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「すごい、器が大きい人だな」  潤の話を聞いた颯真は、感嘆した。  正直そこまで寄り添ってもらえるとは思っても見なかった。しかし、大西からすると、本能には抗えない、兄弟の絆とタブーのなかで苦悩を重ねた颯真の苦しみは想像するに辛いということのようだった。番がいるアルファは、おそらく濃淡はあっても同じような感覚に襲われることがあるのだろうと思う。同性だからこそ、分かりあう感覚。 「うん……。大西さんのその言葉で、ベータの部下の目が変わったよ」  広報部長の香田のことだ。その変化を潤も見逃さなかった。  それまでは潤に対してどのような対応をすればいいのか戸惑い、迷っている様子だったが、大西の言葉は彼の中の何かを変えたのだろう。  香田は、潤に対して、大丈夫ですと大きく頷いたのだ。 「おそらくだけど、ベータには理解が追いつかない感覚を、言語化してくれたんだと思うな」  颯真が分析する。 「はっきり言うアルファの部下がいるっていうのは、お前にとって財産だし、良好な関係性を築けているのは大きいと思う。長い目で見ると、アルファ・オメガ領域に特化する森生メディカルの強みにもなるな」  颯真の言葉に潤も頷く。  感謝だけじゃ足りないなと思う。  これからも、年長者の幹部である大西と飯田の言葉は重く用いるべきだし、その判断を頼りにしていきたいと思った。 「ところで、颯真は大丈夫なの?」  潤の疑問に颯真が問いかえす。 「俺の職場か?」  うん、と潤も頷く。全く大丈夫ではないとは思うのだが、颯真は落ち着いている。  まだ連絡はしていないんだけど、と言い添えて颯真は少し考える。 「うちの職場もベータが多い」  アルファ・オメガ科の専門医はベータが多数派だ。発情期のオメガを診るのは身体的肉体的にきついためだが、ナースや薬剤師といったコメディカル職もそうだ。とくに女性のベータが多い。 「でも、一般のベータの人よりは理解があると思うんだよな」  その言葉に少し安堵する。 「そうか。医療従事者だもんね。  これまでアルファとオメガが本能に翻弄される様をかなり見てきているものね」  潤は少し安堵した。 「職場はそんなにだと思うんだけど……」 「だけど?」  颯真は首を捻る。 「患者さんがどう思うかなっていうのは、ちょっと……いや、こちらの方が気になってるかな」   「弟を番にした道徳的にも問題があるドクターの診察なんて受けられない、って思うかもしれないってこと?」  潤の問いかけに颯真は頷く。 「そう。どう思うかは人それぞれだし、それを理由にして主治医を換えてほしいと言われても仕方がないしな。どのくらい広まるかだと思うけど、こんなケースもゼロではないだろうなとは思ってる。  ……あとは上の反応だな」   「上……?」 「そう、上司っていうか経営層。きっと記事は良い印象に書かれることはないだろうし、病院としての評判を心配されそうだなって思ってる」  颯真の懸念はもっともだ。自分とは逆で、現場から遠ければ遠いほど、理解が遠のくのではないかと潤は思う。心配になり、颯真を見つめたが、颯真自身は、お前が心配するほどじゃないよと言った。 「え、なんで」  その言葉に潤は疑問を差し込む。たしかに自分でどうにかできることでもないし、どうにもならないのだが。 「颯真だって大変じゃん」  潤の言葉に、颯真は少し考える。 「んー。なんかさ、自分でも落ち着いていると思うんだけど……」  確かに颯真は落ち着いている。自分の狼狽を宥めてくれるほどに。潤には少し不思議だった。   「俺はお前を手に入れることで失うものに未練はないんだと思うんだ」  その言葉に潤は驚いて颯真を見るが、彼は変わらず穏やかで落ち着いている。  皐月会でも言っていた。いざという時に全てを捨てる覚悟もあるということ。その気持ちを変わらず持ち続けているという現れなのかもしれない。  潤は改めて颯真の気持ちの強さを実感する。アルファとはそういう性なのだろう。だけど、今の職や地位や立場は、颯真が絶え間なく努力を重ねて積み上げ、登り詰めたもの。  そう、アルファが努力をしていないはずがないのだ。    潤は不意に首を横に振る。 「だめだよ、颯真」  颯真を見据えた。 「僕の願いは、颯真の人生が全てにおいて前向きで満たされたものであってほしいということだ。  僕が颯真の人生の全てに関われるわけじゃない。僕が関われない部分も、颯真には颯爽と前を向いて、力強く歩いてほしい」    颯真が今築いている立場や身分は、簡単に侵されて良いものではない、という確信が潤にはある。  しかし、颯真は、潤のためならこれまでの地位も立場も努力の成果も、すべてを簡単に手放してもよいと思っていると言っているのだ。  もしかしたら執着を持たないようにしているのかも、と考えが及ぶ。  そんなことはダメだ。  確固たる信念で、潤は運転席の颯真を見据える。 「簡単に諦めないでね。僕は、颯真が充実した毎日を送ることが、何より守りたいものだ」  潤の真剣な表情を見て、颯真が目を細める。そしてしっかり頷く。 「わかってる。もちろんこんな方法で奪われることには納得がいかない。俺ももちろん足掻くさ。そんな心配そうな顔をするな」  そう言って、潤の手を握った。
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