肩越しの雨音

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この店から一歩でも連れ出されていたら、 どうなったか分からない。 そんなことは知らず、 ウッチーに知らん顔をされたり 怒られたりした小嶋さんは、とうとう不満を訴える。 仕事場で一日の大半を共にして 今では直属の関係だ。 小嶋さんの喜怒哀楽の表情、加減など 対人経験の豊富なウッチーには、 彼女が相当ふくれていることは分かっていた。 ああー、これはダメだ。 感情先行で、場所の都合を考える余地がない。 こういうときは 何を言っても通用しないな。 言い分は二人になって 落ち着かせてから聞くつもりで 帰るよ、と言い、店から連れ出そうとしたけど 取った手を拒否られる。 イヤ、といって振りほどこうとする彼女に 聞き分けのなさ、ワガママを感じて ウッチーはSモードを発動する。 より強くかけた力に 彼女はバランスを崩して よろめいてしまうのを支えようとして 伸ばした手はグラスを倒し 飲み残していた赤ワインはテーブルをこぼれ落ち 床に落ちた彼女のストールへ 吸い込まれていく。 はっとして、いつもの冷静さを取り戻し 感情的になっているのは自分の方だと自覚する。 ごめん、と謝るウッチーに もう嫌……と言いながら 突然涙をこぼしてしまった小嶋さん。 周りが向ける好奇の目と 人前で泣かしたバツの悪さを感じながらも 紅潮する頬と濡れた瞳、 自分に対する純粋な気持ち、 それを伝えようとする震える声が あまりにもいじらしく思えて 動けなくなったらしい。 私が見てきた内野さんは、と言われ ウッチーは初めて 小嶋さんが自分の事を どんな風に見ていたかを知る。 それはただの憧れだけではなく 心配をしていたり 思いやりを向けたものだった。 『内野さんが悪ぶっているのを見るのは辛い、悲しい』 ぽろぽろっとこぼれた気持ちと涙 どうしようもなくなった彼女は それでも強がって向き合おうとする。 それは普段よりもずっと頼りなく、小さく、弱く。 そんな姿に強く揺さぶられる。 正直な気持ちでこの手を引いて 偽りばかりを見せる、そんな俺は嫌だという。 私の知っているあなたは、やさしいひとだという。 その言葉から伝わる深い信頼や愛情に 感情の奥の方で 何かがグッと湧き上がってきて ずっと遠ざかっていたものが この手に戻ってくるような感覚と ようやく目が覚めたような気がした……と語った。 「……片思いだった頃の斉賀がさ、ジュリちゃんの事を『強がって我慢したり、一人で泣くところは見たくない。』って言ってたけど。その気持ちってこんなだったのかなって思った。前の様に激しく燃え上がるような思いじゃないんだけど……彼女の事がとても気になってるのは事実だね」 『前』の様に。 『ユウナ』の時のように。 烈々と紅く感情を弾かせながら 分かり合い、どこまでも二人で 行けるような気さえしていた 激しく焼き焦がされる恋情ではなく 肩に落ちた雨のように いつの間にか降り出した雨音に気付くような 心に波紋を描き出す……思いの雫。 そこからひろがる青さ、その美しさ。 ────いつからそこに。 それはきっと、ながいあいだ…まっていた。 彼女の長い長い恋が 今、ようやくウッチーの心に触れている。 「……そっか。見極められそう?」 私の問いに 瞼を伏せながら、ウッチーは微笑んだ。 「どうだろ…正直、迷ってる。仕事の上司、部下としては年齢差が殆どないようなものだけど…恋愛となるとそれは大きい……いや、俺が言いたいのはそんなことじゃないな。ただ、彼女の思いに決していい加減に答えたくないと思ってる。今こうしてリスクとか考えながら理屈こねまくっているけどさ、俺自身…男と女の始まりは理屈じゃなくて、シンプルに呼び合うものだと思うし。って、ウジウジと……いい歳をした男がさ、なんかダサいよね。」 そう言うと、控えめに笑いながら 手に持った残りのジンライムをすいっと煽った。 「『呼び合うもの』…か。じゃ、物は試しね。小嶋さんのこと、名前で呼んでみてよ。今だけでいいから」 「はぁ?何でだよ」 珍しく気後れたような顔を見せて ウッチーは腕組みを作る。 「いいから、何でもいいから」 「………もーいきなり何だよ………えっと……アリサ?」 『アリサ』、と……戸惑う声で呼ぶ。 呼んだ後の彼を見つめる。 彼の口から発したその声は、 もう一度彼の耳からその体へ戻って 水を打ったように深閑な彼の心の奥に零れていくと きらめきながら一滴、こぼれ落ちて 銀色をした波紋を描いていくようだった。 「……うん。もう一回。今度はウッチーが知ってる、彼女の好きな顔を思い出しながら」 「えっ………アリサ。……って、何だよジュリちゃん、何の診断だよ」 今度は照れたような、とても優しい声。 可愛らしい笑顔に呼び掛けるような、あたたかな声。 私は、私の心の中心にある とても大切にしている思いを語った。 「…ふふ。前にね、コウから聞いたんだ。初めて『ジュリア』って呼んだ時の話の事を。名前を呼んで、自分の声で守りたいって思ったんだって。『俺はお前の味方だ』って声で伝えて私の事を安心させたいって。私も初めて名前を呼ばれた時、ビックリした。ビックリしたけど……すごく嬉しかった。やさしかったんだよ、声が…。ウッチーはさ、小嶋さんのこと…名前で呼んでどんな気持ち?今、彼女の事を思い出してどうかな」 その言葉に ウッチーは頬杖をつき 窓の外へ視線を逸らす。 そして、しばらく考えた後 「ああ、そうだね……社内恋愛はしない主義。……のはずだけどな」 ふわっと、花のように微笑んだ顔に 私は……待っていた何かが 近付いてくるような気がして 「それが答えなんじゃない?」 そう言って笑った。
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