ep.1

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ep.1

 オフィスに伝う内線のコール音ののち、水瀬くん、と誰かが呼ぶ声に、私はびくりと肩を揺らした。  なんてことはない。ただの呼びかけじゃないか。そう確かに思っているのに、私の身体というのは、自分で思っているよりもずいぶんと素直にできているらしい。  平静を装ったキーボードを打つ手はそのままに、デスク上に並ぶパソコンや筆記具、ファイルの隙間から、水瀬くんを恨めしい気持ちで覗き見る。少し離れたデスクに座る元凶は、涼しい顔で電話口に出ていた。 「ずいぶん挙動不審じゃない?」 「きゃあ!」  突然背後から左耳に囁かれ、私はまたもや飛び上がった。声の先には、人事部配属の同期、三枝(さえぐさ)マキノの怪訝な顔が待っていた。 「やっぱり変じゃん。どうしたの」 「いやいや……こんなの誰でも驚くわよ」  いちいち無駄に鋭いマキノの追求を適当にごまかしつつ、じとりとした視線から逃れるようにパソコンへと向き直る。けれどなにも味方してくれそうもない今日を象徴するかのように簡素なチャイムが空気を揺らし、嗄れた音が昼休憩の開始を控えめに告げた。  万事休す。私は観念とばかりにキーボードを打つ手を止めた。  顔を向けなくても、にやりと口許を歪めるマキノの顔が目に浮かぶ。  私は心中で白旗を上げながら、ずんと重い腰を椅子から持ち上げた。
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