。」
「ほんと、いやんなっちゃう。新庄さんみたいに判断力も決断力もある人が良かったな~。」
「……」
松井は、仕事は出来ないわけじゃないけど凄く出来るわけでもない…まあ、普通の奴だ。
が、『歩くオアシス』、『気配りのプロ』、『気遣いの塊』と…
好印象な異名しか聞かない。
そんな奴の嫁に評価されると、まあ…悪い気はしない。
特に、ユキノから『釣った魚に餌をやらない男』みたいに言われた後だけに、ミユキちゃんの言葉は俺にとって、大きな自信となった。
そうだ。
やっぱり男は判断力と決断力、そして包容力だ。
「何か悩みがあるなら、相談乗るよ?」
特に何もなさそうだよな~とは思いつつ、年上風を吹かせた。
すると意外な事に、ミユキちゃんは一瞬瞳を揺らせて。
「…何でも?」
声を潜めて言った。
「え?あ…ああ。お兄さんに話してみなさい。」
「……」
ミユキちゃんは、じっ…と俺を見つめた後。
「じゃあ…キスの練習相手になって欲しいって言ったら…相手してくれる?」
ずい。と、距離を詰めて言った。
「………は?」
「言っとくけど、浮気とかじゃないから。真剣にキスの練習がしたいだけ。」
「……」
真顔のミユキちゃん。
俺はパチパチと瞬きをして、その唇を見る。
…ヒナコとはまた…違う…
ツヤツヤで、ふっくらとした…
…って、いやいやいやいやいやいや!!
「そ、そんなの、松井とすればいいんじゃ?」
少し狼狽えながらもそう言うと、ミユキちゃんは今まで見た事のない…拗ねたような顔になった。
お…っ…
この表情…可愛いぞ……
って…いやいやいやいやいや!!
俺!!頑張れ!!て言うか、踏ん張れ!!
流されるなー!!
「…ヒデオのキスが良過ぎるから、いつもキスだけで骨抜きにされちゃうの。」
「…え?」
「そういうの、なんか悔しいじゃない…」
「…ええ?」
キ…キスが良過ぎる!?
「普段は私の方が優位なのに…ベッドでは翻弄されっぱなしなの…どうしても悔しいの。だから…まずはキスでヒデオを骨抜きにしたい。」
「……」
松井が…
あの、優柔不断の松井が…ベッドではミユキちゃんを翻弄してる…!?
「そ…えーと…」
同僚のセックス事情なんて知りたくもないが…いや、ちょっとは興味がなくもない…いや、気になる…いや…
すごく、気になり始めた。
「松井のキスって…そんなにいいの?」
「悔しいけど。キスだけで失神しちゃいそうになる。」
「…そ…それは、もしかしたらミユキちゃんが感じやすいとか…」
「他の男で、そうなった事ないもの。」
「…すー…好きな相手となら、そうなったって仕方ないんじゃ?」
「ヒナコさん、キスで失神する?」
「……」
し…
しない!!
ヒナコだけじゃない…ユキノだって、その前に付き合った彼女たち、誰一人として…
キスで失神なんて、するかー!?
しねーよ!!
おい!!松井夫婦!!
変なク〇リでもやってんじゃないのか!?
「ちなみにー…どんなキス?」
まさかこんな事を…
22歳の女の子…とは言っても人妻、しかも同僚の妻と声を潜めて語り合うなんて。
「まずは…頬に手を当てて、目を見つめて…」
「うん。」
それは、俺もしない事はない。
…いや、最近頬に触れるなんて…ないな。
「それから、『愛してるよ』って囁きながら、ついばむようにキスして来て…」
「…うん…」
『愛してる』…最近言わないな…
「上唇を強く吸われたり…」
「へえ…」
しないな。俺は。
「その後、焦らすようにまたついばんで…」
「……」
「急に激しく来たと思ったら、舌を緩く刺激して…それから激しく吸われて…こっちが息が出来なくなって来る寸前で離れ」
「ミユキちゃん…っ…」
どうにかなってしまいそうだった。
目の前にいたのは、表情があまり変わらない22歳、同僚の妻。
彼女がだんだん頬を赤く染めながら、瞳を潤ませながら俺を見上げて。
咄嗟に出た俺の右手は、彼女の腕を掴んでビルの隙間に入り込み。
「…あ…はっ…」
ミユキちゃんの唇を、塞いでしまっていた…。
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