第二章 江戸へ

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「江戸到着! いやー、初めて来たぁ」  道中の関所を通り、江戸の街にやって来た。まず、驚いたのはその活気だ。あちらこちらで聞こえる元気な商売人の声、道端に歩いている物売りや物買い、溢れる笑い声に人々の笑顔……。これが、動乱の時代を乗り越え、数えきれない犠牲の上で完成した、平和な時代なのだと、菫は少年のように目を輝かせた。だが。 「思ったより元気がない? そんなことないか」 「とりあえず、旅の疲れもあるでしょうし、湯屋行きましょう!」 「いいの? やったー!」  菫は喜んだが、無辜丸は表情を硬くした。 「……どうした、無辜丸」  菫が無辜丸の無表情ながらも、わかりやすい反応を見て訊いた。 「……湯屋って、風呂?」 「まあ、そうっすね」 「……わしは行かない」 「風呂、嫌いなんすか?」  天次郎の問いに無辜丸は頷いた。 「まあ、行きましょ」  天次郎は無辜丸を抱え、菫と共に湯屋に向かった。 「はぁー、気持ちいい。ちょっと熱いけど」  菫は心底から出したような声を出し、風呂を堪能していた。江戸っ子は熱い湯を好んだため、お湯の温度は推定四十七度とも言われている。体を真っ赤にさせ、「おいおい、今日は湯がぬるいなぁ」と痩せ我慢をする者もいたという。 「無辜さん、そんなへりで嫌がってないで入りましょうよ」  無辜丸は服は脱いだものの、膝を抱え、へりに座っていた。当時、全国的にも湯屋は混浴が普通であった。 「無辜丸、ほら手貸してみ」  無辜丸が菫の手を掴むと、思い切り引っ張りお湯に落とした。無辜丸は飛び上がったが、菫にしっかり手首を掴まれ、出ようにも出られなかった。 「どう? これが風呂よ」 「……早く出たい」 「熱くない?」 「熱くはないが早く出たい」 「もしかして、照れてるんすか?」 「照れるとはなんだ」  風呂の熱さで顔を真っ赤にしながら天次郎と菫を交互に見た。と、菫を見た時無辜丸は飛び跳ねた。裸なのだ。いや、風呂なのだから裸が普通なのだが、風呂の濁りで下半身は見えないものの、上半身は腕で胸を隠している程度で、何しろ肌の露出度が高すぎて無辜丸はサッと顔を菫から背けた。なぜ背を向けなければならぬのか、理由は定かではなかったが。 「暑い。のぼせそうだから出ようか」 「そうっすね」  二人に背を向けながら菫は立ち上がった。 「じゃ、先行くね」  「はいっす」  菫が立ち去るのを見て、「じゃあ、俺らも」と天次郎が無辜丸の手を引き、湯から出ていった。 「意外と引き締まってたっすね。菫さん」 「……あ、そう」  よく見てなかった無辜丸は抑揚なくそう答えた。  買い物や食事などの雑事をこなし、天次郎の案内で江戸の町を回ったのだが、菫はどうしても気になることがあった。飯屋で聞いたことなのだが、最近物の怪の類の仕業だという事件が頻繁に起こっているらしい。無辜丸によれば物の怪で間違いないとのことだ。 「無辜さんはどうしてそう思うんすか? 物の怪の類だって」  天次郎にそう問われ、無辜丸はいつも通り抑揚のない声で呟くように言った。 「妖気だ。この町に入ってきた時少し感じていたんだけど、一際強い妖気がある。それも、かなり厄介な物の怪だ」  菫は頷くも、天次郎は訳も分からない様子で無辜丸と菫の顔を交互に見た。菫はそんな天次郎を見て、ああ、と説明していないことを思い出した。 「無辜丸は鬼の子なの。鬼の子を食べると力が強くなるっていう噂があるらしくてね、妖魔が寄ってくるんだって」  天次郎は無辜丸の顔を見、触り色々いじったものの、どう見ても人間にしか見えなかった。 「本当なんですかい?」 「本当だ。触ってみろ」  無辜丸は断魔を天次郎に差し出した。天次郎は右手で断魔に触ると、身が飛び散るような感覚に襲われ、跳ねるように後ろに下がった。呼吸は荒れ、目の前にいる少年が鬼の子だということを半分疑いながらも、半分どこかで理解出来た。 「は、ははは。なるほど。俺は鬼に喧嘩を売った訳だ」  天次郎は虚無感と恐怖に似た類の笑いが込み上げた。手を地に付けている天次郎の顔を、無辜丸は覗き込んだ。 「信じて、くれるか?」  無辜丸は、悲しそうな声で天次郎に尋ねた。菫は聞いたことのない無辜丸のその声に、少し驚いた。  天次郎はバッといきなり立ちあがると、無辜丸の手を握った。 「まさか、まさか鬼に剣術を教わることができるとは。ちょうど人間には少々飽いていたところでさ」  天次郎は胸が高まったような笑顔で無辜丸を見つめた。 「……馬鹿で良かった」 「え? なんです?」 「なんでもない」 「それで、どこからその妖気が出てるんです?」  無辜丸は江戸の地名など全く知らないので、指を指した。 「あっち」 「え? あっちっすか?」  天次郎は呆けた顔でその方角に目を向けた。 「何があるの」  菫も気になって天次郎に尋ねた。 「吉原。遊郭っす」  無辜丸は首を傾げ、菫はどんな顔をしていいのか分からず、無表情でいた。
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