3 それは誰かの物語

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3 それは誰かの物語

 貸し与えられたエフェメラに傷を付けてしまった彼は、両手を床に付いて頭を下げるしかなかった。 「僕が(つまず)いて転んだ時に、巻き込んでしまったのです!」 「ああん……?」  怒りを(はら)んだ声が、頭上から降って来る。声色は童女の様なのに、殺意すら感じるその口調に背筋も凍る思いがした。 「お前は(わたし)(たばか)ろうというのか。自分が何をしているのか、分かっておるか?」 「は……っ!?」  思わず顔を上げてケラエノを見上げる。  紅い瞳の奥から更に紅い何かが光っている。怒っているのだ。白銀の髪が揺らめいているようにすら感じられた。  すぐに顔を伏せ、額を図書館の石畳に擦り付ける。 「申し訳ございません! 本当の事を、申し上げませんでした!」 「二度目は無いぞ。絶対に無い。心得よ」 「ははあっ……!」  一瞬で首が飛ぶこともなかった。嘘を()いたことも見破られたが、赦された。しかし……コチョウがエフェメラを傷付けたことを話さなければならないのか。自分が不興を買えば、どの道、妻も終わりだろう。しかし、だからといって彼女が処分されるようなことを自分が口にすることは、したくない。  冷汗が床に次々と滴っていく。 「あのな」  声が近くなった。 「傷ひとつ(ちり)ひとつ付けずに返せ、と言うくらいなら、人になど貸さんわ」 「え?」  顔を上げる。彼の主は、しゃがみ込んで、呆れた様な顔をしていた。もう瞳の奥は光ってはいない。 「とはいえ……」 そして立ち上がって、彼が返したエフェメラの顔を見上げた。 「お前は、エフェメラたちの顔や衣を、美しいとか可愛いらしいとか思うか?」  一瞬、何を訊かれているのかよく分からなかったが、とにかく早く正直に答えなければと思った。 「思います」 「そうか。年月が経っても、それは変わらんか」  ハァ……と彼女は溜息の様な声を出した。 「綺麗にして送り出しておるのに、どうして人は大切にしてくれぬのか……」 「……は?」  気が付いた時には、間の抜けた声が出ていた。 「もうよい。このエフェメラは私がみる。お前たちは他の個体をやれー」  そう言って、ケラエノはエフェメラの手を握って隣の部屋へ行ってしまった。外見だけなら、背の低いケラエノがエフェメラに連れて行かれたようにも見える。  文字通り、首が繋がった。  安堵(あんど)の溜息を吐いていると、ここで使われているもう一人が声をかけてきた。 「よーよーよー、お帰りお帰りー。いや、この世に帰って来てくれるとは正直、思わなかったぜー」  自分よりも高い位置にあるトウの肩をバンバンと叩きながら言う彼は、トウよりも先にここで使われていた先輩だ。 「ゲンさん……エフェメラって、きれいに返さなくても、いいんですか?」
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