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すると黙って話を聞いていた牧師が、静かに問いかけた。
「君には答えがわかっているだろう」
「…俺にはわからん」
「心の奥に隠れているからだよ。…ここを訪れる半数くらいの人々は、私に話そうとした時点で求めている答えが決まっているものだ。決まっているということは、迷いの根源を理解しているということ。つまり迷える人々は、その悩みをどう対処すべきか、あるいはどうしてそうなったかをすでに自覚しているということだな」
「…うちのジジイと似たようなことを言うな」
「はは、そうだろ。こんな服を着てたって、アドバイスすることはだいたいの人々が思うことと同じさ」
「しかしなあ…」
「ではひとつ明確な答えをあげよう。…彼はもうどこにもいない」
その言葉がするどく胸に刺さり、仏頂面のハルヒコは眉だけをぴくりと動かした。そしてそれは牧師の言うとおり、心の奥底でとうにわかっていたことだった。
「…もうひとつ聞くかい」
無言でうなずく。
「彼との別れは必ず訪れるべきものであった」
「……」
「彼なりの恩はすべて返したのだろう。つまり君は彼の与える愛をすべて受け取ったということだ」
無言のまま背を丸めてうなだれ、片足を小さく揺する。
「…あいつは悪魔に喰われたのか?」
「それも君の心が知っている。いま君をとりまくあらゆるものが、君の心にどんな影響を与えているか。たとえばこの1週間をふりかえって、尚も災難が続き、毎日無意味に苛立ち、気の休まる暇もない日々を過ごしていたのなら、悪魔はその子を喰らったかもしれない」
「…面白くはないが、さしていやな日々ではなかったはずだ」
「それなら彼はただ消えただけなのだろう。…あるいは彼の方が悪魔を喰らったのかもしれないな」
「もう二度と会うことはないのか」
「どこへ消え去ったかは神のみぞ知る領域だが、君のいうとおり本当にお地蔵様だったとしたなら、彼は仏様にお仕えする御身であられる方なのだろう。人々を見守りはすれど、本来は我々が易々とお目にかかってはならないお方だ。…つまり元の関係に戻ったのだと考えればいい」
「俺は奴に何もしちゃいない。…これでは割りに合わない」
「…いや。君は彼を暗闇のトンネルから光へと導いた。悪ふざけの延長だったのだろうが、君が彼を救ったのは確かだ」
親指で下まぶたを力強くぬぐい、かすれた声で「白丸」とつぶやく。
白丸は、最後の夢を完全に消すことはできなかった。覚えていてほしくはなかったが、あの中では仕方のないことだった。
「あなたは親御さんとの今生の別れを心に決めている。私はその決別を、今すぐに説き伏せられることはできない根の深いものだと理解している。…別れは必然だ。いい別れも悪い別れも、あるいは出会いも、さまざまな形で縁というものはある。…いつまでも悲しんではいけないよ」
そう言うとハルヒコの肩をさすり、スーツの内ポケットに忍ばせていたあるものをそっと手渡した。
「…これは」
「このあいだ折れたものを返してくれただろう。だから新しいものを。持ち歩かず、あの家のどこかに置いておけばいい」
「あいつも俺も信心などかけらもない」
「それでもいい」
「……」
以前飯田に渡されたものと同じ木製の十字架を受け取る。なんの変哲もない十字形の木だ。だが身が詰まったように硬く重みがあり、次こそはもう多少の災いでは割れないように思えた。
「そろそろ晩餐の準備が始まるぞ。皆のところへ行こう」
促す牧師の後に続き外に出ると、外は冷たい木枯らしが吹き、まもなく日が落ちようとしていた。牧師は調理場へ向かうといい、ハルヒコはあまり気が進まないながらもパーティー会場である集会所へ向かった。派手なイルミネーションはないが、ほんの少しだけライトアップされた園庭や、つましやかな手作りの飾り付けの貧しさが、正しい清らかさを感じさせる。島の実家でも伯父たちからのプレゼントがあったり、エミたちの要望によってケーキくらいは出されていたが、どこもかしこもクリスマス一色というのを味わうのは記憶もおぼろげな幼いころ以来だ。集会所からは子供たちと高鷹たちのにぎやかな声が響き、自分には縁遠い幸せに包まれた彼らがあたたかなクリスマスを祝っている。
ー「ハルヒコ」
天音がその姿を見つけるなり、行きかけた廊下を戻ってきた。手にはいくつものペットボトルが入った重い保冷バッグを提げている。
「どこにいたの?もうすぐ七面鳥焼けるって。初めて見たよ、まるごとのやつ」
「ケンタッキーは?」
「ケンタッキーも来るよ。いま耀介とゴローが店に受け取りに行ってる。子供たちが食べたがるからだってさ」
「そうか。俺は1度あのでかいバケツのやつを食いたかったんだ。CMでは流れるのに島にはないからな」
「ああ…だからか」
するとハルヒコがおもむろにポケットから十字架を出し、先端を天音の胸に突き立てた。
「ジェームスブラウンがくれたぞ」
「牧師さん?」
「信じなくてもいいから、家に置いとけとのことだ」
「…そう。ずっと心配してくれてたんだね。あとでお礼言わないと」
「こんなものを置いたところで、ハナから悪魔などこの世にはいない」
「だといいね」
「…それはそうと、芳賀が寮を出るのはお前のせいか?」
「…なに急に。聞いたの?」
「昨日サラから」
「はー、重い」
「貸せ」
保冷バッグをハルヒコに渡し、天音はゆっくりと歩き出した。
「芳賀くんに限ったことじゃない。冬休みに入ったら3年生は半数以上いなくなるよ。去年もそうだった。もう授業もほとんどないから寮にいても仕方ないしね。…予備校も地元の分校に移すってさ。芳賀くんが僕のことを気にしてるのかは知らないけど、もともとそのつもりってのは前々から聞いてたよ」
「なんだ、じゃあ寮を去ることにお前は関係ないな」
「この時期に受験以外のことなんか考えてないだろ」
「そうとは思わん。寮を出ることは無関係だがお前のことは気に入っている」
「…まだ怒ってる?」
「怒ろうと思えばいつでも怒れるがもう蒸し返すつもりはない」
「思いっきり蒸し返してるじゃん」
「あいつとはもう何もないと言いながら、あいつと話すときの距離がいやに近いことが気になってな」
「そりゃあ身体を知ると自然にそうなる。無意識にね」
「……」
「でも芳賀くんは未練がましい人じゃない。きれいさっぱりあの日のことは無いものにしてくれてる。だから何事もなかったかのようにああやって話せるんだよ。…とは言え君に対して彼の気持ちを示しようがないから、信じてとしか言えないけど」
「奴が将来順当にエリート街道を突き進み、若くしてそれなりの財を築き、なおかつお前好みの男になってお前を迎えに来たら?」
「映画の見過ぎ」
「あいつはお前のためなら何だってしそうだ」
「あれは芳賀くんにも気の迷いだよ。…君が好きでいてくれる限りは、僕は君のもとにいる」
「……」
「あ、照れてる」
ニヤリと笑い、ハルヒコのひたいを指でつつく。
「もうこの話は終わり。それよりクリスマスはデートでもしようか。車も見たいし」
「…お前は本当に能天気な男だな」
「深く考えない主義だから」
「なにが主義だ。その調子でまた浮気したら許さんぞ」
「もうしないー」
「天音」
「……。なに?」
「俺はお前のことを…」
「……」
「いずれミイラにしようと思ってる」
「何べん言うんだ」
「それくらいには好きだ」
「…な」
「これまで出会った人間の中で、誰よりもいちばんお前が好きだ」
「……」
「赤くなってるぞ」
今度は天音の頬を指でつつき返し、ハルヒコはさっさと子供たちの待つ部屋へ歩いて行った。彼がおそらく人生で初めて他人に放った「好き」という言葉。天音はあっけにとられてその場に立ち尽くし、まるではりつけにされて焼かれる魔女のように、身体中が熱くほてって服の中が蒸れていくのを感じた。
彼は春とはまるで違う男になってしまった。みんなにとっては変わらないけれど、「身体を知った」自分だけに見える変化だ。
大人になんてなりたくないけれど、自分たちはもう青春の群像劇に入り込むことはできない。けれど次はその中から見つけ出した特別な誰かと、終わらぬ春を謳歌する時代が訪れたのだ。
左の手のひらの真ん中、ボールペンの印があったところをじっと見つめる。怒り虫は寄生虫のごとくまた新たに生まれてしまっただろうか。それともまじないの効力が続き、この手の中にはもう何もないのだろうか。これからは感情に左右されず平穏を心がけ、悪魔につけ入る隙を与えぬよう、飯田の言ったとおりに清く正しくポジティブに生きるのだ。そうすればきっと怒り虫だって息を吹き返すことはないはずだ。
ー"After that・・・"
内容などほとんど覚えていないのに、あのラストシーンだけがなぜだか頭の片隅にこびりついている。悪魔が本当にいたとしたら、きっとあんなふうに何食わぬ顔で、すぐ近くからこちらを見ているに違いない。
"my guess is that you will never hear from him again"
誰も気に留めず、誰の意識の中にも入らない。しかし彼は往来の中にいて、横断歩道ですれ違い、混雑したカフェで隣り合い、エレベーターで背後に立ち、いつもつかずはなれずで影のようにつきまとっている。
"・・・The greatest trick the devil ever pulled was convincing the world he did not exist"
ずっと見つめていたせいか、手のひらがむずむずと疼き出す。するとそこに1匹の雪虫がひとひらの粉雪のように舞い降りた。真っ白な綿毛に包まれ、まるで暖をとるかのように羽を休めている。久しぶりに見たその小さな命に、天音はまだ見ぬ兄弟を重ね、次にあの少年へと思いを馳せた。
"and like that"
またどこかの街角で、あの不思議な少年に出会えたらいい。どこかで会ったような気がするのに、やっぱり思い出せなかったけれど、これからはもう二度と彼を忘れることはない。暗闇にひそむ真っ白な白丸。大人びているけどあどけないあの顔に、なぜだか今なって家族のような愛おしさを感じている。
"・・・he is gone."
低く短い弦の音。不穏なセリフと共に暗転して、物語は不気味に幕を下ろす。あの男の好きな映画は、どれも暗くて奇妙なものばかりだ。だが天音はあのラストシーンを真似るように、左手を少し丸めてあたたかな吐息をフッと吹きかける。すると雪虫は小さな翅を震わせて頼りなく飛び立ち、またふらふらと不安定な軌道を描いて、白い吐息とともに黒く凍りついた冬の空に消えていった。
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