ファインダーと霧のヴェール

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「写真を」 「うん?」 「少し持ってきたので……見てもらえませんか」 普段は持たないトートバッグを提げてきたのはそのためだ。タブレット端末を取り出し、わざわざ入れたデータを開く。 「アヤメさんに、僕のこと知ってほしくて。それには写真が一番手っとり早い、と……思って」 ずらりと並んだ画像一覧を表示させる。学生時代に賞を穫ったものから、最近練習しているポートレートまで。 気に入っているものや評価の良かったものばかりを入れてきたのは、できるだけ僕の感性そのままを伝えたかったからだし、単純に見栄でもあった。 彼は僕に少し身体を寄せるようにして、横からタブレットを覗き込んだ。 「見たいって言ったの、覚えてたんだ?」 「それもありますけど、僕が見せたかったんです」 写真家同士ならばともかく、“あなたの作品が見たい”というのは、基本的に社交辞令だと僕は思っている。だから、こういう場で出会った相手に自分の撮ったものを見せるのは初めてに等しかった。 ジッポを人質におびき寄せた彼が、僕の写真にどんな反応を見せるか、一抹の不安はあったけれど。思いのほか身を乗り出してきた彼に、最終的にはタブレットを奪い取られた。 「わあ」とか「へえ」とか、シンプルな感嘆詞を漏らしながら、時折スワイプする手を止めていた。 横顔を盗み見ると、くっきりと刻まれていた眉間の皺はいつの間にか消えている。長い睫毛は液晶のブルーライトを吸って黒々と輝いて見えた。 彼は百枚近い画像を順繰りに見ていって、最後まで見終えると、また一枚目に戻ってスワイプを続けた。 どれか特定の写真に対して、彼がコメントを発したり僕に質問してきたりすることはなかった。一枚一枚を隅々まで見つめ、その画面の中に写っているものだけをヒントに、作品としての僕の写真を読み解こうとしているようだった。 そんな見方をされると緊張して、酷く落ち着かない気分になってしまう。 時の流れがそこだけ止まったように、彼は静かにゆっくりとデータをめくっていった。驚いたことに全てのデータをまるまる二周してしまって、そのあいだにグラスの中のクラッシュアイスはほとんど溶けていた。 僕にタブレットを返しながら彼は言う。 「伊織くん、あれだね。猫がネズミとか捕まえて見せに来るやつみたいだね」 「……そうですか?」 そんなつもりじゃないんだけどな。頭を掻きたい気持ちになるが、 「うん。猫好きだよ、俺」 幸いにして機嫌を直してくれたらしい彼が歌うように言ってくるので、まあそれでもいいか、と思い直す。 チェックアウト時間の間際、彼はメモ用紙に数字を書き連ねて僕に手渡した。 「個人情報、何から何まで抜かれちゃたまんないからさ。電話番号だけで我慢してよ」 「……これって、また会ってくれるってことですか?」 「伊織くん、可愛いから特別ね」 スーツ姿に戻った彼をぎゅっと抱き締める。頭をぽんぽんと二回撫でられたのも、ペット扱いされている気分だが、それはそれで嬉しかった。 彼は僕の腕の中で身動ぐと、上目遣いになってこちらを見上げてきた。 「俺なんかの何がいいの? ただの疲れたオッサンなのに」 「それ本気で言ってます?」 「だって伊織くんなら、もっと若くて綺麗な相手、選び放題でしょ」 「歳はあんまり関係なくて」 うーん、と考え込みながら、彼のつむじのあたりに鼻を埋める。ホテルに備え付けのシャンプーの香りは今の僕とお揃いだ。 その奥にあるかもしれない彼自身の匂いを探して、目を閉じてすんすん嗅ぎながら、口を開く。 「僕は綺麗なものが好きなんです」 「……尚更わかんないよ」 「アヤメさんを撮ってみたいです」 被写体としての彼はどんな背景に映えるだろう。素直で凛とした、それでいて少し儚げな彼の魅力を引き立たせるのは。 薄暗いバーのカウンターも、霧雨にけぶる路地裏も、シーツの海も似合っていたけれど、もっと美しい構図がきっとあるはずだ。 ひとり想像を巡らす僕に、彼はくすくす笑いながら身を捩った。 「嬉しいけど、写真撮られるの苦手なんだよな、俺」
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