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本屋もまた、僕の好きな場所だった。お母さんにショッピングモールに連れられてくると、僕は真っ先に本屋へ向かう。お金はないが、想像力だけはたくさんある。だから、僕は本棚にずらりと並んだ背表紙を眺めているだけで幸せだった。その背表紙の裏側にはどんな世界が広がっているのだろう、と考えていることが好きだった。時には本棚から引っ張り出し、適当なページを開いて、読むのではなく眺める。そのたびごとに、僕は美術館の巨大な絵画を前にしたかのような感動を覚えていた。だって、絵画って、意味がわからなくても「すごい」と思えるときがあるじゃないか。僕にとっては、それと一緒なのだ。なぜなら、小説の中の言葉がなぜか美しいことを、僕は知っていたからだ。
「あ……っ!」
しかし、僕は文庫本のコーナーを歩いていると、急に現実に引き戻されてしまった。目の前の相手も、道端でカルガモの親子を見つけたかのような驚いた顔をしていた。
佐伯はすぐに唇を引き結び、ばつが悪そうに顔をそらした。
「佐伯くんも……」
なぜ僕の方から口を開いたのかはわからない。あるいは、漫画コーナーではなく、文庫本コーナーで出くわしてしまったことに、親近感を覚えてしまったのかもしれない。バカにされたり、暴言を吐かれたりするなんてことは、一切頭によぎらなかった。
「佐伯くんも、本が好きなんだね」
佐伯は眉間に小さなしわを寄せて、もどかしそうに唇をもごもごと動かしていたが、「まあ、嫌いじゃねえけど」と明後日の方向に向かってつぶやいた。それから、奇妙な沈黙が生まれた。正気に戻った僕は、すぐに自分の失態に気付き、何事もなかったかのように本棚を見つめようとした。あわよくば、そのまま離れて去ってしまおうとした。すると、佐伯は唐突に口を開いた。
「なかなか買う暇がなかったから、新刊を買いに来たんだよ」
僕はもう一度、佐伯に視線を戻した。佐伯は右手を首の後ろにやって、ぽりぽりと掻いていた。僕はおそるおそる尋ねた。
「……何の?」
一拍置いた後に、佐伯は言った。
「小説。『言の葉の旅人』っていうファンタジー小説」
佐伯くんがそう言った途端、僕の瞳は心の奥まで大きく見開かれた。
「嘘、佐伯くんも好きなの!」
ほとんど反射的に、口をついて出た言葉だ。すると、佐伯くんがふっと頬の筋肉を緩めた気がした。少なくとも、僕にはそういう風に見えた。
「……ぃおい、いきなりでかい声出すんじゃねえよ。びっくりするじゃねえか」
僕は苦笑して「ごめん」と謝った。
「僕も『言の葉の旅人』がすごく好きだから、ついびっくりしちゃって」
「ああ。そうなのか」と佐伯くんはぶっきらぼうに言った。「面白いよな。ミアのキャラクターとかも可愛いし」
ミアとは、小説中のヒロインにあたる人物の名前だ。
「オリバーが魔物の毒で倒れたときに、離れた街まで一人で薬草を買いに行くでしょ。あのシーンとかすごく好き」
佐伯くんは小さく何度か頷きながら僕の言葉を聞き、「あー、めっちゃわかる」と口元を緩めた。
「出会った当初が、喧嘩ばっかしてたからってのも、あるよな」言ってから、佐伯くんは唐突に尋ねてきた。「吉川って、家、この辺なの?」
「ううん。車でお母さんと一緒に来たんだ」
佐伯くんは一瞬言葉を失ったように見えたが、何事もなかったかのように曖昧に頷いて「ああ、そうなんだ」と相槌を打った。
「佐伯くんは?」
「チャリで来たんだ。暇だったから」
「家、近いんだ」
「まあな。家にいても、やることねえし」
そこで会話は止まった。すると、佐伯くんはこれまた唐突に言った。
「なあ、吉川って、ラインやってるだろ?」
「うん、一応」
「一応って何だよ」と佐伯くんは苦笑した。「ID教えてよ。嫌だったらいいけど」
「あ……ああ」
僕は無意識にスマホを取り出し、ラインを開いた。佐伯くんも同じ動作をした。一連のやりとりが終わった後、佐伯くんは僕の目を見た。その瞳の奥に、好意でも敵意でも無感情でもなく、あるいはそれらすべてが混ざり合ったかのような、複雑な光が宿っているのを僕は感じた。
「それじゃあ、またな」
「あ……うん。また」
佐伯くんはくるりと踵を返し、本棚の角を曲がって姿を消してしまった。かと思えば、面倒臭そうに顔を歪め、再び戻ってきた。
「いっけね。新刊買いに来たの、忘れてた」
僕は苦笑しながら、本棚から「言の葉の旅人」の三巻を取り出し、佐伯くんに手渡した。
「ああ、ありがとう」と佐伯くんは申し訳なさそうな声で言った。
「……うん」
「……またな」
小さく言って、今度こそ佐伯くんは本屋から去っていった。
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