ぼやけるライン

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ぼやけるライン

 数日間東京に滞在していた母が地元に帰ってしばらくした頃、関東の梅雨明けが宣言された。清々しい晴天となった週末は、本格的な夏の訪れを告げる熱い日差しが降り注いでいた。  高層ビルの狭間にのぞく快晴の空を見上げ、楓は顔をしかめる。額には汗が滲んでいた。 「なんでこんな暑い日に春名くんと外出しないといけないの?」  答える人はいない。待ち合わせの時間まではあと十分もあった。都心の駅前はアスファルトが熱を溜め込んで、昼になるとじっとしていても蒸されているような息苦しさがあった。  こんなに気温が上がるのならカフェで落ち合うことにすればよかった。誘われたときは、そこまで頭が回らなかったのだ。  和之が突然休日の予定を聞いてきたのは、二人で手分けして会議室を片付けていたときのことだった。 「楓さん、次の土曜日空いてますか」 「空いてるけど……なにかあるの?」 「あれ、お母さんから聞いていませんか?」  ごく自然に母を「お母さん」と呼ばれて楓は頭を抱えたくなった。 「……聞いてるわよ。春名くんに誕生日プレゼント買ってもらいなさいって。誕生日教えておいたからって。本当にお母さんと連絡とりあってるの?」 「とってますよ?」  平然と返されて、こちらが言葉に詰まる。 「なんで……春名くんがそこまでするのよ」  先日からこの問いがずっと胸中で燻っている。  眉を寄せる楓を和之は穏やかな瞳で見つめていた。  その眼差しに温もりのようなものを見つけてしまうたび、もどかしい気持ちになる。いや、くすぐったい、と言ったほうが近いのかもしれない。  彼はいつの間にこんな温かい表情をするようになったのだろう。腹の底の見えない判で押した微笑と、常に感情の伴わないドライな態度が彼のトレードマークだったはずだ。だが今はそれらが鳴りを潜め、代わりに柔らかい空気をまとっていた。  話しかける声は徐々に親しみをかもすようになり、楓の胸をしきりにざわつかせる。これでは、いつまでも警戒を解かない意固地な自分がまるで聞き分けのない子供のようだ。
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