踏み出す決意

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踏み出す決意

「旅行には行かれていないのですか?」  そっとカウンターにショートカクテルグラスを差し出す。淡い白さが店内の照明に照らされ、不思議な輝きを放っていた。  一人旅行が好きということは昔話したかもしれないが、憶えていない。軽く触れた程度だったのではないだろうか──プロなんだなと思いながら一口だけ含んだ。 「全然行ってないですね。抜け殻のような生活を送り続けているので」  俺はまだ引き摺ってるのかもしれないという言葉を飲み込んだ。敢えて言わなくても伝わっているだろうし、その事実から目を背けたい自分に気づく。マスターも察したのか、口を挟むことはしない。きっと俺が話し出すまで黙々と仕事をするのだろう。自然と俯いてしまった。静かな時間が再び流れる。 「新しい一歩を踏み出そうとしていないんですよ」 「そんなこと、ありませんよ」 「え?」  驚いて顔をあげると、マスターは手を止めてまっすぐ俺を見ていた。否定語を極力避けるのが接客業だ。言葉選びが繊細であろう彼からきっぱりと否定されるとは予想だにしていなかった。 「本当に新しい一歩を踏み出すつもりがないのであれば、いくら土砂降りで濡れたからといってここにはいらっしゃらないかと」  心の中を見透かされている気がした。しかし威圧的な雰囲気はなく、愚痴をすべて受け入れたうえで気づかせてくれている感じがする。まるで最初の一歩を促すかのようだ。 「行き当たりばったりの旅行が好きだから、行き先を決めない。そして、ふらりと立ち寄った町の料理を楽しむ。そういったことを、以前目を輝かせてお話しになっていらっしゃいましたよ」  7年くらい前だろうか。彼女と付き合っているときに、一人でこのバーを訪れ、惚気話をしながらも一人旅ができない愚痴を零していた。その時の光景が頭の中を駆け巡る。 「そうでした。自分の知らない食材や思いもよらない調理法を目にするかもしれない。それが楽しみで旅行が好きだったんです」 「過去形なんですか?」  俺は言葉が出なかった。 「嗾けしかけるようで申し訳ないのですが、また行かれたらどうでしょうか。ここに来られたのも何かのきっかけです」  すぐに返答することができなかった。  心のどこかでこう言って貰うことを望んでいたのだろう。マスターの言葉に安堵する自分がいた。マンネリからの脱出を求めて、相談したくてここの戸に手を掛けたのは、無意識の訴えだったのかもしれない。  改めてマスターの方を向いた。 「ありがとうございます。次の週末、どこかに出かけてみます」  目を逸らすことはなかった。心は晴れやかだ。 「私も次の週末はこの店を休みにしようかな」 「え?」  先ほどとは別の意味で驚いた。 「この仕事にマンネリを感じていてね。それに新しい酒のレシピも見つけられるかもしれませんし」  照れて頭を掻いている。こんなマスターを今まで見たことはなかった。
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