3.Missing

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3.Missing

「やあ」  久し振りの来客は、僕の学校の先生だった。芦田風太郎。そんなに面識があるわけじゃないけど、学校でも一~二を争う変な先生だと言われている。  長いこと見なかったからか、先生は僕の記憶の中の芦田先生とは少し印象が違っていた。眼鏡をかけていないからかも知れない。何だ、この先生、眼鏡をしてないと結構いい男じゃないか。 「なんで来たのさ」 「君をここから出すために」  先生は簡潔に答えた。 「ダイレクトだね」 「遠回しに言っても仕方ないだろう」 「そりゃそうだ」  先生は僕が座っている場所に近づいて来た。長身の先生を見上げるのは、少し疲れる。 「僕がここから出ないって言ったら、どうする気?」 「君は出るさ。出ざるを得なくなる」  先生の口調は、奇妙に断定的だった。 「あんたもそうやって決め付けるんだ」  ちょっとはマシだと思ってたのに。 「君はここから出たくないのか?」  さりげなく、しかしよく通る声で。先生は僕に訊いて来た。出たい? ここから? 僕が? そんなの、考えたことすらない。外は僕には辛すぎるんだ。それがみんな、判ってない。僕はうつむいた。先生の顔を見上げているのは、疲れる。 「……君が何故ここに閉じこもるようになったか、覚えているか?」  覚えてはいないけれ──それがどうしたって言うんだ。僕は答えなかった。 「そうか──抑圧してしまったんだな。自分達にとって何よりも辛い記憶だから」  短く何かを考えて、先生は再び言葉を発した。 「君を恐喝していた少年達は、逮捕されたよ」  ……恐喝?  その言葉を聞いた途端、僕の記憶の奥底から何かが頭をもたげた。僕は得体の知れない恐怖を覚えた。いけない。思い出しては、いけない。思い出してしまったら──  ──おしまい、だ。 「それも恐喝の罪だけじゃない。殺人の容疑もかかっている」  言うな。それ以上言うな!  がくん、と部屋全体が揺れた。書棚から本が次々と宙に舞った。スタンドが、パソコンが、机が椅子がベッドが。一斉に先生に向かって襲い掛かった。 「静まれ」  先生は一言、そう言った。  ぴたり、と全てのものがそのままで静止した。次の瞬間、それらはガラガラと音を立てて床に落ちる。先生は僕の傍らに膝をついた。 「なあ、世の中には潮時ってものがあるんだ。そろそろ認めた方が、誰にとってもいい」 「うん……判ってる」  今、判ってしまった。自分が一体、何なのか。 「でも、僕はまだ、ここにいたいよ」  ボロボロと涙がこぼれ出た。何故泣いてるんだろう、僕は。誰かのため? それとも、自分自身のため? 考えてみてもよく判らなかった。それより先に何だか判らない感情ばかりがあふれて来て、止めようにも止められなかった。 「それは出来ないんだ。何もかも思い出してしまったからには」  ゆらり、と。部屋が揺れる。周りの風景が調子の悪いCG画面のように崩れて行く。 「もうこの空間も、こんなに不安定になっている。もともとここは不安定な場所だったが──そろそろバランスが崩れかけていた頃だ。自分自身さえ巧妙に騙していようが、無理が来るのは仕方がない」  僕の脳裏に、一つの風景が浮かんだ。今まで忘れようとして……記憶の奥底に押しこめていた風景だ。河原。草の生い茂る。僕は取り囲まれている。何人もの人間。最初の拳が腹に入る。崩れ落ちる体。痛み。青臭い、草の匂い。 「もういい」  先生が言った。 「もう、そんなことは──思い出さなくていいんだ」  最後に僕が見たのは、本当に切なそうな先生の眼だった。僕の意識は闇の中に溶けて行った。
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