肩越しの雨音

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私の利用する通勤帰宅ルートから 一つ路地を入っていったその奥に、その店はあった。 一台分の車両がやっと通れるような細い路地の表に 小さな長方形の黒板が置かれ、 チョークを使った手書きの文字で 『NEST(ネスト)』という店名と 本日のおすすめメニューが書かれている。 扉は古いランプを模した明かりに照らし出されていて 中に入れば、古い映画の音楽が流れている。 ここへ通うウッチーの話では 日中はランチも営業しているらしいけれど 夜は大人の客層をイメージした雰囲気の 静かなバーにしているようだ。 「へえ……素敵…知らなかったよ、家の近くにこんなお店があったんだ」 店員の案内を受けた窓際の席で 店の家具や照明を見渡しながら 二人のコートをハンガーにかける私に ジュリちゃんなら気に入ると思ったよ、と ウッチーは言った。 「ここね、前はベトナム系の飲食店だったんだよ。ユウナとよく来てたんだけどさ。ある時急に閉店して…それからずっと貸しテナントのままだった。けど去年ようやく新しい、今のオーナーが決まって、内装改修が終わって。先月末にオープンしたんだよね」 「へえ、そうなんだ…」 私は平静な様子で答えながら “ ユウナ ”という名前と、 閉じ込めた二人の思い出を 自然に口にするウッチーの声から 彼の中で大きなけじめがついたことを感じ取った。 渡されたメニューを見て それぞれの飲み物と 前菜と、幾つかの料理を頼んで。 ウッチーは窓の外を見て ふうっと柔らかく息を付きながら、 今夜も寒いよね、と笑った。 今日のウッチーは 本当は休日出勤したかったらしい。 けれど上司であるポンちゃんは 『お前が過労で倒れたり、インフルエンザなんかになったらなぁ、俺が困るんだよ。小川と小嶋に怒られる。あいつらお前のことになると、鬼みたいになるからな』 そう言って。 申請を却下したらしい。 それを聞いて私は ポンちゃんの言いそうなことだねぇ、と笑いながら ウッチーはいつも働き過ぎだもんね、と 日々心配している気持ちを加えつつ 今夜一人で探していた お詫びの品の経緯を聞いた。 「連休前にちょっと色々あってね。いや、俺らが色々あったのは、本当はずっと前からなんだけどね…。それを過ごした今の俺の気持ちを正直に言えば、小嶋の事は可愛いなって思ってる。努力家だし、下手な搾取ができないとことか…素直というか馬鹿というか。仲間として、人として、尊敬できる女だと思ってる。だからしっかり育ててやりたいし、俺が知っていて教えられることは教えてやりたい。小嶋が俺の知らないところで理不尽に傷付いたり、無闇に泣いてほしくないとも思ってる。だけどそれはなんなのか…上司として部下を思いやる気持ちか、それとも男としてなのか…自分の気持ち、その名前を見極め中ってところかな。」 私をまっすぐ見ながら ウッチーは少し照れたような顔で 隠さずに本音を語る。 「小嶋もさ、今が一番良い時だと思うんだよね。アイツの『なり』なら、男受けは充分にあるだろうし。社内、その外でも狙ってる奴は複数いると思う。本人の自覚がないだけで、いつだって愛されるチャンスを掴める。だから仕事を通してずっと俺を追い掛けさせる訳にいかない。追わせてる自覚が俺にある以上、ちゃんとあの子に期限を切ってやらないと、って……んなこと、恥ずかしくて…斉賀には言ってないけどね」 間もなく、飲み物がとどいて 一旦、私たちは乾杯をする。 喉を潤して、ひと心地ついてから ウッチーは今の胸中を偽ることなく 素直に告白していった。 相槌を打ちながら 私は『期限を切る』という言葉に 過去のコウと京香さんの別れを思い出す。 二人の将来の話をすることを望んだ京香さんに 結婚に興味がない、その意志がないことを正直に告げ 彼女と別れ、違う道を歩んだコウ。 当時はとても頑なで、甘えや弱さを一切見せず 全てにおいて自己完結をしていたと聞く。 ウッチーやエリコさんなど ごく親しい人にしか頼らず、 サッカーチームの仲間内や職場では とても厳しく、近寄りがたいイメージだったらしい。 その後、私と出逢い、 あらゆる人間関係や家族のことに変化が訪れる。 そして自らも大きく変わっていき… 自分の人生には無いと思っていた、結婚を選んだ。 自分の心に決めたことを大きく変える そんな岐路を迎えたコウを見て ウッチーなりに思うところがきっとあっただろう。 ………以前、小嶋さんは私に言った。 『内野さんは見せない部分が多過ぎて、近づけない』 それが今、期限だと言いながらも 見せない部分をさらけ出して 彼女に向きあおうとしている。 彼もまた、自分の答えを 真摯に探しているように見えた。 ユウナと分かち合った幸せを まるで無かったことにして忘れるのではなく 身に付きまとう、どうしようもない苦しさを 他の誰かで上書きして誤魔化すのではなく 向き合って、思い出にすることを選んだ。 時間をかけて強くなった彼が いよいよ新しい一歩を踏み出す気配がする。 私にとってそれは 二人が別れを背にして 本当の過去になっていく証であり 心のどこかで二人がまた 笑い合えることを待っていた……私の願いを いよいよ手放す時がきたんだ、と 静かに覚悟した。 素直な言葉で語るウッチーが 彼女に対して誠実でありたいと 思っている気持ちが伝わってくる。 ……ああ、見つけたんだな。 大切にしたいと願える人に また出会えたんだ。 そんなウッチーを見つめながら 私も素直な言葉で語り始めた。
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