森本イオリ

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森本イオリ

「…森本、ちょっといいか?」 時間給を取ってユキノと買い物をし、ユキノを社宅の二階にある我が家に送り届けた後で会社に戻ると。 珍しく…新庄がそわそわした様子で俺の前に立った。 「…いいけど…」 少しだけ周りを見渡して、俺達は喫煙室に。 ユキノが妊娠して、俺はタバコをやめた。 新庄も、ヒナちゃんが体調を崩してタバコはやめた。はず。 「おまえさ、学生の時に友達とあっちの話した事ある?」 やめたはずのタバコが新庄のポケットから出て来たのを見て、つい小さく笑った。 が… 「…は?」 新庄の言葉が遅れて脳に到達して、間抜けな声を出す。 …あっちの話? 「どんなセックスしてるか…とかさ。」 「……」 ぶっちゃけ… 体育会系の奴らは、そういう話も公けにしてたけど。 ガッツリ理数系だった俺は、誰ともそんな話をした事はない。 だいたい、何歳で童貞を捨てたとか…そんなの、年齢で勲章でもあるのか? 「した事ないけど、何。」 真顔で答えると、新庄はタバコをくわえたまま。 「今日、昼休みに外に出て帰って来たら、下でミユキちゃんに会った。」 松井の嫁の名前を出した。 ミユキちゃん。 同期の松井ヒデオの妻。 22歳の彼女は、ツンデレ…と言うか。 いつもは笑顔すら見せない氷の表情なのに、酔うと天使になる。 そのギャップに俺はメロメロだ。 きっと新庄も。 だから、新庄の家で開催されるバーベキュー。 まるでシモベのようにこき使われてるヒナちゃんには申し訳ないが、俺はそれが毎回楽しみでたまらない。 いや、これは浮気じゃない。 俺の最愛の妻はユキノだ。 だけど、なんて言うか… 可愛いものは、みんな好きだろ? 「…で?」 ミユキちゃんと、あっちの話…どんな繋がりが? と思って問いかける。 少しだけワクワクしてしまうのは…仕方ない。 許してくれ、ユキノ。 「…ミユキちゃんから、松井にキスだけで骨抜きにされてるって話を聞かされた。」 「………は?」 え?え?ええ? 「松井って、あの松井か?」 「あの松井だよ。松井ヒデオ。歩くオアシスの松井だよ。」 「キスだけで骨抜き…」 「キスだけで失神しそうになるってさ。」 「……」 想像はしたくないが… つい、松井とミユキちゃんのキスシーンが浮かんだ。 見た目、全てにおいて松井がリードしそうなタイプに思われるだろうが、俺は知っている。 松井は、『超』がつくほどの優柔不断男だ。 一緒に昼飯を食べに行っても、AランチかBランチかで悩みまくる。 それで結局誰かと同じものを選んでは…コッソリ後悔している姿を何度も見た。 しかし松井は…その優柔不断を上手く使いこなしている。 『君が好きな方で』『君に選んで欲しい』『君に任せたい』等々… それが功を奏して…なのか? 元々見た目がさわやかな上に、物腰も柔らかい。 よって、女性社員からは『歩くオアシス』だの『気遣いの塊』だの… とにかく、松井の好感度は高い。 「…ミユキちゃん、ああ見えて松井にベタ惚れなんだな。そんな事自慢するなんて…」 松井の顔は黒塗りにして、失神しかけてるミユキちゃんを妄想した。 ああ…可愛いんだろうなあ… って、ごめん…ユキノ。 これは浮気じゃない。 単なる妄想だから。 「…それが…」 新庄は俺達以外誰もいない喫煙室で、不自然なぐらい体を寄せて来て。 「…キスの練習相手に、なってくれって言われた…」 低い声で、しかも…少し自慢も含んだような口調で言った。 「…キスの…練習相手?」 眉間にしわを寄せて、新庄の顔を見ると… 案の定、喜びを隠しきれていない。 キリリとしているつもりだろうが、口元が緩んでいる。 「キス上手になって、松井を見返したいらしい。これは浮気じゃない。練習相手だから。って、念を押された。」 「……」 俺は口を開けたまま、新庄を見つめた。 う…浮気じゃない…? 頭の中からミユキちゃんが消え去った。 キスだけで失神なんて、可愛い所がある…って、ちょっとは思ったが。 見返したいからって…キスの練習相手を頼むか? 自分の旦那の同僚に!! 「浮気だろ。」 「え…えっ?」 険しい顔で言うと、新庄は緩んでた口元を引き攣らせて、背筋を伸ばした。 「それは浮気だ。おまえ、まさかもう…」 「ちっ…違う!!してない!!」 「おまえ、今日帰ってヒナちゃんの顔をちゃんと見れるのか?」 「だから、してないって!!」 「……」 「ほんとーに!!」 これでもかと言うほど否定する新庄を、疑い深い目で凝視する。 一応、同僚であり親友でもあるが… 俺は、どこか調子のいい新庄を、信じられないでいる。 「…本当にしてないんだな?」 念を押すように問いかけると、新庄はぶんぶんと首を縦に振った。 そして… 「なんかさ、ミユキちゃんにそんな話をされて…俺、ヒナコに対して、ちゃんとしてやれてんのかなーって思ったんだ。」 少しだけうなだれた様子で言った。 「…ちゃんとしてやれてる…とは?」 「ミユキちゃん、言ってたよ。松井は労いの言葉や愛の言葉をちゃんと囁いてるってさ。俺、今は子供が欲しいばっかで、ヒナコを労わるような抱き方してなかったかもなー…って反省した。」 「……」 酔ってもいないのに、こういう話をするのは苦手だ。 だが…意外にも新庄が自分のソレを悔い改めている面が見えた気がして。 「…ヒナちゃん、ほんと辛いんだと思うぜ?」 小さく溜息を吐きながら言う。 「ユキノが言ってた。まいってるみたいだ、って。」 「…ああ、言われた。」 「え?いつ…あ、そう言えば、今日会ったんだってな。」 「ああ。釣った魚も餌をやらないと、バケツから出て行くって。」 「……」 「ヒナコは魚じゃねーよって思ったけど、ユキノ…ちゃんの言葉、ちゃんとしっかり受け止めるよ。」 喫煙ルームに誘われた時のソワソワ感はすでにゼロ。 新庄はガックリと肩を落として、結局ポケットから出したタバコも吸わないまま。 俺がそれを見てると、新庄は苦笑いをして。 「なんかさ、俺も…色々しんどいんだわ。」 そう言って、一本…口にした。
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