4.Tears

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4.Tears

 ドアを開けた瞬間、永津子はそこにうずくまる息子の姿を見たような気がした。  しかし、きちんと整理された部屋の中にいたのは、一足先に部屋の中に足を踏み入れた長身の青年ただ一人であった。部屋の中にはうっすらと埃がつもり、長く使っていないのが一目で知れた。  青年教師が永津子を振り向いた。その表情は穏やかであったが、その中にうっすらと哀しみが透けて見えた。芦田風太郎は再び眼鏡をかけた。 「思い出しましたか?」  芦田は言った。 「僕はこのドアを開けて、あなたにここが空っぽだということを示しに来たんです」 「あ……」  永津子の脳裏に、記憶がよみがえった。弘樹。いつも兄の直樹にかまけていて、よく見てやれなかった弟。財布からたびたび消えたお金。叱っても何も言わなかった。ただ悲しげな眼でじっとこちらを見ていた。最近はろくに口も聞くこともなかった息子。  ある日、夜遅くまで帰らず──戻って来た時は、死体になっていた。その時になって、初めて息子の体に無数のアザがあることを知った。リンチを受け、死んでしまった弘樹。司法解剖。葬儀。  私は息子を守れなかった。息子の苦しみに気づいてやることも出来なかった。私は母親失格だ。私は。  違う。私は息子を守れなかったわけじゃない。だってほら、弘樹は自分の部屋にずっと閉じこもっているじゃないか。あの中にいたら大丈夫。誰からも守ってやれる。出て来ないのは心配だけれど、あそこで永遠に弘樹は生きている。  そう思い込んで。自分を偽って。でも私は、「息子を守ってやれなかった自分」を見ないようにしていただけだ。 「ああああああーっ!」  永津子は悲鳴を上げて、その場にうずくまった。すすり泣く声が聞こえて来た。 「あなたのその後悔が、あなたの記憶を抑圧したんです。……いえ、それだけじゃなく」  言いながら芦田は永津子に近づいて来た。 「弘樹くんを死なせたくなかった、というあなたの強い想いが、弘樹くんの魂自体をこの部屋に封じ込めてしまったんです。でも……欺瞞は長くは続かないんですよ」  芦田はそっと永津子の側に膝をつくと、子供にするようにその頭を撫でた。 「あなたは──少し遅かったのかも知れませんけど──こんなに弘樹くんを想うことが出来てるんです。あなたがその想いを発揮させるべきなのは、これから、ですよ」  永津子はゆっくりと顔を上げた。 「もうすぐここに警察の人間が来ます。弘樹くんを恐喝した挙句、お金が払えないとなるとリンチを加えて死に至らしめた少年達──犯人が、捕まったんですよ」 「はんにん、が……」 「そうです。捕まったんですよ」  直樹が、母を気遣うように肩に手を置いた。母はまるで迷子になった子供のように、生き残った息子を見上げた。  芦田風太郎が出て来たのを見て、武田は自分の車から降りた。 「どうだった?」 「ちゃんと“送れ”ましたよ」  表情を隠しつつ、芦田は答えた。 「だったらいいんだけどな。ここで待ちながら、やっぱり俺が手伝った方がいいんじゃねえかと思ったもんでね。何だかんだ言ったって、こういうことには俺の方が慣れてるから」 「大丈夫ですよ。担任ではないとは言え、彼は僕の生徒です。きちっと自分の手で“送って”やりたいと言ったのは僕の方ですから」 「ならいいんだが」  他のことはともかく、この男は自分の生徒のことに関しては真剣になる。そのことは武田もよく判っていた。それはこの男の、教師としての誇りであるのだろう。  武田は二階の部屋を見上げた。あの部屋に張られた結界は、一人の母親の強い想いと弱い心で出来ていた。そしてその中に封じられたのは、「息子が生きている」という幻想だ。本物の息子の「心」は──とっくの昔に死んでいたのに。  度重なる恐喝行為と暴力に、須田弘樹の心は感じることも何かを思うことも止め、ただ諾々と死を受け入れた。だから、すべての死者の思いを読み取る武田の眼にも何も写らなかったのだ。いや……兄ばかりをちやほやする母と気持ちをすれ違わせたその時から、彼の心は緩やかに死に始めていたのかも知れない。  だから、あそこにいた“弘樹”は幻だ。願望と思い込みと、あの部屋に残っていた彼の“思い”が作り上げた悲しいダミー。あの母親に取り憑いて、半ば第二の人格になりつつあったモノだ。  誰かが“送って”やらなければならなかった。でなければ、いつか母親の精神のバランスは完全に崩壊していただろう。 「まあ、あの“思い”が内に向かわなければ、かなり強くなるぜ、あの母親は。これから裁判もあるだろうから──息子のために戦う母親になるだろうさ」  と、芦田を振り返った武田はぎょっとした。  眼鏡の奥の芦田の目から、一筋の涙が──こぼれた。  この青年教師が涙を流す人間だと思ってはいなかった。どんなことが起ころうと、飄々とかわして見せる人間だと──そう思っていた。決して長い付き合いではなかったが、芦田は自分をそう見せようとしていたし、実際そんな人間だと思っていた。武田はひどく戸惑った。 「センセイ?」 「僕はね、武田さん」  芦田は口を開き、 「もっと早く……違った形で彼をあの部屋から出してやりたかったんですよ」  それだけを言った。  武田はくわえていた煙草を携帯灰皿に捨て、無言でぽんと芦田の背を叩くと、須田家の中に入って行った。  芦田はしばし、そのままそこに立ち尽くしていた。
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