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かと言って、それで僕の学校生活が大きく変わったわけではなかった。休み時間になれば佐藤たちが絡んでくるし、長い昼休みには、痛い現実から逃れるために図書室へと向かう。
「何、読んでるんだ?」
七月に入ったばかりのある昼休み、後ろからの突然の声に、びくりと背筋が震える。聞き覚えのある声音に、僕は困惑してしまう。しかし何とか平静を保った僕は、背後を振り返り、困ったような顔をして言った。
「佐伯くん、図書室でしゃべるのはやめてほしいんだけど」
「あ……ああ。悪ぃ……」
素直に謝るんだ。
僕にはそのばつの悪そうな表情がとても可愛らしく思えて、つい噴き出しそうになってしまった。しかし、ここは図書室だ。神聖な沈黙の王国である。僕はおもむろに本を閉じると、ちらりと佐伯くんに目配せして、図書室を出た。付いて来ないなら来ないでも良かったが、結局僕らは一緒に図書室を出た。佐伯くんは人気の少ない空き教室を指差し、「ここにしようぜ」と言った。僕と一緒にいるところを人に見られたくないのだ、という彼の意図を察し、僕は少し意気消沈してしまう。しかし、それは仕方のないことだと、すぐに諦めの気持ちに変わった。がらんとした教室の適当な椅子に、僕らはそれぞれ腰掛けた。
「『言の葉の旅人』じゃ、ないんだな」
「大体、いつも二冊くらいを同時に読むんだ。小説って、長いし、読むのに時間がかかるでしょ。一冊だけだと、飽きて疲れてきちゃうんだよ」
「ああ、俺も文学とか読もうと思ったことはあるんだけどさ、途中で嫌になってやめちゃったんだよ。ラノベみたいに簡単に読めるものなら、結構好きなんだけど」
「へえ、文学とかも読むんだ」
「お前の想像してるような感じじゃねえぞ。読もうと思ったことがあるってだけだ。何となく」
「それ、すごく大事なことだと思うよ」
「え?」
「『何となく』っていう気持ち」
佐伯くんはふっと小さく笑った。
「にしても、あんな小難しい感じのジャンルの本、よく読むよな」
「僕は慣れてない内は、最初にネットであらすじを見てから読んでたよ」
「えぇ!?」と佐伯くんは素っ頓狂な声を上げる。「先にあらすじを読んじゃったら、何も面白くねえじゃん」
僕は乾いた苦笑いをした。
「気分で読み方を変えるんだよ。僕は、小説の面白さって、単にあらすじをなぞるだけじゃないと思うんだ。絵描きがたくさんの絵の具を使って世界の色彩を表現するみたいに、小説家は使い古された言葉をたくさんに組み合わせて、世界の美しさを表現するんだ。もちろん、いろんな読み方があっていいと思うし、あらすじを楽しむことが悪いって言いたいわけじゃないんだけど……何て言うのか、あらすじがわかりきった後の面白さみたいなものがあって、あらすじの外にある言葉みたいなものを見たくなるときがあるんだ」
「お前が何を言っているのか、さっぱりわからん」
「何か、もう少し言葉を尽くして説明しなきゃ誤解されそうなんだけど、僕の言いたいことをどうやって説明すればいいのかわからなくて……ごめん」
「とりあえず、日本語が難しいってことだけはわかったわ」
居心地の悪い沈黙が生まれた。本以外のところで佐伯くんに話題を持ちかけることは、彼に悪い気がした。僕らは偶然「本」によってつながっただけで、友達というわけではないのだから。
佐伯くんは、特に何の感情もなくじいっと僕のことを見つめていた。やがて、口を開いた。
「お前、よく俺と普通に話ができるよな」
びくりとした。
吉川のくせに、よく俺と普通に話しができるよな。なめてんのか?
僕にはそういう響きに聞こえた。僕は肩をすぼめて、小さく震わせる。
「……ご、ごめん」
「どうして謝るんだよ」
しかし、佐伯くんの意味したことは、僕の想像とは違うところにあるらしかった。
「お前、俺に対して『むかつく』とか『ぶっ殺してやりてえ』とか思わねえのかよ」
僕は佐伯くんの言葉の意味がわからず、その場で硬直していた。
「言っておくけど、俺はお前に謝りゃしねえよ。そもそも、俺は佐藤たちみたいに吉川に何かした覚えなんてねえし。だけど、吉川からしたら、俺なんてあいつらと同じようなもんだろ。別に俺をシカトしたからってどうこうするつもりもねえし、一発ガンを飛ばすくらいがあって良いとも思ってたんだけどな」
なのに、お前はどうしてそんな愛想よく笑っていられるんだ?
「吉川」
名前を呼ばれ、僕は佐伯くんの目を見た。相変わらず、彼の瞳には複雑な光が宿っていた。
「俺には媚びる必要なんて、ねえんだぜ」
彼は良い人だ、と僕は思った。もちろん、それはあくまでも直感めいたものだ。しかし、本が好きな人に悪い人間はいないというのが、僕の信条だった。
僕は、佐伯くんには正直にぶつかってみたいと思った。
「……嬉しかったから」と僕は言った。「佐伯くんみたいに反りの合わなそうな人が『本を読む』ってわかったのが、嬉しかったから。本のお話ができる相手ができて、嬉しかったから。それに、僕は前から佐伯くんのことだけは嫌いじゃなかったんだ」
「俺が?」
「うん。『佐伯くんだけ』は、何となく嫌じゃなかったんだ」
僕は拳をぎゅっと握りしめた。唇を強く噛んだ。そして、憎しみのこもった低い声音でささやくように言った。
「あいつらのことは、殺してやりたいくらいに嫌いだけど」
佐伯くんは、黙ったまま僕のことを見つめていた。やがて、おもむろに口を開いた。
「なあ、やっぱり俺と吉川って、なんか似ていると思うんだ」
似ている? どこが?
僕はきょとんと目を丸くして、佐伯くんに視線を戻した。
「オリバーもさ、同じだと思うんだ。あいつもすごい寂しい人間だっただろ。一人ぼっちで、物語の中にしか生きる意味を見つけられなくて。だから、俺たちは二人して同じ小説が好きなんだよ」
そう言った佐伯くんの目は、どことなく悲しみに潤んでいた。すると、佐伯くんはおもむろに椅子から立ち上がって顎で時計を差した。
「さ、そろそろ授業の始まる時間だ。頑張ろうぜ」
僕は、佐伯くんが教室を出ていく後ろ姿を見送った。ちらりと見えた横顔には、好意的な笑みが浮かんでいるような気がした。あるいは、それは単なる僕の思い込みなのかもしれない。けれど、僕にはなぜか、その思い込みが正しいとわかっていた。
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