花菖蒲の咲く庭で

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 言の葉の世界で、僕は暮らしていた。  右の人差し指を紙面に添え、親指でつまんでページを捲るごとに、僕の世界は広がっていく。中学校の図書室は、僕にとって唯一の孤独の王国だった。昼休みの喧騒は、この王国までは届かない。休み時間の教室みたいにうるさく騒ぎ立てる生徒もいない。おもちゃみたいに、僕で遊ぶやつらもいない。  小説がこの世に存在しなかったなら、今ごろ僕は死んでいたかもしれない。  何せこの世界を見つけた今でさえ、死のうと思っているくらいだから。僕の心を救ってくれたのは、同じこの世界で暮らしているヒーローだった。どんな逆境にも屈することなく、知識や知恵で問題を解決していく主人公。不満を垂れ流しながらも、陰で主人公を支えてくれる可愛らしいヒロイン。時にはおかしく、時には頼りになる仲間たち。僕にはたくさんの友達がいた。  「言の葉の旅人」というファンタジー小説を、僕は好んで読んでいた。オリバーという名の少年は、両親が離婚して母親に引き取られたが、彼女の再婚相手から虐待を受けて苦しんでいた。そんな彼の救いは、家にいくつか置いてあった物語で、ある日、彼の前に「言の葉の妖精」が現れる。彼女は言った。「この小説の中には『主人公』がいないの。だから、お願い。あなたが『主人公』になって、悪い奴らを倒してくれない?(「この小説の中」と言うのは、オリバーが読んでいた小説のことで、妖精はその本の中から現れたのだ)」オリバーは頷き、妖精に連れられるままに「言の葉の世界」——つまり物語の中の世界——に旅立った。結局、オリバーはその物語をエピローグまで導くものの、彼のお話はそこで終わりではなかった。「言の葉の世界」から主人公を奪った魔王は、七つの物語に七体の悪魔を用意し、オリバーはそれらの悪魔を倒さなくてはならなくなった。そして現在、オリバーは三体目の悪魔を倒しに向かっているところだ。  ページを捲る手が止まらない。けれど、読み終えてしまうのはもったいない。最後のページを捲ってしまえば、次の巻が出るのを待たなくてはいけないのだ。僕が犬だとしたら、小説はご主人様だ。もっと餌が欲しいのに、おいしいところで「おあずけ」をされる。  一生この世界で暮らしていたい。しかし、この腐りきった現実世界に生きている限り、僕の願いは叶わない。
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