宇都宮君に懐かれてます。一話目

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宇都宮君は自分の家に着くとようやく私の腕を掴んでいた手を離した。 そのまま階段を上がっていくので付いて行くと、そこは宇都宮君の部屋だった。 「宇都宮君、なにして遊ぶ?」 宇都宮君は私の質問には答えず、机にノートを置いて黙々と何かを書き始めた。 お絵描がしたいのかな? そう思って宇都宮君のノートをのぞき込むと、数字がびっしりと書き込まれていた。 なんなのだろうこれは…… 理解出来ずにいる私が固まっていると、宇都宮君ママがお菓子とジュースを持って部屋へと入ってきた。 「それはね、1、2、4、8、16、32…てな感じで数字を二倍にしていっているのよ。」 宇都宮君の手は止まることはなく、数字は9ケタにまで及んでいた。 まだ五歳なのにそんなことが出来るだなんて…… 今ならその凄さが分かるのだが当時の私にはへぇ〜としか言いようがなかった。 宇都宮君は見開きの2ページを数字で真っ黒にすると満足したようにノートを閉じた。 そして引き出しから三角形の置物を取り出し、おやつが置かれている折りたたみテーブルの上でカチカチと鳴らし始めた。 これって…… 「……メトロノーム?」 「そう、メトロノーム。梨花ちゃんは難しい言葉を知ってるねぇ。」 「ママがピアノの先生をしてて私も習ってるんです。」 メトロノームとは一定の間隔で音を刻み、楽器を演奏する時にテンポを合わせるために使う音楽用具である。 今から楽器でも演奏するのだろうか? のわりにはメトロノームを見ながら黙々とおやつを食べてるだけなんだけど…… 「卓は音に敏感な子でね。これがあるとすごく落ち着くのよ。」 首をかしげていた私に宇都宮君ママが説明してくれた。 テーブルの上のメトロノームは、ゆっくりとしたリズムを正確に刻んでいた。 この音を聞いて落ち着く気持ちはわからなくもないけど…宇都宮君ていろいろと変わってる子だなあ。 他のお友達とは明らかに違う宇都宮君に、私はなんだか興味がわいてきた。 1階から玄関のドアノッカーを叩く音が聞こえてきた。 「あらやだ。きっと業者さんだわ…来るのが早い。」 引っ越してきたばかりなのでまだいろいろとやることがあって大変そうだった。 宇都宮君ママはなにかあったら呼んでねと言って下へと降りていった。 「宇都宮君、好きなテレビってある?」 「このお菓子美味しいねっ。」 「今日は、天気が良いよね〜。」 「…えっと……」 ずっと黙りこくってる宇都宮君に、もはやなにを話せばいいんだかわからなくなってきた。 帰りたくなってきたかも…… チラっと宇都宮君の横顔を見るとメトロノームに合わせてわずかに首を動かしていた。 もしかしてリズムに乗ってる? こんなに私が話しかけてるのに…… なんだかムカっときて私はメトロノームに手を伸ばし、少しテンポを早くさせた。 宇都宮君はすぐに元に戻してつぶやいた。 「86BPM。」 BPMとはテンポの速さの単位である。 どうやらこだわりの速さがあるらしい。 宇都宮君から誘ってきたくせに、さっきからちっとも遊んでくれない。 「私もう帰るね。」 立ち上がろうとした私の腕を、宇都宮君はまたギュッと掴んだ。 「ねえ宇都宮君。帰るから離して。」 「ヤダ。」 「これ痛いよ?離してっ。」 「ヤダ。」 「宇の…」 「ヤダ。」 私達が押し問答を繰り返していると下から大きな音が聞こえてきた。 下にはまだ段ボールだらけの部屋があった。 業者さんが引っ掛けて倒してしまったんだろうか…… それは金属音がガラガラと鳴り響く甲高い音だった。 「……宇都宮君?」 宇都宮君の様子がおかしい…… 耳を両手で塞ぎ、苦痛に満ちた表情をしていた。 「宇都宮君大丈夫?」 私が肩に乗せた手を、宇都宮君は払い除けた。 すごく苦しそうに呻くと、テーブルの上に置いていたものを次からつぎへと壁に向かって投げ出した。 お菓子もお皿も、ジュースの入ったコップまで…… プラスチック製なので割れはしないけども、新築の壁が悲惨な状態である。 「宇都宮君落ち着いてっ。これっこれ聞こう!」 私が差し出したメトロノームを宇都宮君はガっと掴み、あろうことか窓ガラスに向かって投げつけようとした。 「ダメダメダメ!宇都宮君っ!!」 私は咄嗟に宇都宮君に飛びついた。 私より体の小さかった宇都宮君はすっぽりと腕の中に収まった。 それでも暴れようとする宇都宮君を、私は必死にギューって抱きしめた。 「二人とも大丈夫?!」 騒ぎに気付いた宇都宮君ママが慌てて駆けつけてきたのだけれど、私達を見て目が点になった。 宇都宮君が私を床へと押し倒し、胸に耳をピッタリとくっつけていたからだ。 「……卓?梨花ちゃんになにをしているの?」 宇都宮君ママが私から引き剥がそうとするが、なかなか離れようとしない。 大人しくなったのはいいのだけれど、今度はいったいなんなのだろう? 「あの…宇都宮君?」 「梨花の中から音がする。」 ……音? 「それはきっと心臓の音ね。」 宇都宮君ママが宇都宮君に優しく教えてあげた。 宇都宮君は今、私の心臓の音を聞いているの? こんなに夢中になって? 心臓が拍動する音────── それはテンポでいうとBPM60~100だ。 この時の私の心臓のテンポは宇都宮君こだわりのBPM86だったらしい。 通常は安静時以外や年齢が上がっていくとBPM値は変化する。 でもこの時に【私の心拍数イコール宇都宮君が落ち着くテンポ】と刷り込まれてしまったようだ。 以来私はずっと、宇都宮君のメトロノームだ。
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