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     ◆ 「櫻川先生、 お願いします! 後生です! 先生が欲しがってた下僕でも奴隷でもなんでもしますから!」 「人聞きの悪い言い方をするな!」  本や書類が山積みの机から顔を上げ、櫻川(さくらがわ)譲治(じょうじ)はソファの上で土下座をしている昴星に一喝した。 「そもそもソファで土下座ってお前…、おちょくってんのか?」 「え…床に座ったら汚れそうだし…」  困惑気味にそう答えると、櫻川は無言で立ち上がり、昴星の元へ歩み寄る。すると、いきなりしゃがみ込んで昴星の体に腕を回した。 「わ、ちょ、待って。何っ? 先生! ごめんなさい! 床、床でしますから!」  櫻川はソファの上で正座していた昴星を抱え上げると、荷物を運ぶ業者のような手際の良さで部屋から追い出した。 「一般常識を身に付けてこい」  櫻川はそう言うと、ソファで土下座する際、昴星が床に脱ぎ捨てていたスニーカーをご丁寧に手に持たせてくれた。おまけに部屋の鍵もきっちり掛けたようだ。  急いでスニーカーを履いて立ち上がると、扉をどんどんと叩いて呼びかける。 「先生! ちょっと! 開けてください! 僕も困るんですよー! ねえ、先生ー!」  その後は何を言って呼びかけようと、櫻川は鍵を解錠することはなかった。  昴星はなんの反応もない扉の前で項垂れそうになり、この程度でめげてはだめだ、と頭を振った。半ば意地になって「また来ます」と中へ呼びかけ、「櫻川研究室」とプレートの嵌められた部屋を後にした。  実は櫻川と昴星は、先生・生徒という関係性以前に面識している。居酒屋『kirishima』で釣りも取らずに帰った店主の友人は、この櫻川だ。事前にリサーチしてからその店でバイトを始めたから間違いない。  肩を落としてとぼとぼ歩いていると、SNSアプリのグループメッセージから通知が届いた。颯と近田からだ。  さっそく表示すると、首尾はうまくいったのか、大丈夫だったのか、といった心配している言葉がスタンプと共にあった。瞬間、昴星は泣き付きたい衝動に駆られたが、すんでのところで飲み込む。なるべく明るく楽しそうなスタンプを探して「大丈夫」と返信した。  彼らから情報をもらってからおよそ一カ月ほどになる。  祖母のブローチの台座を壊してしまったことを、一番に相談したのは颯と近田だ。  幼馴染の颯は知っているが、中学一年生の時から父の転勤の都合で昴星だけ祖父母宅で暮らしている。転勤以前は両親も祖父母宅に住んでいたが、友人にも恵まれていた昴星は祖父母宅から離れるという選択肢が頭になかった。祖父母も、昴星が残ることに特段反対もせず、祖母に至っては「お友達と離れるのも寂しいわよねえ」とやんわり両親に口添えしてくれたことが大きい。  性格的にも温和で、祖父母に若干甘やかされて育ったところもあるにはあるが、手の掛からない子供だったので反対する理由もなかったのだろう。また、昴星も両親が不在だからといって祖父母に配をかけないよう、良い子だと思ってもらえるよう気を配っていた。  そんな昴星だからこそ、素直にブローチを壊してしまったことを言い出せず、悩みに悩んで颯と近田に相談したのだ。  二人とも親身になって相談を聞いてくれ、色々な情報を掻き集めた結果、工学部情報工学科准教授、櫻川譲治に白羽の矢が立ったのだ。 「参ったなぁ…」  ただ、前途多難であることは否めない。  最初の手筈では、バイト先である『kirishima』で顔なじみの店員と客の仲になり、徐々に相談などを打ち明ける間柄─、という想定だったのだが、いかんせん上手く事が運ばない。飲食店の繁忙時間と櫻川の入店時間のタイミングの悪さも手伝って、初顔合わせ以降ほとんど会話という会話がない。下手をすると、来店しているのを気付いていても顔さえ合わさないので、昴星のことすら忘れているかもしれない心配さえあった。  昴星はそこまで考えてはたと気がついた。 「そういえば…店で会ったこと全然会話に出てない…?」  これは昴星のことを完全に忘れているパターンでは、と疑念が湧く。何度となく研究室を訪れているが、櫻川にはバイト先のことを一度も触れられたことがない。  もしかしなくても、昴星のことを本当に分かっていないのなら、一介の生徒が馴れ馴れしく他学部の研究室に入り込むのは迷惑千万だろう。いくらひとが居ないときを見計らって来たとしても、櫻川にとってみれば迷惑な上に不審者だ。言葉に出さないだけで実は怒っていたのかもしれない。  考えるほど不安になり、昴星は立ち止まって研究室を振り返る。ちょうど部屋に入って行こうとする生徒が扉の前でガチャガチャとノブを捻って開けようとしている所だった。間も無くして扉が開き、櫻川の横顔が見える。普段通りの不機嫌そうな顔に少しだけほっとして、また室内に入っていく櫻川を見送った。  今日は金曜日だ。バイト先に櫻川があらわれる率は高い。何としても距離を縮めなければ。  それもこれも、すべては祖母のブローチのためのなのだ。
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