囚われる

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囚われる

 夢中でキーボードを叩いていた楓は、同僚に声をかけられて我に返った。 「天羽さん、もうしばらくかかる? 俺も帰るから最後になるけど」  いつの間にか自分の周囲を残してオフィスの照明が落とされている。バッグを手にした藤崎が楓のデスクを覗き込んでいた。 「あ、はい。最後は私がやっておきますので、先に帰って大丈夫ですよ」 「そう。あんまり遅くならないといいね」  彼の姿がオフィスから消えたのを確認すると、口から思わず溜息が出た。時刻は夜の八時過ぎ。今夜はみんな早くに上がっていったようだ。  最後に残っていた藤崎も、少し洒落たストライプのスーツにネクタイを身に着けていた。そんな服装のときは決まってデートの予定がある。なぜ分かるのかといえば、楓の元彼が藤崎だからにほかならない。職場恋愛だったのだ。そして別れから一ヶ月ほどのうちに、向こうにはもうデートするような相手がいる。  一人のオフィスが途端に殺風景に思えてきた。ここ二、三年だろうか、自分だけが世間に取り残されているような寂寥感をときどき感じるようになったのは。仕事は順調だし、周りからの信頼は厚い。友人だって人並みにはいる。なのに、この胸には空虚さが巣食っている。  どれだけ人に囲まれても――むしろ多くの人に囲まれるほど、みんなに好かれているのは自分ではないという思いが強まっていた。己の言動が自分のものではないように感じる。こんなことを言っては嫌われてしまうのではないか。こうしなければ失望されるのではないか。そんな思考でがんじ絡めになっていることをいつしか自覚するようになっていた。表向きの楓はそれらによって作られた仮そめの姿だ。本当の自分はその内側で、いつラインを逸脱してしまうかとひどく怯えている。今ではそこに結婚への圧力も加わっていた。
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