雨の匂い

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

雨の匂い

 突然空が暗くなったかと思うと、バケツをひっくり返したかのような豪雨に見舞われた。天気予報では降水確率が10%だったので、傘を持参しているわけもない。正面に映る建物へ吸い込まれるように入っていった。  カランカラン──ドアベルが軽快な音を立てる。店内は薄暗い。 「いらっしゃいませ」  右手カウンター越しから声を掛けられた。不思議と落ち着く低音。 「おや? ずぶ濡れですね。外はそんなに酷い雨ですか?」 「ええ、凄いですよ。ゲリラ豪雨って言うんですか? おかげでこの有様です。雨宿りをしようと思ってここに」  マスターはカウンター席へと俺を誘った。  商売上手と捉えるかどうかは人それぞれだ。特に不快感を催すこともなく素直に着席しようとしたが、躊躇ってしまう。 「よかったら、このタオルをお使いください。濡れたまま座っていただいても構いませんよ」  その言葉に安堵し、腰を落ち着けた。 「この前クリーニングに出したばかりなのになぁ」  手にしたタオルで顔を拭きながらぼやいてしまう。 「それは災難でしたね」 「まったくですよ。天気予報もこの頃外れることが多い気がしてね。マスター、ダイキリをお願いします」  頭から零れ落ちる雫をタオルで軽く拭いながら注文をすると、「かしこまりました」と穏やかな調子で返してきた。  マスターは鮮やかな手つきでカクテルを作ると、すっとカウンターに置いた。ありがとうと笑顔を返して口につけると安堵が広がっていく。 「雨、というのは口実ですよね?」  その言葉に少々驚きを隠せなかった。雨に打たれたことは想定外だったけれども、この店のドアをくぐることは最初から予定していたことだったからだ。  どうして見抜けたのだろうか。 「5年ぶりくらいでしょうか」 「俺のことを憶えてくれているんだ」 「こういう仕事をしているとね」  マスターは少し照れた表情になる。 「最後にいらしたときは彼女と一緒だったと記憶していますよ」  その言葉で俺の表情は曇った。  察したのか、マスターは気まずそうにする。  暫し無言の時間が流れた。店内には他に客はいないので、静かに流れるクラシック調の音楽だけがゆっくりと室内を満たす。 「すいません。あの日、とても将来を楽しみにされていました。てっきり結婚されていて、そろそろマンネリに飽きて、愚痴を零しに来たのかなと勘違いしてしまいまして」  静寂を破ったのはマスターだった。 「分かれたんですよ。5年前に」  俺は5年前のあの日の顛末について語りだした──  このバーで雰囲気を盛り上げてプロポーズした。しかし、彼女の返事は色よいものではなかったのだ。所詮はキープに過ぎないことをつきつけられた。数日前に本命の彼氏からプロポーズされて、それを受け入れたことを告げられてしまった。  湿った空気に包まれていたのだが、しとしとと小雨が降りだす。これまで練ってきた計画が一瞬にして瓦解。彼女の言葉をすぐには理解することができなかった──いた、理解したくなかったのだ。  残酷な別れ話を切り出されて力なく首を縦に振るしかなかった俺は、自棄になる元気もなくまっすぐに帰宅して着替えることなくそのまま布団に潜り込んで、泥のように眠った。 「そうだったんですね」  申し訳なさそうな表情をするマスターを見て、俺は少し微笑んだ。 「責めたりはしないですよ。ここに来たのは別の内容があったからです」  空になったグラスを右手で軽く持ち上げた。同じものをもう一杯という催促のつもりだ。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!