危険ないざない

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危険ないざない

『別れよう』  それはまるで、水面に投げ入れられた石ころのようなものだった。静かな波紋を楓の胸に生み出した。  付き合っている恋人からそんなメールを受け取ったのは、自分のデスクで請求書をまとめているときのことだった。控えめに振動したスマートフォンに何気なく目をやった際、画面に表示されていたそのメッセージが視界に飛び込んできた。  どうしてこんな時間に。  人の多いオフィスは、キーボードを叩く音や書類をめくる音、相談の声……業務中のさまざまな音で満ちている。時刻は平日の午後三時。一般的な勤め人は仕事中である。  楓自身、昼休憩を済ませて午後の業務につき、心地よい集中に包まれながら取引先への請求を捌いていたところだった。  そこへ投じられた石は、じわじわと大きな波紋となって広がり、平坦だった心に容易く乱れを生じさせた。  互いに会社にいると分かっていて、こんなメールをよこすなんて。  たまらず立ち上がった楓はそのまま女子トイレに駆け込んだ。個室の鍵をかけると気が抜けて、肺に溜まっていた重い空気が自然と口からあふれ出る。途端に瞳から涙がこぼれてきた。 「え……どうして……」  ポケットを探るが、席に置き忘れてきたのかハンカチはない。仕方なく備え付けの紙に手を伸ばした。そこではっとする。トイレットペーパーを引き出す指先が震えている。泣くほどショックを受けている自分に動揺していた。  彼氏とはいわゆる倦怠期で、半年くらい微妙な空気が続いていた。連絡も徐々に途絶えがちになり、そろそろ自然消滅かとは感じていたのだ。愛着だって消えかけていたし、別れることそのものを悲しいとは全く思わない。  ただ、いつからか自分は、仕事中の片手間のメールで切り捨てられるくらい軽い存在になっていたんだという現実が、驚くほど胸に刺さった。  私は誰からも必要とされてないんじゃないかしら。  そんな思考が急に頭をもたげてきて猛烈な孤独感に苛まれる。じわじわとにじみ出るような涙がしばらく止まらなかった。
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