花菖蒲の咲く庭で

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「謝れよ」  夏休みが明けると、教室の空気ががらりと変わっていた。ありがたいことに、魔物の巣窟の中で、僕は「魔物の餌」ではなく、存在しているのかどうかもわからない「空気」みたいな存在になっていた。  佐藤やその取り巻きたちから迫られているのは、僕ではなかった。 「おい、佐伯、聞いてんのか?」  威圧する佐藤と、それを見てにやにやと笑う取り巻きたち。こいつ、バカだなあ、と思っているのがその目でわかる。佐藤が急に僕の方を向いてきたから目線を逸らすが、奴はこちらのことなど気にしたそぶりも見せなかった。 「聞こえてるに決まってんだろ。こんだけの距離でしゃべってんだから、常識で考えろよ」と佐伯くんが言った。 「てめえ、誰に向かって言ってんだ?」  佐藤は眉間にしわを寄せてさらに威圧的な態度を強め、佐伯くんの胸ぐらをつかんだ。しかし、佐伯くんはまったく動じた様子はなく、売り言葉に買い言葉で「あ?」と一言睨み返した。 「お前だよ。真正面を向いて、目の前にいるお前に向かって言ってるんだから。日本語はわかるか?」  僕は何度も止めに入ろうと思った。しかし、その思いに反して、体はピクリとも動かなかった。佐藤に対する恐怖心が、骨の髄まで植えつけられてしまっていたのだ。 「ぶっ殺すぞ!」  その瞬間、教室に悲鳴が響きわたった。佐藤が佐伯くんの頬を殴りつけたのだ。佐伯くんはしばらく頬を押さえていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。そして、今度は逆に佐藤の頬を勢いよく殴った。 「やられたらやり返す。それが俺の主義だ」  教室のざわめきが次第に大きくなっていく。「誰か、先生呼んできて」とある女子生徒が言った。教室の外の廊下には、野次馬がたかってきた。 「……ってえな」  佐藤が立ち上がる。教室には、いよいよ緊迫した空気が張り詰めた。そして、佐藤は声を荒げる。 「てめえごときが俺に勝てると思ってんのか!」  力の弱い生徒たちではとても手が出せないような乱闘騒ぎだった。周りの取り巻きたちも困ったように互いに顔を見合わせ、二人から距離を取っていく。やがて数人の男の先生たちが教室に入ってきて、彼ら二人を止めにかかった。次の授業の間、二人は別の教室で先生と話し合いということでクラスにはいなかった。授業中、僕は何度か佐伯くんの空白の席に目をやった。 「佐伯、吉川とこそこそ楽しそうにしゃべってるのを見られたらしいよ」  休み時間に用を足し、手を洗っていると、外で女子生徒たちが話しているのが聞こえた。僕は蛇口の水を止め、彼女たちの話に耳を澄ました。 「別によくない?」 「夏休みも付き合い悪かったらしいから、『俺たちといるより、吉川と遊んでる方が楽しいのか?』って、佐藤がキレたみたい」 「で、佐伯は?」 「いや、あいつら、言葉で会話できるような奴らじゃないから」 「あはは! 確かに!」  女の子たちは楽しそうに笑い声を上げて去っていく。僕はその場で顔をうつむけていた。蛇口の先から、一滴の水がぽたりとこぼれた。  僕のせいだ。  罪悪感が、きつく僕の心を締め付けた。  あの後、佐藤は机を蹴り飛ばして勝手に帰っていってしまった。しかし、教室内ではちょっとした大事件だったにも関わらず、佐伯くんは退屈そうに頬杖をつきながら、平然と授業を受けていた。以前、佐伯くんが「数学は嫌いだけど、国語は好きなんだ」と言っていたのを聞いたことがある。「吉川のおかげで、ちょっと難しくても文章を読むのが好きになったんだ」  僕は少し悲しい気持ちになりながら、国語の教科書を開いた。先生は何事もなかったかのように授業を始める。  昼休み、佐伯くんはいつものように空き教室の席に腰掛けていた。僕は佐伯くんと目が合いそうになったが、素早く逸らしてそこを通り過ぎようとした。 「おい、吉川、待てよ」  呼び止められて、僕は振り返る。 「どこに行くんだよ」  振り返ってしまったことを、僕は即座に後悔した。僕がひそかに眉を曇らせ、無視を決めこもうとすると、佐伯くんは僕の肩を強く握ってきた。 「話くらい、してくれてもいいだろうが」  まだ大丈夫だ。ある日、ちょっとだけ友達みたいな会話をしたけど、一週間後にはまったく話さなくなる。今なら、その程度の関係で済ますことができるはずだ。僕と関わりさえしなければ、佐伯くんは元の生活に戻ることができるはずなのだ。  しかし、佐伯くんはそうはさせてくれなかった。それで佐藤から逃げるには、佐伯くんはあまりにも真っ直ぐすぎたのだ。僕は諦めて、一度大きく深呼吸をした。僕の正直な気持ちを、喉の奥から絞り出した。 「……佐伯くんは、もう僕とは話さない方がいいよ」 「俺としゃべってると、また佐藤に絡まれるから、か?」 「そうじゃなくて!」  思わず、叫ぶように言ってしまった。肩にかかる佐伯くんの左手の力が弱くなる。僕は、またいつもの弱々しい口調で言った。 「やっぱり、佐伯くんは僕とは話さない方が良かったんだよ。僕と話さなければ、佐伯くんが喧嘩沙汰に巻き込まれるようなことなんてなかったはずだし……」  それに、僕はあのままでも耐えられたから。  しかし、なぜかその最後の言葉は出てこなかった。正直、楽だったのだ。佐藤の標的が僕から逸れたことが。もうあいつに怯えながら学校生活を送らなくても良いと思えたことが。新たな標的が佐伯くんじゃなかったら良かったのに、と罪深いことを考えた。そうすれば、標的の誰かに対して「可哀想だな」と思いつつも、自ら痛みを引き受けることなく暮らしていくことができたのに。 「お前、何か勘違いしてねえか?」  佐伯くんは、今にも噴き出しそうな顔をして言った。 「別に、お前のせいでどうこうってわけじゃねえよ。単に、あのグループで固まってることに飽きたんだ。どこの誰とヤっただとか、どこでどんな奴からカツアゲしただとか、そのときの状況がどうだったとか。集団で弱い者いじめをして。あいつら、心根が弱いんだよ。絶対に勝てる状況で勝って、それで自分たちのことを強いと思い込んでる。あいつらとつるんでたら、俺も一生弱い人間のまま、底辺を彷徨って死ぬんだろうなって思ったから切った。それだけなんだよ」佐伯くんは、僕の目を真っ直ぐに見据えて続けた。「だから、佐藤たちのことで、お前がどうこう感じる必要はねえ」  ま、俺と絡んでたらその内佐藤に目を付けられるかも、とか思ってるんなら、話は別だけどな。そう言って肩をすくめる佐伯くんに、僕は強い尊敬の念を抱いた。 「……ごめん」 「ん?」 「弱いのは、僕も一緒だった。僕は佐伯くんのために話すべきじゃないと思っていたけど、実際はあいつから逃げたかっただけなのかもしれない」  ねえ、佐伯くん、と僕は改めて佐伯くんの目を見た。 「僕と、友達になってくれるかな?」  言うと、佐伯くんはくしゃっと少年らしい笑顔を浮かべた。 「何言ってんだよ。俺たち、もう友達じゃねえか」  当然のことのように言う佐伯くんを見ている内、僕も自然に笑顔になった。佐伯くんは続けた。 「あのさ、吉川」 「何?」 「俺は、もっと広いところに行きたいんだよ」 「広い、ところ?」 「ああ。こんな牢獄か収容所みたいな狭い国から飛び出して、たくさんの世界を見たいんだよ。自分で金を稼いで、自分の力で自由に生きて、それで面白い世界を自分の目に焼き付けたいんだ」 「小説の中の、主人公たちみたいに?」 「そう。あいつらは自由だ。オリバーだってそうだろ。あいつも、汚くて狭い世界から飛び出して、本の中の世界で自由になれたんだ」  オリバーは、苦しい現実から逃れて、「言の葉の世界」の中に旅立った。そこで様々な仲間たちと出会い、苦しくとも助け合いながら前に進み、今では三つ目の世界を目にしている。 「あの小説を読んで何となく思っていたことが、吉川のおかげではっきりとした形になったんだよ。だから、俺はむしろ感謝しているんだ。あのときの本屋で、お前と偶然出逢えたことに」  僕は佐伯くんの曇りない力強い眼差しに、強く心を突き動かされた。「強さ」の意味を教えられた気がした。  いや、僕の方こそ感謝しているよ。そんな言葉も発することができなかったくらいに。  僕はいつのまに言葉を失ってしまったのだろうかと、自分で自分に呆れた。しかし、何か言葉を発するには、僕は心を揺さぶられすぎていたのだ。佐伯くんと出会ってから今までの豊かな思い出が、ぐるりと脳内を駆け巡った。
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