花菖蒲の咲く庭で

6/11
前へ
/11ページ
次へ
 そのころ、僕は自分の小説を書き始めていた。小説を書くにはちょうど良い時期だったのかもしれない。吐き出したい言葉が胸の奥に溜まっていて、以前よりも楽しい気分になりやすかった。だけど現実(がっこう)が楽しいわけではなくて、想像の世界に思い切り身を委ねることができる。  長くても二万字に行かないくらいの短編小説を書こうと思っていた。長編小説を書くためには、それ以上に鮮明な世界が見えなくてはならない。いくつもの設定を作り上げ、様々な登場人物の持つ色をはっきりさせなくてはならない。どんなところに住んでいるのか、誰と仲が良くて、誰のことが嫌いか。どんな食べ物が好きなのか。陽射しの柔らかな午後、ヒロインは風に揺られるお花畑を一本の木陰から眺めている。彼女はここからの光景を心の底から愛していた。そして、頬を赤らめながら幸せそうに林檎を食べるヒロインの頭を、主人公が後ろからコツンと叩く。振り返って眉根を寄せるヒロインに、悪戯っぽく微笑みかける主人公。彼はいつもヒロインに悪戯をしたがる。なぜなら、主人公はそのヒロインのことが好きだからだ。僕はそんなどうでも良いようなリアリティのある光景を、想像の世界で描写してみたいと思っていた。  小説がうまく書けないとき、僕は好んで散歩に出かけた。小説的な視点で見ると、何でもない近所の風景が鮮やかに変わる。瀟洒(しょうしゃ)な二階建ての一軒家を見かけると、その中にどんな人々が住んでいるのか想像する。眼鏡をかけた家族思いのお父さんと、料理が得意なお母さん。お母さんは毎朝鏡を見て、自分の顔のシミの様子をチェックする。二人とも小学生の兄妹がいて、お兄ちゃんは明るく活発で、サッカーが大好きだ。妹はいつもお兄ちゃんの後を追い回しているせいか、いつのまにか足が速くなっていた。お隣さんにも小学生の子供がいて、家族ぐるみの付き合いで、休みの日には森林公園に遊びに行ったりする。小さな会社がある。パン屋さんがある。歯医者さんがある。世界にはいろいろな人がいて、いつもどこかで豊かな日々を送っている。そんな美しい世界に、僕はずっと浸っていたかった。 「へえ。吉川、小説書いてるんだ」  と佐伯くんは言った。  僕の学校生活は少しだけ変わった。昼休みには、僕はいつも図書室で本を読んでいるはずであるが、最近では空き教室で佐伯くんと会話をするようになった。話の中身も、どちらかと言えば個人的なものが多くなった。どんなテレビが好きだとか、休みの日には何をしているだとか。 「特に会話文を書くのが好きなんだ。小説を読むときもそうなんだけど、会話文って、友達との話の輪の中に加わっているような気分になるんだ。僕って、友達はいないんだけど、小説の中でいろんなキャラクターを見ていると、一人ぼっちじゃないって思えるんだ」 「あー、なるほど」  友達がいない、みたいなネガティブな発言をしたとき、ほとんどの人間は決まって気分悪そうな表情を浮かべるものだが、佐伯くんにはそれがなかった。それをネガティブでもポジティブでもジョークでもなく、会話の一部として受け止めてくれていた。僕にはそれが嬉しかった。 「たしかに、俺も会話がテンポ良く進んでく感じは好きだぜ」  っていうかさ、と佐伯くんは言った。 「吉川が書いてるやつって、どんな感じの小説なの?」 「どんな感じ……って言うと……」 「ファンタジーとか、ミステリーとか」 「ファンタジー小説だよ」 「で、どんな感じの小説なの?」 「え?」 「いや、どんな感じの話なのかなって思って。ストーリーだよ」  佐伯くんの言う「どんな感じ」には、様々な意味が含まれているらしかった。 「一輪の花を探しに行くんだ」 「一輪の、花?」と佐伯くんは怪訝そうに復唱した。 「うん。その花には、『あなたのことを一生愛し続けます』っていう花言葉があって、告白のときに使われるんだけど、魔物の棲んでいる山の奥にあるから、より一層『勇敢な男の人が心から愛する女性に贈る花』として知られているんだ」 「へー」と佐伯くんは興味なさそうに言った。この手の恋愛物語には、さして関心が向かないらしい。 「それで、主人公は同じ村に住んでいる女の子のことが好きなんだけど、そこには恋のライバルがいて、どっちが先にその花を手に入れて女の子に告白できるか競争するんだ。そして、主人公は冒険に出るんだよ」 「冒険に、出る?」  佐伯くんはちょっと前のめりになった。「冒険」というキーワードに引っかかったらしい。 「うん。魔物も出てくる危険な山に行くんだ。主人公は、魔法は苦手でも剣は得意だったから、それなりに自信はあったんだ。案の定、森の魔物たちをバッタ、バッタと斬り倒し、奥へ、奥へと進んでいく。しかし、途中で毒虫に刺されて……」 「ストップ!」と佐伯くんは興奮気味に言った。「なあ、その話、めっちゃ面白そうじゃん。完成したら読ませてくれよ!」 「……え?」 「だから、吉川が書いた小説を、俺に読ませてくれよ!」  正直なところ、僕は佐伯くんがそこまで僕の小説に興味を持つとは思わなかったから、呆気に取られてしまった。しかし、佐伯くんの言葉が胸に染み渡ると、僕の心も高揚感で満ちてくる。僕も前のめりになり、佐伯くんと間近で顔を見合わせる形となった。学校では普段出さないような大きな声で、僕は返事をする。 「うん! もちろん!」
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加