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 最近、自分の感情を持て余している、と潤は感じている。  江上の一挙一動が気になって仕方がないのに、その感情が何なのか判断がつかない。たしかに、江上は潤よりもはるかに背が高く、周りにいると視界に入りやすい。しかし、目に付くというより気になるのだ。  さらに、こうして職務とはいえ潤の体調を気にかけ、世話をやいてくれる。気持ちばかりが逸って、ときどきする。時にどうしようとさえ思う。そして、その感情を江上に知られらたくない。  江上はアルファだ。これは恋なのだろうか。自分のわずかに存在するオメガの部分が、反応しているのかと思ったが、十代の半ばから二十年近く付き合っていて、恋愛感情であるまいと秒速で否定した。中学時代からの腐れ縁の友人を、今更恋愛対象などとしては見られない。  しかし、江上に触れられると胸が高鳴り、彼に触れるととても嬉しくなる。  この感情は、恋ではなかったら、なんなのだろう。  その江上の説得により、潤が乗った黒塗りのレクサスが向かったのは、横浜みなとみらいにある、誠心医科大学横浜病院。都内にある私立大学、誠心医科大学の系列病院だ。  東京にある誠心医科大学はアルファ・オメガ領域でトップをひた走る病院だ。その分院である横浜病院も同じであった。  潤はこの病院に大学生の時から通院している。アルファ・オメガ科が設置されており、オメガの潤は、ここで抑制剤を処方してもらっているのだ。それは、潤の双子の兄である颯真が、アルファ・オメガ科の医師として勤務しているためだ。  潤と江上がこの病院のエントランスに降り立ったのは、完全に日が暮れた時刻。もちろん外来診療はとっくに終了している。  江上に伴われて、院内に脚を踏み入れると、薄暗いロビーにふわりと浮かぶように灯された受付カウンター。そこで名乗ると、そのまま一室だけ明かりが灯された診察室に案内された。江上の連絡ですべての手はずが整っているらしい。 「私はここでお待ちしています」  診察室のドアの前でそう江上に言われ、潤も頷く。  ノックしてからスライドドアを開けた。 「潤、お疲れ様」  目の前のデスクに座っているワイシャツに白衣姿の男は、潤にとっては馴染みの顔。生まれた時からの片割れで、双子の兄の颯真だ。  颯真と潤は二卵性双生児だ。そのため、双子なのにほとんど似ていない。アルファの颯真は美丈夫と賞されるが、オメガの潤は中性的といわれる。兄に比べてかなり見劣りもするのだろう。その性差が、ふたりの明暗を分けたのだと潤は時折思う。  それでも潤にとって颯真はずっと一緒に生きてきた大事な兄。他人からいくら比較されても、潤には安らげる唯一の存在だ。 「颯真……」  兄の顔を見て思わず吐息が漏れるように、名前を呼んだ。一緒に住んでいるため、朝にも挨拶したばかりなのに。よほど神経を切り詰めて一日を過ごしてきたのだと、潤自身が思ってしまう。 「江上から連絡を貰って驚いた。具合はどうだ?」  同じアルファであるせいか、江上は潤以上に颯真と仲が良い。 「うん……」  答えになっていないのかなと疑問が脳裏を過ぎる。すると颯真が質問を変えて聞いてくる。 「体調が良くなさそうだと聞いた」  やはり江上はよく見ていると潤は思う。このアルファ二人に自分が叶うわけがない。素直に頷いた。 「少し怠い。あと、なんか臭う……」 「お前ね……、自分の香りを臭うとか言うんじゃないよ」  颯真が呆れたような声を上げる。香るというのは、オメガである潤が放つフェロモンの香りのことを指す。  自分がオメガと判明してからしばらくして、潤の身体にも僅かにアルファが反応するフェロモンの香りが漂い始めた。颯真はよくそれをレモングラスのような爽快ないい香りだと表現するが、潤本人からすれば「臭い」以外のなにものでもない。  颯真が潤の首筋に顔を近づける。 「うん。確かに少し香るな。朝に比べても」  スーツの上から臭うのだから、かなり漂っているにちがいない。  潤は十代で初めての発情期に遭遇して以降、本格的な発情期を経験していない。さらに生まれて初めて経験した発情期もほとんど記憶にも残っていない有様だ。  大学に進学して間もない頃から仕事を始めたため、フェロモンを完璧にコントロールして、ベータと同じような生活サイクルを作らねばならなかったためだ。  その頃から、他よりも強い抑制剤を服用し、完璧にオメガ性としての本能を抑えてきた。現在も毎日颯真に抑制剤を打ってもらい、完璧にフェロモンの香りを抑えている。  しかし、最近になって、少しずつ自分の匂いを感じることが増えてきたような気がする。もちろん、三ヶ月に一度定期的にやってくる発情期前や発情期中は完璧に抑えきれず、わずかに感じることが頻繁にあった。しかしあくまで発情期の前後に限ったこと。最近はたびたびそれを感じるのだ。  潤にとって、オメガとしての香りを自覚するのはとても不快だ。だからこそ自分の発情期の周期をちゃんと把握している。  ここ最近の香る感じは、明らかにこれまでと違うサイクルのもので、不安が拭えない。  颯真は潤の身体を軽く診察する。熱があり心拍数も平常より少し高いようだ。 「おかしいね。少し発情症状が出てきているなあ。周期はもう少し先のはずなんだけど……」  颯真は首を傾げる。そして、脇に設置されているベッドを指さす。 「潤、このベッドに下着を脱いで寝てくれる?」 「え」  さらりと言われた言葉に動揺して、思わず聞き返してしまう。しかし颯真は冷静だ。 「発情期前にやってる触診だよ。患部の状態を診させて」  男性のオメガが発情期になって大きく身体が変化するのは、アルファの熱を受け止める部分だ。通常は排泄器官として機能している部分で、その奥の直腸にオメガのフェロモン作用により、吐精を受け止める器官が出現する。当然発情期には、筋肉が通常よりも弛緩して柔らかくなり、アルファの根を受け入れやすく身体が変化するのだ。  そのため、男性オメガの発情期の診断は、アナルの触診によって確定されるらしい。潤もそれを知識としては知っている。  毎回、発情期前後になると颯真に触診されるのも恒例だ。ただ、今日は気持ちの準備が出来ておらず、本音が漏れた。それくらい潤にとって、双子の兄に診られるのは勇気の要ることだ。いや、双子の兄だからこそ受けられるのであって、他の医師では絶対に無理だと思っている。 「うー」  少し抗議の声を上げながらも、それでも颯真に逆らうことはできない。立ち上がって、ジャケットを脱いでスラックスと下着を取る。  言われたとおりに寝台に横になると、颯真が心許ない下半身に大きなバスタオルをかけてくれた。  わざわざ横になっている潤と同じ目線の高さまで腰を落として、潤に語りかける。 「大丈夫。バスタオルで隠したままでいいから膝立てて。……うんそう。それで、少し開いてくれる?」  優しく誘導し、受診体勢を持っていく。  潤も、恐る恐るその優しい声に従う。 「すぐ終わるから動かないでね」  颯真が潤の足許に移動する。しかし、よほど顔がこわばっていたのだろう。 「じゅーん。緊張しないで大丈夫だよ」  バスタオルの上から、潤の脚に手を添える。いつもの兄の顔に、少し安堵感を覚えて気持ちが落ち着く。 「すぐ終わるから。深呼吸して。すーっと息を吸って」  その言葉に素直に従う。 「そして吐いてー」  少しオーバージェスチャーで颯真が緊張を取り除いてくれる。大きく深呼吸を繰り返し、緊張は相変わらずだが、気構えが出来た。  その様子に颯真が笑んでくれた。 「ちょっと違和感があるよ」  バスタオルをたくし上げられて、その場所が空気に晒された。思わず潤は強く目を瞑る。  颯真の指が、潤のその場所に容赦なくぐいっと入り込んできた。うっと思わず呻く。身体が強ばった。 「痛かったね。ごめん」 「だっ…だいじょぶ」  颯真の声が下半身の方からする。早く終わって欲しいと強く目を閉じてひたすら祈る。ふわりと鼻につく自分の匂いが不快だ。  颯真の指はすばやく潤の中をぐるりと触ってから何度か行き来して、出て行った。 「はい、終わったよ」  ほんの数秒の出来事。バスタオルを元にもどして身支度を調えるように言う。  下着とスラックスを再び身に着け、背広のジャケットを羽織って、颯真の前に再び座ると、ぱちぱちと目の前のPCに何かを打ち込んでいた颯真が、顎に手を添えて潤を見た。 「抑制剤の副作用かもね」  意外な見解に、潤もはてと思う。  抑制剤とは、オメガが己のフェロモンを抑えるために服用する薬剤だ。フェロモンを日常的に管理することで、三ヶ月に一度とされる発情期そのものを抑えたり、軽減したりすることもできる。オメガはとかく身体をフェロモンに支配されがちだが、それをコントロールすることでベータと変わりない日常を送ることができるところまで可能だ。  潤は経営者としての責務を果たすため、颯真に頼んでかなり強いフェロモン抑制剤を打つこともある。経営判断というのは毎日不意に結構な頻度で求められるので、発情期前だからといってぼんやりしていると、社員を路頭に迷わせかねないのだ。番を得てしまえば、フェロモンはその番にしか効かなくなるし、抑制剤を飲む必要もないし、体調もコントロールしやすくなるという。しかし、潤にとって自分が誰かに抱かれる立場であるということさえ受け入れがたい事実であるため、番を持つ選択などもってのほかだ。  潤には、抑制剤はフェロモンをコントロールして発情期を軽減させる薬剤という認識がある。なにをどう間違えば、副作用では発情が促進されるのか。わけが分からない。 「かなり強い抑制剤を使ってるし、ちゃんと検診も来てもらってるけど、完全に発情期を抑えて何年になる? 多分十年くらいになるよな」  たしかに。 「周期を安定化させるために、そろそろ一度、本格的な発情期を越えたほうがいいかもな」  颯真の言葉に無意識に身体が強ばった。  本格的な発情期って?  潤が初めての発情期を経験したのは高校時代で、休日の昼間に突然見舞われた。身体から徐々にこの忌々しい香りが立ち上り、一緒にいた颯真と江上にとっさに庇われた。颯真は双子だから潤のフェロモンに惑わされなかった。江上もちょうど身体に合うヒート抑制剤を飲んでいる最中で、潤の香りには惹かれなかった。結果、潤はふたりに匿われる形で病院に連れて行かれ、緊急抑制剤を投与された。その後は、自室で一週間匿われたが、颯真曰く、そのときはひたすら自分を慰める行為に没頭していたらしく、潤にはその間の記憶が殆ど残っていない。  自分の行動の記憶が一週間抜けていることに愕然とした。そのとき自分がなにをしていたのかという記憶がまないというのは恐怖だ。  発情期なんて、不安しかない。 「そのときはちゃんと俺が管理してやるから。そんなに怖がらなくても大丈夫だぞ」  あまりに不安そうな表情を浮かべていたのだろう。颯真が気がついてフォローを入れる。今や病院の施設には、オメガが安心して発情期を越えられる特別な病室もあるという。そこで医師が抑制剤でコントロールしながら、個々のオメガに無理のない形で発情期を越えることも可能だと聞いている。  颯真は腕のいいアルファ・オメガ科の医師だと潤も知っている。  それでも怖いものは怖い。 「発情期を抜ける一週間は付き合ってやるから」  颯真の言葉に曖昧に笑った。情けない。同じ双子なのに、颯真は頼もしい。それに対して自分は……と自己嫌悪に陥りそうになるのだ。それを阻んだのが、解けた緊張によって急激に襲われた睡魔。  急速に重たくなってきた瞼に、颯真の声が潤の耳を触っては抜けていく。 「休んでいくか?」  潤も少し考えるが、頭は働いていない。 「うん……。すこ…し眠い」  颯真が先程のベッドに潤を誘導する。潤もそれに素直に従う。ジャケットを脱いで横になると、颯真がタオルケットをかけてくれた。 「少し寝て、起きたら一緒に帰ろう」  その言葉に半分夢の中に落ちかけながら、辛うじて潤は頷いたのだった。  
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